今回は漫画「センゴク」の主人公である、仙石秀久の登場です。秀久と言えば、戸次川の戦いでの失態が有名ですが、改易されたのちに大名復帰を果たした実力者でもある。

鈴鳴り武者、蕎麦切りなど数々のエピソードを残した仙石秀久について、戦国武将に目がないライターすのうと一緒に解説していきます。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。今回の主人公は漫画センゴクの主人公権兵衛。仙石秀久の生涯を戦国武将好きライターすのうが解説していく。

仙石家の四男として誕生、豊臣秀吉の家臣に抜擢される

Sengoku Hidehisa.jpg
By 不明 - 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

仙石秀久は、天分21年(1552年)仙石久盛の四男として、美濃国加茂郡黒岩(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)に生まれました。天文20年(1551年)生まれの説もあり。秀久より権兵衛のイメージが強いですね。久盛は美濃の土岐氏に仕えていましたが、斎藤道三の下剋上により没落。以後は、斎藤家の家臣となりました。秀久は7歳の時、叔母の婿であった越前国の萩原国満の養子となります。しかし、兄たちが相次いで亡くなり秀久が家督を継承することになりました。主君であった斎藤龍興が織田信長と対立した稲葉山城の戦いで敗北。14歳であった秀久は、敵将である信長に「風貌が勇ましい」と気に入られ、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の与力となりました。

豊臣秀吉の出世と共に、スピード出世した仙石秀久

image by PIXTA / 12797211

織田信長は、秀久を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の馬廻衆として召し抱えます。元亀元年(1570年)姉川の戦いで、浅井長政家臣の山崎新平を討ちとるなど活躍。天正2年(1574年)、秀吉が近江国の長浜城主になると、秀久は近江国野洲郡(現在の滋賀県)に1000石を与えられます。正室は羽柴家の家臣であり、黄母衣衆(きぼろしゅう)であった野々村幸成の娘、本陽院。

※黄母衣衆とは、豊臣秀吉が馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された者。

側室は、甲斐の浪士竹村新兵衛の娘、慶宗院。秀久は10男6女の子供に恵まれます。天正5年(1576年)から始まった中国征伐にも参加し、秀吉に従事して武功を挙げました。1578年には4000石を加増されます。天正8年(1579年)、茶臼山城主(現在の兵庫県神戸市)となり、有馬温泉を統括する湯山奉行にも任命されました。天正9年(1581年)黒田官兵衛らと共に、淡路島の岩屋城、由良城を支配下に置き淡路島平定に貢献。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長を討った明智光秀に与した淡路島の豪族、菅 達長(かん みちなが)を討伐します。

\次のページで「四国の長曾我部元親と対立、のちに大名に出世」を解説!/

四国の長曾我部元親と対立、のちに大名に出世

Tyousokabe Mototika.jpg
By 不明。 - 秦神社所蔵品。[1], パブリック・ドメイン, Link

天正11年(1583年)織田信長亡き後、後継者を巡り柴田勝家と羽柴秀吉が争い、賤ヶ岳の戦いへと発展します。秀久は、秀吉の命令により淡路島へと向かい、勝家側に付いた長曾我部元親と対立。手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めますが落とせずに撤退。その後、引田城の戦いで讃岐国の引田城に入城します。

長曾我部氏の家臣、香川信景の部隊を優勢に迎え討ちますが、長曾我部軍の総攻撃にあい、引田城は落城。秀久は敗走した際に、幟(のぼり)を取られる失態を犯したと言われています。同年、秀久は淡路平定の貢献を認められ、淡路国5万石の大名となり、洲本城主となりました。天正13年(1585年)秀吉本隊の四国攻めでは、以前落とせなかった喜岡城を攻略。木津城攻めでは、羽柴秀長隊として城の水をたち、落城に成功します。戦後の論功行賞では、讃岐国の1国を与えられ高松城に入城しました。

戸次川の戦いで敗北する

image by PIXTA / 38829483

豊後の大友宗麟が、島津軍に攻め込まれ豊臣秀吉に助けを求めました。秀吉は、天正14年(1587年)九州征伐において、秀久を四国勢の軍監に任命します。

※ 軍監とは軍事の監督をする職。こうして秀久は豊後に上陸。秀久の軍と四国勢の軍は合わせて6千程でした。しかし、この軍勢の士気はまさに最悪状態。長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)は、ついこの間まで秀吉とは敵同士。秀久とは何度も交戦した仲です。こんな、ミスマッチな軍で士気を上げろと言う方が無理な気がしますよね。

こうして、九州征伐の緒戦と言われる、島津家久率いる島津軍隊仙石秀久率いる豊臣軍による戸次川の戦いが始まりました。戸次川に陣を構えた秀久は、川を渡り攻撃するべきと主張十河 存保(そごう まさやす / ながやす)は賛成しますが、元親、信親親子は反対します。秀吉からも「援軍が来るまで待つように」と釘を刺されていました。ところが、秀久はこの命令を無視。川を渡り奇襲をかけますが、不意をつかれた秀久は敗走。続いた元親、信親親子、在保が島津得意の「釣り野伏せ」で攻撃され、信親と在保は討死。こうして、戸次川の戦いは島津軍勝利で終結しました。

戸次川の戦い後、改易処分となる

image by PIXTA / 46634086

戸次川の戦いに敗れた仙石秀久率いる豊臣軍。秀吉の忠告を聞かずに突っ走ってしまった秀久は、あろうことか讃岐国に逃げ帰ってしまいました。いくら最古参の家臣とは言えこの秀久の行動に激怒した秀吉は、讃岐の所領を没収し、改易処分とします。高野山に追放された秀久は幽閉生活を送ることになりました。敗北したとは言え、逃げるのは良くありませんよね。

鈴鳴り武者、仙石秀久登場

image by PIXTA / 30228094

改易後、高野山で幽閉生活を送っていた秀久は、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で動き出します。秀久は三男、仙石忠政と古巣の美濃で旧臣20名程を徴収し、浪人衆などを引き連れて秀吉の元に馳せ参じました。この時秀久は、徳川家康に陣借りを取り計らってもらい、徳川軍として参加。

※陣借りとは、戦の際に正規の軍でないものが、実費で参加すること。恩賞などは保証されないが、活躍の度合いによっては受けられる場合もあった。秀吉以外では、桶狭間の戦いで、前田利家も陣借りしている。

秀久の馬印は白布に「無」の文字陣羽織には無数の鈴を付け、秀久が歩くたびに鈴の音が鳴り響き、まさに敵に自分をアピールするかのようでした。鈴を付けるこで、敵に自分の居場所を分かりやすくしたと言われています。これが「鈴鳴り武者」と呼ばれた由縁だそうですよ。「無」の文字は、自分には何も無い、失うものは無い…そんな意味合いがあったのかもしれませんね。

\次のページで「小田原征伐で武功を挙げ、小諸城主となり大名に復帰する」を解説!/

小田原征伐で武功を挙げ、小諸城主となり大名に復帰する

image by PIXTA / 45612791

小田原征伐に参陣した秀久は、小田原城の支城(本城を守るように配置され築かれた出城のこと)である山中城攻めに豊臣秀次軍として参加。7万の軍勢で攻撃された山中城は、3千の兵で迎えうちますが半日で落城。小田原城の西の玄関でもある早川口攻めでは、出入り口を占拠するなどの活躍をし武功を挙げました。戦後、秀吉と謁見した秀久は武勇を讃えられ、秀吉が使用していた金の団扇(うちわ)を贈られたと言う逸話も残されています。

そして、小田原征伐での活躍を認められた秀久は、小諸城主(現在の長野県小諸市)となり、5万石を与えられ大名へと復帰。その後は秀吉の家臣として京に滞在し、朝鮮出兵の拠点となる肥前の名護屋城(現在の佐賀県唐津市)、更には伏見城(現在の京都府伏見区)の築城に貢献。7千石を加増され5万7千石の大名となりました。伏見城の築城の際に、天下の大泥棒と呼ばれた石川五右衛門を捕まえたとの言い伝えも残されています。

豊臣秀吉死後は、徳川家康の家臣となる

image by PIXTA / 7075351

慶長3年(1598年)豊臣秀吉が亡くなると、秀久は小田原征伐で陣借りの恩があり、懇意の仲であった徳川家康に接近します。徳川家臣となった秀久は、後に第2代将軍となる徳川秀忠に重宝され、徳川政権下でも出世していきました。

徳川家康の家臣となり、小諸藩主となる

天正18年(1598年)豊臣秀吉が死去すると、秀久は徳川家康に接近します。以前、小田原征伐で陣借りの恩があった秀久は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に与しました。次男である仙石秀範は、西軍に付いたことで勘当となり、浪人となった後に寺子屋の講師を務めています。秀忠が第二次上田合戦で真田昌幸に足止めされると、秀久自ら人質となり家康に早く合流できるように尽力しました。

関ヶ原の遅刻の失態を咎(とが)められた際にも家康との仲裁に入ったと言われています。家康、秀忠からの信頼も厚く、秀忠が徳川第2代将軍の座に就くと、外様大名ながら江戸城内では、準譜代大名としての扱いを受けていたそうです。後に、小諸藩主となり秀忠付きと言う名誉職も与えられました。秀久が江戸に参勤した時は、例外として妻子同伴が許され、お迎えが来ると言うVIP待遇だったとか。秀吉から一度は改易された秀久が、ここまで出世するとは誰も想像していなかったでしょうね。

蕎麦のルーツを作った仙石秀久

image by PIXTA / 21445304

小諸藩主となった秀久は、領地の改革や整備を積極的に行い、小諸城を近代的な城郭へと改築しました。秀久と言えば、もう一つの顔として蕎麦が有名ですね。殖産興業政策に目を付けた秀久は、小諸の名産品であった蕎麦に注目。丸いだけの蕎麦を食べやすく出来ないかと考え、蕎麦を切ることを発案。これが蕎麦切りと言われ、現在の細長い蕎麦となり、信州蕎麦、小諸蕎麦が誕生したルーツでもあるのです。蕎麦作りでは領民と親睦を深め、「仙石さん」の愛称で慕われました。

後に、信濃上田藩の3代藩主(但馬出石初代藩主)、仙石政明が但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市)に移封になると、蕎麦職人も一緒に同伴。こうして、豊岡市の郷土料理となっている出石蕎麦が誕生しました。移封先にも職人を連れて行くとは、仙石家では代々蕎麦がお気に入りだったのでしょうね。美濃時代仕えた斎藤龍興、豊臣秀吉、徳川秀忠と主君を転々とした秀久でしたが、慶長19年(1614年)病気を患い、64歳の生涯を閉じました。

\次のページで「有名武将に仕え、異例の出世をした仙石秀久。」を解説!/

有名武将に仕え、異例の出世をした仙石秀久。

秀吉の最古参の家臣として仕えた仙石秀久。敵将であった織田信長から、風貌を気に入られ召し抱えられたエピソードを持つ秀久ですが、いったいどのような面構えだったのでしょうね。主君であった豊臣秀吉の出世と同時にハイスピードで大名まで登り詰めた秀久。武勇を評価された秀久の実力もさる事ながら、秀吉と言う良き主君に恵まれたことも秀久の出世に繋がっていたと思います。せっかく抜擢された戸次川の戦いでの軍監。秀吉の忠告は分かっていても、手柄を立てようと焦った結果が改易処分となり、高野山に追放と言う最悪の結果となってしまいます。

それでも秀久は諦めませんでした。鈴鳴り武者を世間に知らしめた小田原征伐で、まさかの復帰。そこからは、武士として理想の出世街道を歩み、秀吉亡き後は、早くから徳川家康に従軍し自分の地位を確保して行きました。秀吉同様に派手なパフォーマンスが得意だったのかもしれませんね。現代でも人気のある蕎麦のルーツを作った秀久ですが、蕎麦切りを提案していなければ、蕎麦の原形は丸のままだったのかもしれません。

江戸時代後期に仙石騒動と言うお家騒動が起き、存続も危ぶまれた仙石家ですが減封処分で落着。その後は、明治まで続いていきました。さすが仙石家、生きながらえる力は健在ですね。武士として、そして食にも流通した秀久が漫画「センゴク」の主人公に抜擢されるのも分かる気がします。

" /> 「仙石秀久」天国から地獄を味わいながらも、諦めずに復活した人生を歴女がわかりやすく解説 – Study-Z
安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史江戸時代

「仙石秀久」天国から地獄を味わいながらも、諦めずに復活した人生を歴女がわかりやすく解説

今回は漫画「センゴク」の主人公である、仙石秀久の登場です。秀久と言えば、戸次川の戦いでの失態が有名ですが、改易されたのちに大名復帰を果たした実力者でもある。

鈴鳴り武者、蕎麦切りなど数々のエピソードを残した仙石秀久について、戦国武将に目がないライターすのうと一緒に解説していきます。

ライター/すのう

大河ドラマにはまり、特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。今回の主人公は漫画センゴクの主人公権兵衛。仙石秀久の生涯を戦国武将好きライターすのうが解説していく。

仙石家の四男として誕生、豊臣秀吉の家臣に抜擢される

Sengoku Hidehisa.jpg
By 不明 – 個人所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

仙石秀久は、天分21年(1552年)仙石久盛の四男として、美濃国加茂郡黒岩(現在の岐阜県加茂郡坂祝町)に生まれました。天文20年(1551年)生まれの説もあり。秀久より権兵衛のイメージが強いですね。久盛は美濃の土岐氏に仕えていましたが、斎藤道三の下剋上により没落。以後は、斎藤家の家臣となりました。秀久は7歳の時、叔母の婿であった越前国の萩原国満の養子となります。しかし、兄たちが相次いで亡くなり秀久が家督を継承することになりました。主君であった斎藤龍興が織田信長と対立した稲葉山城の戦いで敗北。14歳であった秀久は、敵将である信長に「風貌が勇ましい」と気に入られ、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)の与力となりました。

豊臣秀吉の出世と共に、スピード出世した仙石秀久

image by PIXTA / 12797211

織田信長は、秀久を木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の馬廻衆として召し抱えます。元亀元年(1570年)姉川の戦いで、浅井長政家臣の山崎新平を討ちとるなど活躍。天正2年(1574年)、秀吉が近江国の長浜城主になると、秀久は近江国野洲郡(現在の滋賀県)に1000石を与えられます。正室は羽柴家の家臣であり、黄母衣衆(きぼろしゅう)であった野々村幸成の娘、本陽院。

※黄母衣衆とは、豊臣秀吉が馬廻から選抜した武者で、武者揃えの際に名誉となる黄色の母衣指物の着用を許された者。

側室は、甲斐の浪士竹村新兵衛の娘、慶宗院。秀久は10男6女の子供に恵まれます。天正5年(1576年)から始まった中国征伐にも参加し、秀吉に従事して武功を挙げました。1578年には4000石を加増されます。天正8年(1579年)、茶臼山城主(現在の兵庫県神戸市)となり、有馬温泉を統括する湯山奉行にも任命されました。天正9年(1581年)黒田官兵衛らと共に、淡路島の岩屋城、由良城を支配下に置き淡路島平定に貢献。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長を討った明智光秀に与した淡路島の豪族、菅 達長(かん みちなが)を討伐します。

\次のページで「四国の長曾我部元親と対立、のちに大名に出世」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: