第二次中東戦争は「スエズ危機」とも呼ばれる。ということはもちろん、スエズと関係があるんですね。スエズって言ったら、エジプトにある運河だったか?だけど、イギリスも関わっているんだって?第二次中東戦争がどんな戦争だったのか、詳しく見てみよう。

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。専門として学ぶ近現代の国際政治に関する知識を活かし、今回は「第二次中東戦争 スエズ危機」について解説する。

第二次中東戦争はどんな戦争?

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中東では20世紀の半ばから後半にかけて、4回にわたる大規模な武力衝突が発生しました。総称して、中東戦争と呼ばれています。「第二次中東戦争」はそのうちの2つ目の戦争です。

1956年、イギリスとフランスのバックアップを受けたイスラエルがエジプトに侵攻したことで、第二次中東戦争が開戦。この戦争の直接的な引き金となったのが、エジプトによるスエズ運河の国有化政策でした。そのため、第二次中東戦争は「スエズ危機」もしくは「スエズ戦争」と呼ばれることもあります。

なぜエジプトはスエズ運河を国有化したのか

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By Hajor - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

アスワン・ハイ・ダムの建設計画

スエズ運河の国有化宣言の背景にあるのは、アスワン・ハイ・ダムの建設です。

エジプトは以前から、ナイル川の氾濫防止や農業の灌漑用水の確保などのため、ナイル川にダムを建設する構想を練っていました。ナイル川では20世紀の初頭に完成したアスワン・ダムが使われていたのですが、これだけでは不十分だったのです。そのため、同じアスワン地区に新たにアスワン・ハイ・ダムを建設する計画が立てられました。しかし、ダムの建設計画はいったん中止となります。1952年にエジプト革命が起き、政権が交代になったためです。

その後、国の工業化を目指すうえで電力確保が必要であること、そして利益の獲得源にもなることから、ナセル大統領の率いるエジプト革命政府が再びダム建設を推進し始めました。こうして、アスワン・ハイ・ダムの建設が実現に向けて動き出します。

ダムの建設資金とするためにスエズ運河を国有化

アスワン・ハイ・ダムの建設に向けて、当初はアメリカやイギリスなどから資金が提供される予定でした。しかし、融資の申し出は撤回されてしまいます。アメリカやイギリスが、エジプトのソ連寄りの態度を嫌ったためです。時代は東西冷戦のさなか。エジプトはもともと、東西陣営どちらにも属さずにアラブの指導者としてふるまっていました。しかし、東側陣営のチェコスロバキアと武器の取引を行ったため、アメリカなどの西側諸国はこれを不快に思ったのです。

資金がなければ、アスワン・ハイ・ダムの建設を進めることはできません。そこで、ナセル大統領はスエズ運河を国有化してダム建設の資金源とすることにしました。1956年7月、エジプトはスエズ運河の国有化を宣言。これは特にイギリスやフランスに衝撃を与え、第二次中東戦争を引き起こすきっかけとなったのです。

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どうしてイギリスはエジプトと敵対したのか

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スエズ運河は航路のかなめ

スエズ運河は、エジプトの北東部に位置する人口運河です。ヨーロッパとアジアを結ぶ最短の航路の一部であることから、多くの船が利用しています。もしスエズ運河を通ることができなければ、ヨーロッパからアジアまで行くためにはアフリカ大陸に沿って南下しなければいけません。南アフリカの喜望峰を通るルートです。非常に大回りで、相当な日数が余計にかかってしまいます。

そのため、スエズ運河は地理的にとても重要な場所に位置しているのです。

スエズ運河の国有化に反発したイギリス

エジプトによるスエズ運河の国有化宣言に大きな危機感を持ったのは、イギリスです。

当時、イギリスは実質的にスエズ運河を支配していました。スエズ運河は19世紀の後半からイギリスの管理下にあり、軍事的に重要な役割を果たしていたのです。イギリス軍は、第二次世界大戦を経てなお駐留を続けていました。スエズ運河をエジプトに国有化されてしまうと、イギリスは今までの権益を失ってしまいます。それどころか、自由にスエズ運河を航行できなくなってしまったら、貿易や国防上の大問題となる可能性もあるのです。

イギリスはこのような理由から、エジプトがスエズ運河を国有化するような事態は阻止したいと考えました。そのため、フランスやイスラエルと共に、エジプトに対して攻撃を仕掛ける流れをつくったのです。

フランスとイスラエルがイギリスに同調したのはなぜ?

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フランスの懸念はアルジェリア問題

もちろんフランスも、スエズ運河がエジプトの国有化となることには危機感を抱いていました。イギリスと同じように、フランスもスエズ運河に対して権益を得ていたからです。しかし、フランスがイギリスと共にエジプトに攻撃を仕掛けたのは、それだけが理由ではありません。

当時、フランスは自国の事実上の植民地だったアルジェリアとの間に問題を抱えていました。フランスからの独立を目指し、アルジェリアで戦争が起きていたのです。フランスに立ち向かっていたアルジェリア民族解放戦線という組織は、エジプトのナセル大統領からのサポートを受けていました。そのためフランス政府は、ナセル政権を打倒すれば長引くアルジェリアの問題を収束させることができると考えたのです。

フランスがイギリスと共にエジプトを倒そうと試みたのには、このような背景がありました。

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アラブ諸国と敵対していたイスラエル

イスラエルとエジプトの間には、より根本的な敵対関係がありました。そもそもイスラエルは、アラブ諸国とは犬猿の仲。両者はパレスチナの帰属をめぐって対立しているからです。

パレスチナは、古くからアラブ民族が生活する土地でした。しかし近代になって、2000年以上前にパレスチナに王国を築いていたユダヤ人が世界各地から戻ってくるようになります。そして第二次世界大戦後の1948年、ユダヤ人はパレスチナに自分たちの国家であるイスラエルを建国したのです。このため、もともとその地に住んでいた多くのアラブ民族が故郷を追われてしまいました。こうした人々は、パレスチナ難民と呼ばれています。このような背景から、イスラエルとアラブ諸国は敵対関係にあったのです。

第一次中東戦争は、イスラエルの建国とパレスチナをめぐる対立が引き金となって生じた武力衝突。そして、中東戦争は基本的にイスラエル対アラブ諸国という構図で繰り広げられています。そのアラブ諸国の盟主がエジプトなのです。イスラエルは自国のさらなる領土拡大のため、エジプトを弱体化させる機会を常に狙っていました。

第二次中東戦争の開戦から停戦まで

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イスラエルの先制攻撃

それぞれ異なる背景はあったものの、イギリス、フランス、そしてイスラエルの利害は一致していました。三か国は、エジプトへの攻撃を計画します。

1956年10月29日、イスラエルがエジプトのシナイ半島に侵攻しました。エジプトは当然、自国領を守るために迎撃。そこでイギリスは、イスラエルとエジプトの両軍に対して撤退するよう勧告します。スエズ運河を失う訳にいかないエジプトは、撤退勧告を拒否して抗戦を続けました。しかし、これはイギリス側の作戦だったのです。

イギリスとフランスは、地域の安全維持を口実にしてスエズ地区に軍隊を派遣。エジプト国内への攻撃も開始しました。こうしてイギリスやフランスは、スエズ運河を自らの支配下に入れようとしたのです。

国連が停戦を要請

イスラエルとイギリス、フランスは、想定通りエジプトに対して優位に戦いを進めました。

しかし、国際社会はエジプトの味方につきます。イスラエルがエジプトに先制攻撃を仕掛けてほどなく、アメリカは国連の安全保

第二次中東戦争が各国にもたらした影響

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\次のページで「イギリスとフランスの誤算」を解説!/

イギリスとフランスの誤算

イギリスとフランスの想定では、アメリカが自分たちの味方となるはずでした。しかし、それが大誤算。アメリカのアイゼンハワー大統領は、三か国にエジプトからの撤退を求めたのです。このとき、アメリカは事実上イギリスやフランスと敵対し、ソ連と協力したになっています。東西冷戦のただなかにおいて、これは驚きの出来事と言えるでしょう。

結果として、イギリスとフランスはアメリカが求めた停戦に従わざるを得ませんでした。これは、国際情勢に与えるアメリカの影響力がイギリスやフランスよりも強大だということです。大国間の微妙なパワーバランスも露呈したのが、このスエズ危機でした。

エジプト侵攻の失敗により、イギリスの国力は凋落します。巨額の戦費を拠出したものの相応の成果を得ることはできず、ポンドも下落し、徐々に経済力が低下していったためです。フランスもこの戦争の結果、国内の政治がより脆弱となり、政変が速められることとなります。また、対外戦略を大幅に変更するきっかけともなりました。スエズ危機は、国際政治におけるイギリスやフランスの弱体化にもつながるような結末を招いたのです。

イスラエルの中東戦争は続く

イスラエルは第二次中東戦争で、自国の軍事力をアラブ諸国に見せつけることに成功します。しかし政治的には、国際社会を味方につけたエジプトに敗れたと言えるでしょう。

イスラエルにとっては決して、スエズ危機の終わりは中東戦争の終わりではありませんでした。この後もアラブ諸国との対立は続き、第三次、そして第四次中東戦争へとつながっていくのです。

英雄ナセル大統領の勝利

軍事的にはエジプトはイスラエルなどに敗れましたが、第二次中東戦争の総合的な勝者はナセル大統領だと言えるかもしれません。エジプトはスエズ危機において、国際世論を味方につけることに成功しています。また、イギリス・フランス・イスラエルを相手に臆せず戦い、最終的にはスエズ運河の国有化も実現。アラブの人々から称賛を受けたのです。困難なスエズ危機の中でエジプトを率いたナセル大統領は、「アラブ人の誇り」とも呼ばれるようになりました。

しかしもちろんエジプトにとっても、スエズ危機の終わりが中東戦争の終わりというわけではありません。中東での争いは、この後も長期にわたって続いたのです。

「中東戦争」の枠を超えた第二次中東戦争

中東戦争は、パレスチナの帰属をめぐる対立から繰り広げられたアラブ諸国とイスラエルを中心とする戦争です。第二次中東戦争にも、イスラエルとその対抗勢力であるアラブの盟主エジプトが参加しました。

しかし実質的に、スエズ危機の中心はアラブ諸国でもイスラエルでもありません。第二次中東戦争を動かしていたのは、むしろイギリスなのです。イギリスは、以前から「大英帝国」として中東やアジアなど幅広い地域でその影響力を行使していました。スエズ危機の背景にも、自国に有利となるような状況を保ちたいイギリスの思惑が見え隠れします。

そんな中、実は第二次世界大戦後、欧州列強の植民地政策に反対していたのがアメリカでした。スエズ危機でイギリスやフランスのやり方に“NO”を突き付けたアメリカは、正義を比較的まっとうしようとしているように見えませんか?大国としての理性と余裕があったのかもしれません。もちろんアメリカにもまた様々な意図はあったわけなのですが、それはまた別の機会にお話ししましょう。

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第二次中東戦争(スエズ危機)を招いたのはイギリス?国際政治を学ぶライターがわかりやすく解説

イギリスとフランスの誤算

イギリスとフランスの想定では、アメリカが自分たちの味方となるはずでした。しかし、それが大誤算。アメリカのアイゼンハワー大統領は、三か国にエジプトからの撤退を求めたのです。このとき、アメリカは事実上イギリスやフランスと敵対し、ソ連と協力したになっています。東西冷戦のただなかにおいて、これは驚きの出来事と言えるでしょう。

結果として、イギリスとフランスはアメリカが求めた停戦に従わざるを得ませんでした。これは、国際情勢に与えるアメリカの影響力がイギリスやフランスよりも強大だということです。大国間の微妙なパワーバランスも露呈したのが、このスエズ危機でした。

エジプト侵攻の失敗により、イギリスの国力は凋落します。巨額の戦費を拠出したものの相応の成果を得ることはできず、ポンドも下落し、徐々に経済力が低下していったためです。フランスもこの戦争の結果、国内の政治がより脆弱となり、政変が速められることとなります。また、対外戦略を大幅に変更するきっかけともなりました。スエズ危機は、国際政治におけるイギリスやフランスの弱体化にもつながるような結末を招いたのです。

イスラエルの中東戦争は続く

イスラエルは第二次中東戦争で、自国の軍事力をアラブ諸国に見せつけることに成功します。しかし政治的には、国際社会を味方につけたエジプトに敗れたと言えるでしょう。

イスラエルにとっては決して、スエズ危機の終わりは中東戦争の終わりではありませんでした。この後もアラブ諸国との対立は続き、第三次、そして第四次中東戦争へとつながっていくのです。

英雄ナセル大統領の勝利

軍事的にはエジプトはイスラエルなどに敗れましたが、第二次中東戦争の総合的な勝者はナセル大統領だと言えるかもしれません。エジプトはスエズ危機において、国際世論を味方につけることに成功しています。また、イギリス・フランス・イスラエルを相手に臆せず戦い、最終的にはスエズ運河の国有化も実現。アラブの人々から称賛を受けたのです。困難なスエズ危機の中でエジプトを率いたナセル大統領は、「アラブ人の誇り」とも呼ばれるようになりました。

しかしもちろんエジプトにとっても、スエズ危機の終わりが中東戦争の終わりというわけではありません。中東での争いは、この後も長期にわたって続いたのです。

「中東戦争」の枠を超えた第二次中東戦争

中東戦争は、パレスチナの帰属をめぐる対立から繰り広げられたアラブ諸国とイスラエルを中心とする戦争です。第二次中東戦争にも、イスラエルとその対抗勢力であるアラブの盟主エジプトが参加しました。

しかし実質的に、スエズ危機の中心はアラブ諸国でもイスラエルでもありません。第二次中東戦争を動かしていたのは、むしろイギリスなのです。イギリスは、以前から「大英帝国」として中東やアジアなど幅広い地域でその影響力を行使していました。スエズ危機の背景にも、自国に有利となるような状況を保ちたいイギリスの思惑が見え隠れします。

そんな中、実は第二次世界大戦後、欧州列強の植民地政策に反対していたのがアメリカでした。スエズ危機でイギリスやフランスのやり方に“NO”を突き付けたアメリカは、正義を比較的まっとうしようとしているように見えませんか?大国としての理性と余裕があったのかもしれません。もちろんアメリカにもまた様々な意図はあったわけなのですが、それはまた別の機会にお話ししましょう。

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