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歴女が厳選!ロシアの名門「ロマノフ家」の強烈な4人の君主たち

よぉ、桜木建二だ。今回はロシアに君臨した名門ロマノフ家についてだ。ロマノフ家は300年もの間、ロマノフ朝を築いたんだ。

今回はそんな名門のルーツと歴代の有名な君主たちをヨーロッパ王室に詳しいまぁこと一緒に解説していくからな。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパ絵画が好きで、関連した本を読み漁り、歴女ライフ満喫中。ここ最近はロマノフ家に関する本を愛読中!特に好きなロマノフ家の君主はピョートル1世。そんなまぁこがロシアに君臨した歴代ロマノフ家の君主をピックアップして紹介していきます。

1 ロマノフ家とは?

image by iStockphoto

ロマノフ家とは、ロシアの名門一族。この一族のルーツは一体どこにあるのでしょうか。今回は歴代ロマノフ家の中でも、始祖ミハイル・ロマノフ、大帝と呼ばれたピョートル1世、女帝として名を馳せたエカテリーナ2世、帝政末期に一家もろとも虐殺されたニコライ2世の4人を取り上げていきます。

1-1 ロマノフ家のルーツ

ロマノフ家のルーツはどこかご存知でしょうか。なんとロシアではなく、ドイツ。もともとはドイツの貴族、コブイラ家がロシアへ移ったのです。そして時を経て、ロマン・ユーリエヴィチの代で、自らの名にちなみロマノフ家と改名。このロマノフ家がロシアの王朝を開くことになったきっかけは、リューリク朝の王、イワン雷帝からでした。ロマノフ家アナスターシャがイワン雷帝の妃に選ばれたことからロマノフ家は王朝を開くことにつながるのです。

1-2 雷帝とは?

雷帝こと、イワン3世キプチャク・ハン国の支配から抜けビザンツ帝国の後継者としてツァーリを名乗ります。15世紀末のことでした。イワンの治世で、ロシアの領土は広大となりました。

イワンは妃探しに舞踏会を開き、そこでロマノフ家アナスターシャと出会います。ここからロマノフ家とロシアの王室がつながっているのですね。イワンとアナスターシャの結婚生活は順風満帆に進みますが、突然彼女が急死することに。イワンは保守派の貴族による毒殺を疑います。

ロシアの王朝の歴史はこのように暗殺が多く、また政敵を追放するため偽者や実は生きていたなどという噂がよくありました。イワンは最愛の妻を奪われたことで疑惑のある貴族らに復讐を果たします。次々と粛清をしていったのです。彼のあだ名、雷帝と言われる所以ですね。イワン3世はロシアを束ね、絶対的な権力を持っていました。しかし晩年になると、癇癪をよく起こし誰にも止められないようになっていきます。

1-3 イリヤ・レーピン「イワン雷帝と皇子イワン」

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By イリヤ・レーピン投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, Link

この絵は、ロシアの画家レーピンの描く「イワン雷帝とその息子」です。絵画は2×2.5メートルという大画面で、登場人物たちは等身大。薄暗い部屋の中で老いた男が若者のこめかみを押さえながら両目を見開いていますね。若者の体はだらりと今にも力なく滑り落ちてしまいそう。若者のこめかみからは鮮血が流れ、ゆっくりと彼の最期が迫っているのが分かります。

この絵は雷帝イワンが息子と口論となり、誤って殺してしまう場面。雷帝は晩年になると誰かれ構わず、気に入らない者を王笏で殴っていました。王太子妃が妊娠中のため正装ではなく略装で式に来たため、雷帝は彼女を殴りました。それが元で流産してしまうことに。王太子は雷帝の部屋へ行き、抗議します。しかし怒りで自身を制御できなくなった雷帝は息子を手にかけました。気づいた時にはもう手遅れ。最愛の妻との間に生まれた息子は自分の愚かさによって命を落とす結果となったのでした。

1-4 ロマノフ朝の始祖ミハイル・ロマノフ

雷帝の死後、8年間の内乱を経てミハイル・ロマノフに王冠が回って来ました。当初は不安定な情勢で暗殺を恐れたミハイルでしたが、父フィラレートと共に奮闘。彼の治世は続き、農奴制を強化していきました。そして彼こそが、ロマノフ朝の始祖。ここから300年ロシアではロマノフ朝が続きます。

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ロシアの名門一族が実はルーツがドイツとは驚いたな。雷帝の死をきっかけにロシアは混乱し、ロマノフ家出身のミハイル・ロマノフが王座に就くことになったんだな。それじゃあ次はロマノフ家の中で大帝と呼ばれたピョートル1世についてみていくぞ。

2 ピョートル大帝

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By Deror_avi投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

ピョートル大帝は、ロシアの歴史の中でもかなり貢献した人物です。当時のヨーロッパではロシアは三流国との認識で、野蛮な国と思われていました。ピョートル大帝は自国が他の国よりもはるかに文明が遅れていることを知っていました。そんな彼はある行動に移すことにしました。それでは詳しく見ていきましょう。

2-1 権力争いのピョートル

ピョートルには強力なライバルがいました。腹違いの姉、ソフィアです。しかしなぜ姉ソフィアと弟ピョートルは争うことになったのでしょうか。それは彼らの父帝アレクセイ・ミハイロヴィチが後継者を指名していなかったため。まず帝政へピョートルの腹違いの兄が就きますが、病死。次に10歳のピョートルが冠を被ることに。しかしソフィアの陰謀でピョートルは危うく暗殺されそうになります。この時のトラウマで「双子座生まれの二重人格者」とあだ名されることに。

\次のページで「2-2 ソフィアの政策」を解説!/

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