幕末日本史歴史江戸時代

敵対する薩摩藩と長州藩が手を結んだのはなぜ?「薩長同盟」を元塾講師が分かりやすく5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は薩長同盟について勉強していくぞ。江戸時代の後期の日本は倒幕に向かっていき、やがて幕府は滅亡して明治政府による新政治が始まる……これがいわゆる明治維新だな。

さて、そんな倒幕ムードに向かう中で様々なことが起こるわけだが、その一つが薩長同盟だ。文字どおり薩摩藩と長州藩の政治的・軍事的同盟である薩長同盟を、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から薩長同盟をわかりやすくまとめた。

薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だった

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公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩

薩摩藩と長州藩が政治的・軍事的同盟を結んだのが薩長同盟です。こう解説すれば一言で終わりなのですが、薩長同盟が意外に複雑なのは元々薩摩藩と長州藩は仲が悪かったという点で、犬猿の仲であるそれぞれの藩がなぜ同盟を結ぶに至ったかがそもそも疑問ですね。

そこでまず不仲の原因を解説すると、同盟を結ぶ以前、薩摩藩は公武合体派の考えを持っており、これは朝廷と幕府が協力して日本の政治を動かしていこうという考え方です。ちなみに、公武合体の「公」とは朝廷、「武」とは幕府を意味しています。

さて、一方の長州藩はこれと全く違った尊王攘夷派の考えを持っており、これは天皇を尊重して日本から外国人を追い払おうという考え方でした。天皇を第一に考える「尊王」、外国人を追い払う「攘夷」、これらの考え方が一つとなったのが尊王攘夷です。

薩摩藩と長州藩の衝突

公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩、それぞれ考え方が違うことで当然衝突が起こります。薩摩藩は同じ考えを持つ会津藩と共に尊王攘夷派を暗殺するなどしていましたが、一方の尊王攘夷派である長州藩は当時京都で暴動を起こしていました。

これに対して薩摩藩は尊王攘夷派の公家と長州藩を京都から追放…これが1863年に起こった八月十八日の政変です。追放された長州藩も黙っておらず抗議するため蛤御門へと挙兵、結果薩摩藩と武力衝突する事態となり、これが1864年に起こった蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、別名「禁門の変」とも呼ばれる事件ですね。

この戦いによって長州藩は敗北、しかも蛤御門から近い御所に向かって発砲したことから朝敵(天皇と朝廷に敵対する勢力)とみなされてしまいます。この戦いで長州藩は薩摩藩を深く恨み、それはわらじの裏に「薩賊会奸」と書いて踏みしめながら歩いたほどでした。

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これで薩摩藩と長州藩が不仲の原因が分かっただろう。公武合体派の薩摩藩と尊王攘夷派の長州藩、要するに考え方の違いが原因というわけだ。それに加えて八月十八日の政変、蛤御門の変を経てそれぞれの藩は不仲どころか犬猿の仲になってしまった。

薩摩藩の変化 公武合体から倒幕へ

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