秀吉配下として九州征伐に従軍
元親が秀吉に降伏したことで九州の島津氏を征伐へと動き出していきます。信親と共に九州征伐軍に従軍して仙石久秀を主将した一軍に加わりました。戦の場所として戸次川に陣を構え戦略会議を行われ、十河存保と元親は大友氏の援軍が到着してから攻めるべきだと進言。
ところが、秀吉からも持久戦に持ち込み大軍を牽いてくれば勝利することができると書状を送っていたにも関わらず、監視役として焦っていた久秀は自軍だけで攻め入ることを決断。数では劣っていましたが、島津兵を崩していき久秀も本隊を率いて攻撃に転じました。第二陣として元親らも攻撃へと加わっていきます。
しかし、島津義久らの援軍により中央と右翼が崩され久秀はすぐさま撤退。部隊がバラバラとなり孤立した存保と信親は玉砕覚悟で敵陣営に突撃し両名とも討死してしました。元親は何とかこの場から離脱することができ伊予国まで退却。
信親の死により精神が憔悴
戸次川の戦いで豊臣軍が破れ、元親は一命を取り留めるも信親は討死にしたことを聞き自刃しようとしたところを重臣達に止められました。信親が亡くなったことを機に、四国の英雄だった覇気が無くなり自分の意見に反対する家臣や一族を討ち取らせるなど精神状態が悪化し奇行が目立つようになります。
信親の死は長宗我部家に打撃を与えたと同時に衰弱していくきっかけとなってしまいました。1588年には、家督問題が起き次男の香川親和が有力候補で秀吉から朱印状でも推薦されていましたが後継ぎには選ばず三男津野親忠も讒言したため四男の盛親が十六代当主となります。
反対していた家臣の中には実弟の吉良親貞の子親実は讒言が元親の逆鱗に触れたため切腹を命じられました。
土佐の出来人が逝く
家督問題で次男親和と三男親忠を追いやり四男盛親を当主にしました。この間に反対派を処罰してしまった影響で長宗我部家の支配力が弱まり、更に香川氏と吉良氏は後継ぎがいなく滅亡します。その後は、秀吉の臣従として小田原征伐から朝鮮出兵にも従軍しました。
険悪な関係となっていた親忠を幽閉した直後に、病を患い伏見屋敷で療養していました。この前年1598年に、秀吉が亡くなっていたことで政情が豊臣から徳川へと時代は移り変わり懸命な治療も虚しく1599年5月19日に息をひきとります。
当主となっていた盛親は、豊臣方から正式に長宗我部家を継承したと書かれて記録はなく冷遇措置。更に家臣の讒言によって幽閉している親忠を殺害してしまい家康から改易され大坂の陣で豊臣秀頼に従い徳川軍に敗北し六条河原で最後を遂げました。
姫若子と罵られながらも一代で四国を制覇した元親
内気で外で活発に遊ぶ様子も無い元親を周りは、姫若子と罵られ国親も頭を抱えていた嫡男でした。そんな元親を一変させのが初陣で、戦場で槍の扱い方一つ分からない状態で布陣するも五十騎ほどを牽きて敵陣に突撃していき七十兵を討ち取り武功を上げます。ここから、姫若子ではなく鬼若子と呼ばれ民からも家臣から一目置かれた存在になったのでしょう。
国親が亡き後には、国親以上に勢力拡大することを望み隣国を落としていきました。更に敵国である国人に家に長宗我部一族を送り込み勢力を拡大すると同時に、他家を内部から乗っ取るなど大胆な行動もしています。毛利氏と似たような施策を取っていたことが分かりました。
また、四国平定後に秀吉と対立した際に島津氏や北條氏などと同盟を交わしていれば毛利氏に匹敵するぐらいの一大勢力を築けていたかもしれません。あくまで想像なので、歴史にもしということはありませんが秀吉の和睦条件が毛利氏のような待遇であれば長宗我部家は大きく成長していたも考えられました。