アメリカの歴史を学ぶとき「フロンティアの消滅」や「フロンティア精神」という言葉をよく耳にする。「フロンティア」はヨーロッパからの白人入植者がアメリカを作る過程で避けて通れない歴史。その当時のいろいろな出来事は、現在にも多くの影響を残している。

それじゃ、「フロンティア」とアメリカ形成の歴史について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカ形成期は、アメリカという国が発展するプロセスであると同時に、現在にも影響を残す多くの衝突があった。そこで、「フロンティア」をキーワードに、アメリカ形成期のできごとをまとめてみた。

「フロンティア」が意味することは?

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フロンティアとは直訳すると「辺境」。まだ開拓されていない、未発達の地というニュアンスで使われます。ただ、フロンティアという考え方は、ヨーロッパから入植した白人の目線によるものであることを忘れてはなりません。

アメリカ東海岸の13植民地から始まる

17世紀から18世紀にかけて北アメリカ大陸の東海岸にイギリス人が入植。それにより成立した植民地を「13植民地」と総称します。その時点で植民地はイギリス領として位置づけられていました。

本国による過度な課税などに反発した植民地は対立姿勢を強めていきます。その結果、13植民地は1776年にアメリカ独立宣言を発表。本国であるイギリスから独立を果たします。

フロンティア=未開の地が意味すること

入植者たちは、東海岸の人口増加やカリフォルニアにおける金鉱発見をうけて、さらなる新しい土地の獲得を目指します。それが「西部開拓時代」と総称。アメリカ形成期を象徴する時期となりました。

「フロンティア」は、白人が住んでいない「未開の地」であることが前提。その地に居住することは「文明化」の証とみなされました。実際は、以前から暮らしていた先住民(インディアン)を武力で制圧することを意味しました。

フロンティアの開拓を通じて白人開拓者は何と戦った?

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By Henry Bryan Hall - http://www.panteek.com/PicturesqueAmerica/index.htm, Public Domain, Link

ヨーロッパからの移民が増え続け、東海岸の植民地は爆発的な人口増加にみまわれます。そのため自力で生活の場を開拓する必要性に迫られました。そのような状況に追い込まれた人々は「未開拓の地」においていったい何と戦っていると感じられたのでしょうか。

西への前進をはばむ自然の脅威

ひとつはフロンティアを開拓する過程で直面する自然の脅威。多くの白人開拓者がときには家族を連れて荒野を移動します。整備されていない峡谷や砂漠地帯を横断することも多々ありました。

そのなかで命を落とす人は多く、開拓者が進む道には亡骸が残されていることも。そこでフロンティアの開拓は、人間の力をはるかに超えた自然の脅威との闘いとみなされました。

先住民(インディアン)もまた脅威として位置づけられた

自然にくわえて、フロンティアとされるエリアにもともと暮らしていた先住民(インディアン)も前進をはばむ脅威として認識。彼らは文明化されていない「野蛮人」として、開拓者たちと対比されるようになりました。

一部の部の先住民(インディアン)は武装化し、テリトリーに侵入してきた入開拓者に弓矢を向けるように。場合によっては大きな争いに発展。双方に多大な犠牲をもたらすことになりました。

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「フロンティア」が意味づけされたのは19世紀末

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By Alfred Jacob Miller - Walters Art Museum: Home page  Info about artwork, Public Domain, Link

「フロンティア」はアメリカの国家のイメージを作るキーワード。しかし最初からこの表現が存在していたわけではありません。19世紀末にフロンティアが消滅したというレポートの公表を受けて、アメリカの学者が改めて意味づけしたものです。

フレデリック・ジャクソン・ターナーが「フロンティア消滅」を機に定義

「フロンティア」がアメリカ史において何を意味するのかを定義したのがフレデリック・ジャクソン・ターナー。1893年に発表された論文「アメリカ史におけるフロンティアの意義」のなかで、フロンティアがアメリカの独自性を作ったと述べました。

この考察のきっかけとなったのが「フロンティア消滅」という歴史的事件。1890年に国勢調査局長がフロンティアと呼べるエリアがもはやないことを発表。フロンティアの開拓が一大目標であったアメリカ人にとって、その消滅は大きな衝撃をあたえるものでした。

アメリカ人の本質は「フロンティア」にあると考えた

アメリカの独自性というものは「開拓者の文明」と「未開の荒野の荒々しさ」が出会うことにより形づくられたというのがターナーの主張。これは「フロンティア学説」と呼ばれ、その後のアメリカの価値観に大きな影響を与えることになりました。

フロンティア開拓の歴史をふりかえり、アメリカ人の本質を定義することは、イギリスとは異なる国の独自性を主張するためにも大切なこと。イギリスの植民地であった過去を振り払うという意味もありました。

「フロンティア」をめぐる抗争は大陸横断鉄道により激化

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By Andrew J. Russell - This media is available in the holdings of the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 594940., パブリック・ドメイン, Link

フロンティアの移動を加速させたのが大陸横断鉄道の建設。どうじに大規模な建設事業は先住民(インディアン)との争いを激しくさせました。大陸横断鉄道の建設は、アメリカの技術力や経済力を世界に示す一大事業。ただ、その歴史的な意味づけは、どの立場に立つかにより大きく変化します。

アメリカ東海岸と西海岸をつなぐことを目指す

最初の大陸横断鉄道が開通したのが1869年。ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道による路線が、オマハからサクラメントをつなぐことに成功しました。

その後、たくさんの鉄道会社が東海岸と西海岸をつなぐ路線を開通。それにより鉄道に乗って西海岸へ移住する人が増加。西海岸はいっきに産業が発展し、開拓者を楽しませる娯楽施設も充実するようになりました。

先住民(インディアン)の生活圏を脅かすことでもあった

大陸横断鉄道はアメリカの産業の成長に貢献することになります。しかし、建設の過程で数多くの先住民(インディアン)の住みかを奪う結果に。先住民(インディアン)は先祖代々の土地を大切にする習慣があります。鉄道建設により先祖代々の土地が奪われ、反発を強めていきました。

鉄道会社は先住民(インディアン)と交渉する姿勢を見せるものの、その取引内容のほとんどが一方的なもの。そのため建設予定のエリアでは激しい争いが展開。戦いにより制圧された人々は、虐殺されるか不便な土地への強制移住を強いられました。

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「フロンティア」は西の方向だけを意味するの?

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By United States National Park Service-Map, Robert McGinnis-illustration - http://www.lib.utexas.edu/maps/national_parks/santa_fe_trail94.jpg, Public Domain, Link

「フロンティア」という表現はアメリカ東海岸から西海岸へ一直線に移動するというイメージがあります。しかし実際は、開拓者たちはあらゆる方向に土地を求めて移動していました

本当の「フロンティア消滅」はアメリカ中部

開拓者たちは、西海岸に開拓地がなくなると先住民(インディアン)の強制移住先であった中部に移動。支配エリアを拡大しようとします。そして「フロンティア消滅」の瞬間とされるウンデッド・ニーの虐殺がおこるに至ります

この舞台となったのがアメリカ中部のサウスダコタ州。実行部隊である第7騎兵隊は名誉勲章をあたえられ、その行為は賞賛されました。「戦い」と表現されることもありますが、逃げまどう人々を一方的に殺したというのが実際のところです。

アメリカ南西部はのちに「ラスト・フロンティア」として宣伝される

アメリカ中部にくわえて南西部も「ラスト・フロンティア」として強調されました。このエリアにおいても、先住民(インディアン)との抗争が激化。メキシコ領や独自の自治領が入り組んで存在していたことから長らく混乱した状況にありました。

「フロンティア消滅」のあとは、メキシコ国境に近いことによる異国風の文化や風景を利用して観光地化がすすみます。そのとき現地に住んでいる先住民(インディアン)の生活も、観光客の見世物として利用されました。

フロンティア抗争の犠牲者として有名になったカスター将軍

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「フロンティア」というと白人開拓者が勝利する姿を思い浮かべがち。しかし先住民(インディアン)との抗争のなかで亡くなた軍人を「名誉ある犠牲」としてたたえる傾向も。その代表的な人物がカスター将軍です。

カスター将軍とはどのような人?

カスター将軍の本名はジョージ・アームストロング・カスター。南北戦争で活躍した軍人でもあります。第7騎兵隊の連隊長に就任し、先住民(インディアン)の制圧を任されました。しかし1876年にスー族をはじめとする部族と抗争を繰り広げたすえに亡くなりました。

カスター将軍は、長めの金髪にひげをたくわえた風貌で、軍服にもかなりのこだわりをもっていた人物。当時のアメリカのメディアにも積極的に登場しました。有名人であった彼の戦死は大きなニュースとなり、英雄として定着するに至ります。

カスター将軍とシッティング・ブルの戦いは伝説化する

カスター将軍が戦死したのがモンタナ州におけるリトル・ビックホーンの戦い。このとき先住民(インディアン)は複数の部族が協定を結び、かなり大規模な部隊を組むに至りました。そのためカスター将軍の軍隊は圧倒的に不利な状況にあったと言われています。

圧倒的多数の部隊により、カスター将軍の一行は追い詰められていくことに。このとき部族の先頭に立ったのがスー族のシッティング・ブル。カスター将軍とシッティング・ブルは「犠牲者」と「加害者」として対立的に報道されました。

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19世紀末には「フロンティア」を再現するショウが流行

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By Courier Litho. Co., Buffalo, N.Y. - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID cph.3h00057. This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, Link

19世紀末になると現実のフロンティアは消滅するものの、西部開拓時代を再現するショウが大流行します。その演者は「本物のカウボーイ」や「本物のインディアン」とアピールされる人々でした。

ワイルド・ウェスト・ショウとはどのような見世物?

フロンティアの抗争や開拓地における生活を再現する見世物が「ワイルド・ウェスト・ショウ」です。このショウでは、先住民(インディアン)とカウボーイの銃撃戦や、馬乗りや銃を扱う技術などが披露されました。

ショウを行う一団のなかには先住民(インディアン)も含まれていました。観客のまえで虐殺される場面を演じることも。本物の先住民(インディアン)を混ぜることで、ショウの本物らしさを強めようとしたと考えられています。

本物の西部開拓者として人気を集めたバッファロー・ビル

ワイルド・ウェスト・ショウは数々のスターを生み出しました。そのなかでもっとも有名な人物がバッファロー・ビルです。本名はウィリアム・フレデリック・コディー。演者としてはもちろん、ショウの興行者としても大きな成功をおさめました。

バッファロービルが得意とした演目が「カスター将軍」。先住民(インディアン)に囲まれて殉死する場面がカスター将軍の風貌も含めて忠実に再現されました。カスター将軍を英雄化するイメージは、このようなショウを通じてさらに強化されていくことになります。

「フロンティア」は現在のアメリカ国家のイメージ形成にも活用される

「フロンティア」はアメリカ国内の土地に限られた考え方ではありません。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは1960年のアメリカ大統領選挙において国内における諸問題の解決を「ニューフロンティア」と表現。また、2001年からのアフガニスタン攻撃においては、「パキスタンが自由主義のフロンティア」という表現を用いています。アメリカ形成期を特徴づける「フロンティア」の「文明と野蛮」の対立のイメージは、いまなお継承されていると言ってもいいでしょう。

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アメリカの歴史世界史植民地時代歴史

アメリカはどのように形成された?「フロンティア」の意味や歴史を元大学教員がわかりやすく解説

アメリカの歴史を学ぶとき「フロンティアの消滅」や「フロンティア精神」という言葉をよく耳にする。「フロンティア」はヨーロッパからの白人入植者がアメリカを作る過程で避けて通れない歴史。その当時のいろいろな出来事は、現在にも多くの影響を残している。

それじゃ、「フロンティア」とアメリカ形成の歴史について、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。アメリカ形成期は、アメリカという国が発展するプロセスであると同時に、現在にも影響を残す多くの衝突があった。そこで、「フロンティア」をキーワードに、アメリカ形成期のできごとをまとめてみた。

「フロンティア」が意味することは?

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フロンティアとは直訳すると「辺境」。まだ開拓されていない、未発達の地というニュアンスで使われます。ただ、フロンティアという考え方は、ヨーロッパから入植した白人の目線によるものであることを忘れてはなりません。

アメリカ東海岸の13植民地から始まる

17世紀から18世紀にかけて北アメリカ大陸の東海岸にイギリス人が入植。それにより成立した植民地を「13植民地」と総称します。その時点で植民地はイギリス領として位置づけられていました。

本国による過度な課税などに反発した植民地は対立姿勢を強めていきます。その結果、13植民地は1776年にアメリカ独立宣言を発表。本国であるイギリスから独立を果たします。

フロンティア=未開の地が意味すること

入植者たちは、東海岸の人口増加やカリフォルニアにおける金鉱発見をうけて、さらなる新しい土地の獲得を目指します。それが「西部開拓時代」と総称。アメリカ形成期を象徴する時期となりました。

「フロンティア」は、白人が住んでいない「未開の地」であることが前提。その地に居住することは「文明化」の証とみなされました。実際は、以前から暮らしていた先住民(インディアン)を武力で制圧することを意味しました。

フロンティアの開拓を通じて白人開拓者は何と戦った?

ヨーロッパからの移民が増え続け、東海岸の植民地は爆発的な人口増加にみまわれます。そのため自力で生活の場を開拓する必要性に迫られました。そのような状況に追い込まれた人々は「未開拓の地」においていったい何と戦っていると感じられたのでしょうか。

西への前進をはばむ自然の脅威

ひとつはフロンティアを開拓する過程で直面する自然の脅威。多くの白人開拓者がときには家族を連れて荒野を移動します。整備されていない峡谷や砂漠地帯を横断することも多々ありました。

そのなかで命を落とす人は多く、開拓者が進む道には亡骸が残されていることも。そこでフロンティアの開拓は、人間の力をはるかに超えた自然の脅威との闘いとみなされました。

先住民(インディアン)もまた脅威として位置づけられた

自然にくわえて、フロンティアとされるエリアにもともと暮らしていた先住民(インディアン)も前進をはばむ脅威として認識。彼らは文明化されていない「野蛮人」として、開拓者たちと対比されるようになりました。

一部の部の先住民(インディアン)は武装化し、テリトリーに侵入してきた入開拓者に弓矢を向けるように。場合によっては大きな争いに発展。双方に多大な犠牲をもたらすことになりました。

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