イギリスとフランスの誤算
イギリスとフランスの想定では、アメリカが自分たちの味方となるはずでした。しかし、それが大誤算。アメリカのアイゼンハワー大統領は、三か国にエジプトからの撤退を求めたのです。このとき、アメリカは事実上イギリスやフランスと敵対し、ソ連と協力した形になっています。東西冷戦のただなかにおいて、これは驚きの出来事と言えるでしょう。
結果として、イギリスとフランスはアメリカが求めた停戦に従わざるを得ませんでした。これは、国際情勢に与えるアメリカの影響力がイギリスやフランスよりも強大だということです。大国間の微妙なパワーバランスも露呈したのが、このスエズ危機でした。
エジプト侵攻の失敗により、イギリスの国力は凋落します。巨額の戦費を拠出したものの相応の成果を得ることはできず、ポンドも下落し、徐々に経済力が低下していったためです。フランスもこの戦争の結果、国内の政治がより脆弱となり、政変が速められることとなります。また、対外戦略を大幅に変更するきっかけともなりました。スエズ危機は、国際政治におけるイギリスやフランスの弱体化にもつながるような結末を招いたのです。
イスラエルの中東戦争は続く
イスラエルは第二次中東戦争で、自国の軍事力をアラブ諸国に見せつけることに成功します。しかし政治的には、国際社会を味方につけたエジプトに敗れたと言えるでしょう。
イスラエルにとっては決して、スエズ危機の終わりは中東戦争の終わりではありませんでした。この後もアラブ諸国との対立は続き、第三次、そして第四次中東戦争へとつながっていくのです。
英雄ナセル大統領の勝利
軍事的にはエジプトはイスラエルなどに敗れましたが、第二次中東戦争の総合的な勝者はナセル大統領だと言えるかもしれません。エジプトはスエズ危機において、国際世論を味方につけることに成功しています。また、イギリス・フランス・イスラエルを相手に臆せず戦い、最終的にはスエズ運河の国有化も実現。アラブの人々から称賛を受けたのです。困難なスエズ危機の中でエジプトを率いたナセル大統領は、「アラブ人の誇り」とも呼ばれるようになりました。
しかしもちろんエジプトにとっても、スエズ危機の終わりが中東戦争の終わりというわけではありません。中東での争いは、この後も長期にわたって続いたのです。
「中東戦争」の枠を超えた第二次中東戦争
中東戦争は、パレスチナの帰属をめぐる対立から繰り広げられたアラブ諸国とイスラエルを中心とする戦争です。第二次中東戦争にも、イスラエルとその対抗勢力であるアラブの盟主エジプトが参加しました。
しかし実質的に、スエズ危機の中心はアラブ諸国でもイスラエルでもありません。第二次中東戦争を動かしていたのは、むしろイギリスなのです。イギリスは、以前から「大英帝国」として中東やアジアなど幅広い地域でその影響力を行使していました。スエズ危機の背景にも、自国に有利となるような状況を保ちたいイギリスの思惑が見え隠れします。
そんな中、実は第二次世界大戦後、欧州列強の植民地政策に反対していたのがアメリカでした。スエズ危機でイギリスやフランスのやり方に“NO”を突き付けたアメリカは、正義を比較的まっとうしようとしているように見えませんか?大国としての理性と余裕があったのかもしれません。もちろんアメリカにもまた様々な意図はあったわけなのですが、それはまた別の機会にお話ししましょう。