今回は、幕末の会津藩主松平容保の弟の定敬を取り上げるぞ。同じ苗字ですが違う家を継いだのです。兄は会津戦争で官軍に攻められたが、弟はどうなったのか。

その辺のところを容保つながりで定敬にも興味を持ったというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新に興味津々。松平容保繋がりで気になっていた弟の松平定敬について調べ5分でわかるようにまとめた。

1-1、松平定敬は、容保の弟

弘化3年12月2日(1847年1月18日)、美濃高須藩主松平義建の8男として江戸市谷の江戸藩邸で誕生。幼名は銈之助(けいのすけ)、元服して定敬(さだあき)。
よく容保の同母弟と言われることがありますが、容保の母は側室の古森氏千代、定敬母はやはり側室ですが、奥山氏、今西亀と諸説あるので、母違いの兄弟です。
尚、高須松平家の出身で他家を継いで大名になった長兄慶勝、茂徳(もちなが)、容保(かたもり)、定敬は、特に高須4兄弟と呼ばれています。

1-2、定敬、14歳で桑名藩主の養子に

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定敬の長兄慶勝(24歳年上)は本家の尾張藩主に、次兄武成は浜田藩主でしたが早世、5男茂徳は長兄の後に尾張家を継ぎ、のち一橋家を継いだ人で、7男の容保(11歳年上)は会津藩主、定敬も安政6年(1859年)に桑名藩主の婿養子となりました。
ただ、これは前藩主定猷(さだみち)が亡くなったとき、長男万之助(後の定教)が3歳と幼少であり、時代が時代なために幼君が主君では無理っぽいということで、万之助が大人になるまでの一時的処置だったよう。定敬を定猷(さだみち)の正室との娘初姫(3歳)と婚約させ、婿養子の形で定猷(さだみち)死後の末期養子として定敬を暫定的に藩主に迎えたのでした

桑名藩松平家とは
定敬が養子に迎えられた桑名松平家は久松松平家といい、徳川家康の母お大の方が久松家へ再婚して生まれた家康の異母弟の系統になります。そして定敬の養父定猷の曾祖父は、有名な寛政の改革を行った老中松平定信なのですね。

また桑名藩領は表高は11万石ですが、実高は桑名本領地が8万3000石、飛び地としての知行地が越後の国柏崎に5万9000石あったので、実質は14万石でした。

2-1、定敬、京都所司代に任命される

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定敬は14代将軍徳川家茂と同じ弘化3年(1846年)生まれで、家茂と仲が良く信任が厚かったということで、文久3年(1863年)の将軍家茂の上洛の際には、京都警護のために随行して初上洛しています。兄の容保が京都守護職として会津藩士1000人を連れて京都に入ったのは文久3年暮のことで、そのときの京都所司代は長岡藩主牧野忠恭(ただゆき)、その家臣が後に有名になる河井継之助。翌3年(1863)6月に牧野忠恭は所司代を辞職、淀藩主の稲葉正邦が後任になりましたが、元治元年(1864)4月、稲葉は老中に抜擢されて江戸へ。

そして後任として定敬が任命されました。桑名藩前藩主定猷も安政6年(1859年)に京都警護を命じられたけれど、心労などのために倒れて亡くなったのでしたが、このとき定敬は19歳、若年を理由に断るも、兄の容保が京都守護職だったこともあって拒絶しきれず就任。

以後、定敬は兄の容保ともに京都の治安と西国の監視監督を務めることになりました。この兄弟は11歳と、かなり年が離れていたので、定敬が赤ちゃんのときにすでに容保は会津家に養子に行き、一緒に暮らしてはいないと思うのですが、仲の良い兄弟であったと言われています。
また兄として、定敬が京都所司代が務まらない人物ならば容保が固辞させたはず、と推測も出来るので、若いながらも定敬はしっかりした人物であったのだと思うのですね。
当時の定敬は洋装で馬に乗り、都大路を闊歩していたと言う話です。
京都はまさに激動の時代で、池田屋事件や禁門の変、その後の2回の長州征討、天狗党の乱でも、桑名藩は出陣し京都の守備を務めるなど活躍、容保と定敬兄弟が禁裏御守衛総督となり、一橋慶喜との協力体制は、「一会桑」政権と呼ばれることに。

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2-2、鳥羽伏見の戦いが勃発、戊辰戦争へ

しかし、容保や定敬にとって後ろ盾というか佐幕派であった孝明天皇が崩御後、14歳の明治天皇が即位すると、一転して幕府の権力は失墜。大政奉還となり、王政復古の大号令が。これにより旧幕府は主戦派が権限を握って、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いが起こり、会津と桑名の藩兵が主力となって薩摩、長州軍と戦いました。 兵力では幕府軍が勝っていて有利であったはずだし、桑名藩は軍制改革が行われて近代洋式の軍隊となっていたのですが、肝心の首脳部が旧態依然としていたために実力を発揮できず。また錦の御旗が掲げられて薩長軍が官軍となったため、朝敵となった幕府軍は一挙に戦意喪失。

さらに定敬らは大坂城まで撤退し、城の守りに兵をつかせ、もうひと戦するつもりでしたが、将軍慶喜が明日は決戦と言って兵らを安心させた後、慶喜は朝敵になるのを恐れて、容保、定敬、老中たち幹部を引き連れて、夜半に紛れて船で江戸へ逃亡しました。慶喜は自分の代わりに容保らが総大将となられては困るので、容保、定敬らには江戸で決戦と言いくるめて連れて逃げたのでした。

3-1、定敬らは江戸に帰った後、東北を転戦することに

江戸に帰った定敬は兄の容保と共に抗戦を主張。しかし徳川慶喜が寛永寺で恭順し、自らの責任を定敬と容保らになすりつけて、2月10日には2人を江戸城登城禁止に。慶喜にまで見捨てられた定敬は、桑名に帰るわけにいかず、桑名藩の飛び地である越後柏崎に入り、兄の容保と共に抗戦の意を固めたということ。
しかし定敬は、1月29日には桑名から藩主に定教擁立することと桑名城開城決定の報告を受けていて、国元の決定に従うことを返事しているので、当初は藩の恭順決定に従うつもりだったが、柏崎に移動後に抗戦論に転じたのかもという説もあり。
また、この逃亡の際、定敬は会津藩、越後長岡藩の河井継之助らと攻守同盟を結んだとされています。桑名藩は会津藩など旧幕府軍と共同し、一部の藩士が関東各地を転戦して、宇都宮戦争でも奮戦。

3-2、その時、定敬の国元の桑名では

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桑名藩の財政は、定敬が京都所司代として重職についたため火の車で、軍兵も主力は鳥羽・伏見の戦いに従軍したものの他に、桑名の留守を守るのは老幼兵500名のみ。これでは官軍との戦いは不可能、家臣の酒井孫八郎らは前藩主定猷の正室珠光院(真田幸良の娘)の支持を取り付け、尾張藩の周旋で恭順を新政府に認めてもらうために奔走。

しかし尾張藩の領内では青松葉事件が発生前夜だったので、伊勢亀山藩へ周旋を頼むことに。そこで酒井孫八郎の知己であった薩摩藩の海江田信義が東海道軍の参謀として伊勢亀山藩を訪問すると知り、直接海江田と交渉。その結果、前藩主の息子の定教を現藩主とし、重臣たちと鳥羽・伏見の戦いの参戦者で桑名に帰還した者を連れて、四日市の東海道鎮撫総督・橋本実梁の下に出頭することに。1月23日に定教以下が出頭、城の明け渡しと全藩士が城外の寺院で謹慎、定教が光明寺に幽閉されました。そして桑名城は1月28日に無血開城
しかし、あくまで官軍に降伏を潔しとしない30名ほどが脱藩して江戸の定敬のもとに走ったそう。

そして桑名城と桑名藩の領地は尾張藩の管理下に置かれ、酒井孫八郎以下重臣から足軽に至るまでの在桑名の藩士771名が城下の8か所の寺院に収容されて謹慎していましたが、酒井ら重臣は、謹慎中の藩士たちを密かに京都、江戸、柏崎にまで派遣して情報収集と藩主の赦免のための運動工作と、前藩主定敬の桑名への帰国を説得しようとしていました。しかし、定敬が降伏しない限り藩主や藩士たちの宥免は出来ないということで、桑名藩として、前藩主となった定敬ら主戦派を切り捨てるわけにはいかなかったのでした

3-3、定敬、柏崎で恭順派家老を暗殺、主戦派を率いて新政府軍を撃破

柏崎では家老の吉村権左衛門が恭順派として強い権勢を誇っていました。吉村は、柏崎に走った定敬から主戦派の山脇十左衛門を遠ざけ、さらに柏崎の全藩士を連れ桑名に戻って恭順しようとする計画を持っていたのですが、これを知った定敬は、山脇と結託し吉村を暗殺。こうして柏崎の桑名兵は主戦派が実権を握り、山脇らが中心となって雷神隊など4隊が結成されたということ。この桑名軍は、旧幕府軍最強としてその名を轟かせ、旧態然とした家老らを排除し、身分ではなく能力を優先した革新的な軍隊に。
この軍隊は高田藩から進撃してきた山県有朋の率いる新政府軍を鯨波戦争で撃破、その後も各地で新政府軍を破るも、長岡藩、会津藩などが敗れてしまい、重要な拠点の鯨波と柏崎を放棄。新たに妙法寺を拠点とした桑名軍は兵の損失皆無で新政府軍を赤田北方で破って、長岡戦争、朝日山合戦でも大いに活躍し、東山道軍仮参謀で松下村塾出身の時山直八を討ち取り、新政府軍に大打撃を与えるまでに。

しかし彼らの活躍は、桑名での藩士たちの謹慎を伸ばし、主戦論の定敬周辺と、恭順している桑名の間の溝を深めるだけでした。そして主戦派の活躍も長くは続かず、河井継之助が戦死、新発田藩の裏切りで新政府軍が海路から新潟に上陸して戦線は瓦解し、定敬は兄の容保を頼って会津に落ち延びました。会津戦争でも桑名軍は会津軍と共同して激戦を繰り広げて奮戦したのですが、寒河江で最後の決戦をした桑名軍は、庄内藩の軍勢と共に降伏。

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3-4、定敬、会津から函館五稜郭へ

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By 不明 - 史談会『従嘉永元年至明治二十三年期間 戦亡殉難志士人名録』、共同出版株式会社、1907年, パブリック・ドメイン, Link

定敬は、会津を出てからさらに逃亡を続け、「一色三千太郎(いっしきみちたろう)」と改名、仙台から船で榎本武揚と共に箱館へ。この際、定敬に随従した17人が土方歳三の新撰組に入隊。

一方、桑名の酒井孫八郎は、桑名藩の存続のために定敬を新政府に差し出す必要があると判断し、自ら五稜郭に乗り込んで定敬を連れ出す決意を。酒井は11月4日に桑名を出発して東京に入り、そこから尾張藩と新政府の了承を得て12月24日に蝦夷地へ翌年1月1日に定敬と面会して説得、榎本武揚、土方歳三、板倉勝静らに定敬の引渡を要求。4月に新政府軍が五稜郭に迫ってきたので、酒井は先に東京へ入って定敬を出頭させる準備を始めたものの、明治2年(1869年)4月、定敬は従者とともにアメリカ船に乗り横浜を経て上海まで渡ったのですが、路銀が無くなったため外国への逃亡を断念して5月18日に横浜へ戻り、新政府に降伏、3年後の明治5年(1872年)1月6日に赦免されました。

4-1、明治後の定敬、英語を学びアメリカ留学、そして西南戦争に従軍も

定敬は、明治5年2月に許嫁の初子と結婚。3月には明治政府に対し、平民になることを願い出て認められず、同年11月、明治政府から欧米視察の許可を得るも、明治6年4月、病気のために海外視察の中止を申請しました。
が、定敬は、函館でも英語を勉強していたということで、横浜でアメリカ人宣教師ブラウンが設立した横浜市中共立修文館に入学し、養子で最後の桑名藩主の定教や旧桑名藩士駒井重格らと共に英語を学び、ブラウンが修文館を辞任後、私塾を開くことを勧めて、その私塾でまた英語を学びました。そして、明治7年11月、定敬は養子の定教と旧桑名藩士駒井重格らと渡米し、定教や駒井重格は、ニュージャージー州のアイビーリーグの名門、ラトガース大学に入学しましたが、定敬が入学したかは不明だそう。尚、定教は帰国後に外務省の書記官としてイタリア公使館で働いた後、明治17年の華族令で子爵となって、明治21年には式部官に。同行した元桑名藩士駒井重格は、ラトガース大学で経済学を学んで帰国後に、専修学校(現在の専修大学)の創立に参加し、その後は大蔵省や農商務省の要職を歴任、晩年は教育者としても活躍。

その後の定敬は、明治10年(1877年)に起こった西南戦争には旧桑名藩士を率いて従軍、桑名藩士は朝敵としていわれなき差別を受けて肩身の狭い思いをしたせいで、怨みを晴らすために400名も出征したそう。

4-2、戊辰戦争の招魂碑の碑文を書く

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桑名市にある九華公園は桑名城の跡に出来たのですが、その本丸跡に、松平定綱と定信が祀られた鎮国守国神社があり、片隅に明治20年に建てられた、戊辰戦争で亡くなった桑名藩士を弔う青銅製剣型の戊辰殉難招魂碑があります。
定敬の書いた、「忠哉義哉 桑名主民 守節取義 各殉其難 郷党追慕 建碑招魂 嗚呼忠節 永照千春 明治二十年十二月 正四位松平定敬撰并書」の碑文は、定敬の心中を察して余りあるということです。
定敬は、明治27年に、兄容保の後を受けて日光東照宮の宮司となり、明治41年7月21日に享年61歳で死去。

兄たちの陰に隠れているが、若い定敬も悲劇の人生

定敬は徳川御三家の分家に生まれ、若くして大名の養子となって藩主となりました。そして兄と共に激動の京都で職務に当たりひたすら天皇と将軍のために働いた結果、なぜか朝敵となったうえ将軍の逃亡につき合わされ、挙句に将軍慶喜自身の保身のために見放され養子先の国元には帰れず、まるで放浪するように東北を転戦。

会津で兄容保と一緒に戦うも最後まで会津にいることはないと諭され、榎本武揚と船に乗って函館まで行きましたが桑名藩存続のために説得にきた家老により、結局は連れ戻されて投降したのです。定敬はまだ21歳でしたが、明治後は英語を学んだり留学をしたものの、最後は宮司となって先祖家康を祀る仕事をしました。兄の陰に隠れていますが、定敬もやはり悲劇と無念が付きまとう人生だったのではないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

松平容保の弟「松平定敬」ー幕末の悲劇の兄弟を歴女がわかりやすく解説

今回は、幕末の会津藩主松平容保の弟の定敬を取り上げるぞ。同じ苗字ですが違う家を継いだのです。兄は会津戦争で官軍に攻められたが、弟はどうなったのか。

その辺のところを容保つながりで定敬にも興味を持ったというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新に興味津々。松平容保繋がりで気になっていた弟の松平定敬について調べ5分でわかるようにまとめた。

1-1、松平定敬は、容保の弟

弘化3年12月2日(1847年1月18日)、美濃高須藩主松平義建の8男として江戸市谷の江戸藩邸で誕生。幼名は銈之助(けいのすけ)、元服して定敬(さだあき)。
よく容保の同母弟と言われることがありますが、容保の母は側室の古森氏千代、定敬母はやはり側室ですが、奥山氏、今西亀と諸説あるので、母違いの兄弟です。
尚、高須松平家の出身で他家を継いで大名になった長兄慶勝、茂徳(もちなが)、容保(かたもり)、定敬は、特に高須4兄弟と呼ばれています。

1-2、定敬、14歳で桑名藩主の養子に

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By 不明。 – 徳川林政史研究所所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

定敬の長兄慶勝(24歳年上)は本家の尾張藩主に、次兄武成は浜田藩主でしたが早世、5男茂徳は長兄の後に尾張家を継ぎ、のち一橋家を継いだ人で、7男の容保(11歳年上)は会津藩主、定敬も安政6年(1859年)に桑名藩主の婿養子となりました。
ただ、これは前藩主定猷(さだみち)が亡くなったとき、長男万之助(後の定教)が3歳と幼少であり、時代が時代なために幼君が主君では無理っぽいということで、万之助が大人になるまでの一時的処置だったよう。定敬を定猷(さだみち)の正室との娘初姫(3歳)と婚約させ、婿養子の形で定猷(さだみち)死後の末期養子として定敬を暫定的に藩主に迎えたのでした

桑名藩松平家とは
定敬が養子に迎えられた桑名松平家は久松松平家といい、徳川家康の母お大の方が久松家へ再婚して生まれた家康の異母弟の系統になります。そして定敬の養父定猷の曾祖父は、有名な寛政の改革を行った老中松平定信なのですね。

また桑名藩領は表高は11万石ですが、実高は桑名本領地が8万3000石、飛び地としての知行地が越後の国柏崎に5万9000石あったので、実質は14万石でした。

2-1、定敬、京都所司代に任命される

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定敬は14代将軍徳川家茂と同じ弘化3年(1846年)生まれで、家茂と仲が良く信任が厚かったということで、文久3年(1863年)の将軍家茂の上洛の際には、京都警護のために随行して初上洛しています。兄の容保が京都守護職として会津藩士1000人を連れて京都に入ったのは文久3年暮のことで、そのときの京都所司代は長岡藩主牧野忠恭(ただゆき)、その家臣が後に有名になる河井継之助。翌3年(1863)6月に牧野忠恭は所司代を辞職、淀藩主の稲葉正邦が後任になりましたが、元治元年(1864)4月、稲葉は老中に抜擢されて江戸へ。

そして後任として定敬が任命されました。桑名藩前藩主定猷も安政6年(1859年)に京都警護を命じられたけれど、心労などのために倒れて亡くなったのでしたが、このとき定敬は19歳、若年を理由に断るも、兄の容保が京都守護職だったこともあって拒絶しきれず就任。

以後、定敬は兄の容保ともに京都の治安と西国の監視監督を務めることになりました。この兄弟は11歳と、かなり年が離れていたので、定敬が赤ちゃんのときにすでに容保は会津家に養子に行き、一緒に暮らしてはいないと思うのですが、仲の良い兄弟であったと言われています。
また兄として、定敬が京都所司代が務まらない人物ならば容保が固辞させたはず、と推測も出来るので、若いながらも定敬はしっかりした人物であったのだと思うのですね。
当時の定敬は洋装で馬に乗り、都大路を闊歩していたと言う話です。
京都はまさに激動の時代で、池田屋事件や禁門の変、その後の2回の長州征討、天狗党の乱でも、桑名藩は出陣し京都の守備を務めるなど活躍、容保と定敬兄弟が禁裏御守衛総督となり、一橋慶喜との協力体制は、「一会桑」政権と呼ばれることに。

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