今日は薩長同盟について勉強していきます。江戸時代の後期の日本は倒幕に向かっていき、やがて幕府は滅亡して明治政府による新政治が始まる……これがいわゆる明治維新です。

さて、そんな倒幕ムードに向かう中で様々なことが起こるわけですが、その一つが薩長同盟です。文字どおり薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的同盟である薩長同盟を、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から薩長同盟をわかりやすくまとめた。

薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だった

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公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩

薩摩藩と長州藩が政治的・軍事的同盟を結んだのが薩長同盟です。こう解説すれば一言で終わりなのですが、薩長同盟が意外に複雑なのは元々薩摩藩と長州藩は仲が悪かったという点で、犬猿の仲であるそれぞれの藩がなぜ同盟を結ぶに至ったかがそもそも疑問ですね。

そこでまず不仲の原因を解説すると、同盟を結ぶ以前、薩摩藩は公武合体派の考えを持っており、これは朝廷と幕府が協力して日本の政治を動かしていこうという考え方です。ちなみに、公武合体の「公」とは朝廷、「武」とは幕府を意味しています。

さて、一方の長州藩はこれと全く違った尊王攘夷派の考えを持っており、これは天皇を尊重して日本から外国人を追い払おうという考え方でした。天皇を第一に考える「尊王」、外国人を追い払う「攘夷」、これらの考え方が一つとなったのが尊王攘夷です。

薩摩藩と長州藩の衝突

公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩、それぞれ考え方が違うことで当然衝突が起こります。薩摩藩は同じ考えを持つ会津藩と共に尊王攘夷派を暗殺するなどしていましたが、一方の尊王攘夷派である長州藩は当時京都で暴動を起こしていました。

これに対して薩摩藩は尊王攘夷派の公家と長州藩を京都から追放…これが1863年に起こった八月十八日の政変です。追放された長州藩も黙っておらず抗議するため蛤御門へと挙兵、結果薩摩藩と武力衝突する事態となり、これが1864年に起こった蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、別名「禁門の変」とも呼ばれる事件ですね。

この戦いによって長州藩は敗北、しかも蛤御門から近い御所に向かって発砲したことから朝敵(天皇と朝廷に敵対する勢力)とみなされてしまいます。この戦いで長州藩は薩摩藩を深く恨み、それはわらじの裏に「薩賊会奸」と書いて踏みしめながら歩いたほどでした。

薩摩藩の変化 公武合体から倒幕へ

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薩英戦争で友好関係を築いた薩摩藩とイギリス

公武合体派の薩摩藩の考え方を変えたきっかけとなったのが生麦事件です。これは薩摩藩・島津久光一行が自分達の行列に入り込んだイギリス人を切りつけて殺傷した事件で、この事件によって薩摩藩はイギリスの怒りを買ってしまい、1863年に薩英戦争が勃発します。

当時イギリスの海軍は世界最強と謳われており、その点から薩英戦争の結果は容易に想像できたでしょう。しかし薩摩藩は意外にも善戦、イギリス海軍は事実上の勝利を諦めて横浜まで撤退したのです。薩英戦争は「日本は侮れない」と世界に知らしめる戦いとなりました。

この戦争後、薩摩藩とイギリスは共に認め合う良好な関係を築きます。イギリスは講和交渉を通じて薩摩藩を評価、薩摩藩もまたイギリスの文明と軍事力の高さを評価しました。こうして両者は友好関係を深めていき、薩英戦争は薩摩藩とイギリスの交流のきっかけとなったのです。

幕府への見切りによる倒幕への考えの変化

薩摩藩を評価したイギリスは、薩摩藩に最新の武器を売る、薩摩藩の留学生を受け入れるなど、薩摩藩が今後の日本の中心をなれるよう力を貸しました。こうしてイギリスの友好関係を深めた薩摩藩は、公武合体のその考えを徐々に変えていきます

公武合体とは幕府と朝廷が協力して政治を行って外国人を排除することですが、外国人の排除は無意味、そして外国に対して全く無力である幕府にもはや未来がないと考えたのでしょう。このため薩摩藩は日本のために幕府を倒すべき……つまり倒幕を考えるようになるのです。

とは言え、打倒幕府は容易なことではありません。イギリスから最新の武器を購入した薩摩藩は装備こそ整ったものの、倒幕実現のためには兵力が足らず、仲間となる藩を欲していました。そこで薩摩藩が目をつけたのが、犬猿の仲である長州藩だったのです。

長州藩の変化 尊王攘夷から倒幕へ

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幕府と海外に攻撃される長州藩

蛤御門の変によって朝敵とみなされた長州藩は弱体化、これを長州藩討伐の絶好の機会と狙ったのが幕府でした。幕府は日米和親条約・日米修好通商条約などを結んでおり、鎖国体制に終止符を打って開国路線を進めており、そのため尊王攘夷派でなおかつ力を持つ長州藩が邪魔だったのです

そこで幕府は諸大名に長州藩討伐を命令、これが長州征討と呼ばれるもので、1864年に第一次長州征討、1866年に第二次長州征討……長州征討は最終的に二度に渡って行われています。これに加え、さらに長州藩への追い打ちとなったのが下関戦争でした。

尊王攘夷派だった長州藩はその行動によって外国を敵を回しており、アメリカ・フランス・イギリス・オランダ、四か国の連合艦隊が下関の砲台を攻撃したのです。幕府に攻撃され、外国にも攻撃され、こうして長州藩は窮地に陥ってしまいました。

尊王攘夷の諦めによる倒幕への考えの変化

下関戦争で長州藩が学んだことは外国の強大さであり、そのためこれまで考えとしてきた尊王攘夷が不可能だと悟ります。また、長州藩は尊王攘夷の「尊王」から分かるとおり幕府と敵対する考えでしたから、尊王攘夷を諦めた長州藩は倒幕へと考えを変えたのです。

倒幕へと考えを変えた長州藩の最大の悩み、それは装備の問題でした。なぜなら朝敵とみなされた長州藩は武器を一切購入できず、敵対する幕府からもその許可がおりるはずありません。いくら力を持つ長州藩とは言え、武器のない状態で攻められてしまえばたちまち壊滅してしまうのは目に見えていますからね。

装備を欲するそんな長州藩にとって羨む存在だったのが、イギリスから最新の武器を購入できる薩摩藩です。また薩摩藩も味方となる兵力を増やしたいと考えており、倒幕の考えを中心に薩摩藩と長州藩……それぞれの藩の考えは一致することになりました

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坂本竜馬の活躍と薩長同盟の締結

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薩摩藩と長州藩の仲介として活躍した坂本竜馬

薩摩藩と長州藩、それぞれ倒幕の考えが一致しており、なおかつ薩摩藩は兵力を求め、長州藩は武器を求めていました。この状況から両藩の同盟が最善策であることは誰が見ても明らかですが、犬猿の仲である以上、同盟を結ぶことはそう簡単にはいきません。

そして、この状況を打破した人物こそ坂本竜馬です。坂本竜馬は薩摩藩と長州藩の状態から、二つの藩が力を合わせれば倒幕を実現できると考え、「亀山社中」と呼ばれる日本で初となる貿易会社を作りました。そして、この亀山社中を通じて薩摩藩と長州藩の関係を修復しようとしたのです。

薩摩藩の名義で最新武器を大量に購入、それを亀山社中で長州藩に売り渡し、長州藩からは米を購入してそれを薩摩藩に売る……このように、お互いの藩で不足しているものを仲介して売りました。薩摩藩から武器を譲ってもらう長州藩、長州藩から米を譲ってもらう薩摩藩、お互いの藩の関係は徐々に修復されていったのです

薩長同盟の締結

関係が修復されつつある中で会談の機会も作り、薩摩藩と長州藩の同盟が結ばれるのは時間の問題と思いきや、実際に同盟が結ばれるまでには時間を要したとされています。いかに関係が修復されつつあるとは言え、藩を攻撃した薩摩藩に対して長州藩も何度も頭を下げるわけにはいきません。

会談実現のためにも様々な案が練られましたし、会談の中でも同盟の話題へと進展することはなかなかなく、しかしここでも坂本竜馬が両藩をうまくまとめていきました。その苦労の末、1866年の3月についに薩長同盟が締結、薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的同盟が実現したのです

この薩長同盟は今でこそ歴史的出来事として名が残っているものの、当時は密約で交わされたものであったため、当時日本を治めていた幕府もこのことは全く知らない事実だったでしょう。ちなみに、同盟が結ばれた数ヶ月後には第二次長州征討が行われますが、この時薩摩藩は同盟を結んだ際の密約に従って長州征討には参加しませんでした。

倒幕の影響を与えた薩長同盟

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薩長同盟の内容

薩長同盟は六か条の約束で成り立っていますが、それらはいずれも倒幕を煽るものではありません。例えば「長州藩が幕府と戦争になった場合、薩摩藩は2000ほどの兵を向かわせること」、「万が一、長州藩が敗北した場合は長州藩を滅亡させないよう、薩摩藩は必ず長州藩を助ける為に尽力すること」などがあります。

このように「戦いを起こせ」よりも「戦いが起こったら守れ」の意味合いが強く、要するに戦争時においてお互いの助け合いを約束するのが薩長同盟の内容です。しかし、この薩長同盟は結果的に倒幕への基盤を固めることになり、その象徴と言えるのが先程も少し触れた第二次長州征討でしょう。

第一次長州征討で窮地に陥った長州藩でしたが、第二次長州征討の時には薩長同盟が成立しており、そのため薩摩藩は約束に従い長州征討に参加しませんでした。さらに長州藩にとって第一次長州征討と大きく違ったのは、坂本竜馬の亀山社中によって武器を手に入れていたことです。

江戸幕府の滅亡を決定づけた第二次長州征討失敗

最新武器を手に入れていた長州藩は第二次長州征討において幕府と対決、結果幕府に圧勝します。日本を治める幕府が藩に敗北したことは衝撃であり、江戸幕府の権威が失われた瞬間でした。第二次長州征討が失敗に終わったことで、幕府の武力が脅威でないことが日本中に知れ渡ってしまったのです。

また、幕府からすれば自分達以上の力を持つ長州藩と薩摩藩に対してこれ以上干渉することはできず、それは日本を治める力を失う……つまり滅亡を決定づけることになりました。最も、幕府を完全に滅亡させたのは後に起こった王政復古の大号令や戊辰戦争の開幕戦でもある鳥羽・伏見の戦いでしょう。

薩長同盟はこのどちらとも直接関係しておらず、その意味で「薩長同盟=江戸幕府滅亡の原因」というわけではありません。ただ、薩摩藩と長州藩を中心に倒幕ムードが加速していった点を考えると、この二つの藩の関係を修復させた薩長同盟は倒幕の直接的原因にはならないにしろ、大きな影響を与えたことに違いないでしょう

薩長同盟で複雑なのは同盟締結のいきさつ

薩長同盟の内容自体は簡単で、薩摩藩と長州藩が同盟を結んだというだけのことです。難しいのはそのいきさつで、「犬猿の仲である薩摩藩と長州藩がなぜ同盟を結んだのか?」、「なぜ犬猿の仲になったのか?」などの疑問でしょう。

ですから、今回はそれがしっかりと分かる流れで解説していきました。また、薩摩同盟には坂本竜馬をはじめとして他にも西郷隆盛などの有名な人物が関わっており、さらなる知識として後はその点を覚えておいてください。

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幕末日本史歴史江戸時代

敵対する薩摩藩と長州藩が手を結んだのはなぜ?「薩長同盟」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は薩長同盟について勉強していきます。江戸時代の後期の日本は倒幕に向かっていき、やがて幕府は滅亡して明治政府による新政治が始まる……これがいわゆる明治維新です。

さて、そんな倒幕ムードに向かう中で様々なことが起こるわけですが、その一つが薩長同盟です。文字どおり薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的同盟である薩長同盟を、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から薩長同盟をわかりやすくまとめた。

薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だった

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公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩

薩摩藩と長州藩が政治的・軍事的同盟を結んだのが薩長同盟です。こう解説すれば一言で終わりなのですが、薩長同盟が意外に複雑なのは元々薩摩藩と長州藩は仲が悪かったという点で、犬猿の仲であるそれぞれの藩がなぜ同盟を結ぶに至ったかがそもそも疑問ですね。

そこでまず不仲の原因を解説すると、同盟を結ぶ以前、薩摩藩は公武合体派の考えを持っており、これは朝廷と幕府が協力して日本の政治を動かしていこうという考え方です。ちなみに、公武合体の「公」とは朝廷、「武」とは幕府を意味しています。

さて、一方の長州藩はこれと全く違った尊王攘夷派の考えを持っており、これは天皇を尊重して日本から外国人を追い払おうという考え方でした。天皇を第一に考える「尊王」、外国人を追い払う「攘夷」、これらの考え方が一つとなったのが尊王攘夷です。

薩摩藩と長州藩の衝突

公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩、それぞれ考え方が違うことで当然衝突が起こります。薩摩藩は同じ考えを持つ会津藩と共に尊王攘夷派を暗殺するなどしていましたが、一方の尊王攘夷派である長州藩は当時京都で暴動を起こしていました。

これに対して薩摩藩は尊王攘夷派の公家と長州藩を京都から追放…これが1863年に起こった八月十八日の政変です。追放された長州藩も黙っておらず抗議するため蛤御門へと挙兵、結果薩摩藩と武力衝突する事態となり、これが1864年に起こった蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、別名「禁門の変」とも呼ばれる事件ですね。

この戦いによって長州藩は敗北、しかも蛤御門から近い御所に向かって発砲したことから朝敵(天皇と朝廷に敵対する勢力)とみなされてしまいます。この戦いで長州藩は薩摩藩を深く恨み、それはわらじの裏に「薩賊会奸」と書いて踏みしめながら歩いたほどでした。

薩摩藩の変化 公武合体から倒幕へ

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