今回は、土佐の出来人や鬼若子と呼ばれていた長宗我部元親を紹介していきます。元親は、土佐を統一した将と知られているが始めは一国人だけでしかない一族だった。国人でしかなかった元親は家督を継いでから勢力を拡大していくんです。

どのようなことをして長宗我部家を大きくして行ったのか戦国ライターのwhat_0831と共に紹介していきます。

ライター/what

戦国武将が大好きなライター。分からないことがあると徹底的に調べないと気が済まない性格。今回は地方の大名の中でも特に好きな長宗我部元親を解説していく。

土佐で誕生した第二十一代長宗我部家当主

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土佐を瞬く間に支配下に収めていき、当時の天下人に最も近いとされていた織田信長と渡り合い智勇共に優れていた元親。国人から大名へ成長し戦国乱世を生き抜いていく元親の生い立ちから見ていきましょう。

土佐の出来人誕生

1539年に長宗我部国親と斎藤道三の娘だった祥鳳玄陽から長男として誕生。元々、長宗我部氏は室町時代に細川晴元が守護職として四国一帯を管轄して時の国人でした。国親は元親が生まれる前に、祖父にあたる兼予が隣国の国人に対して傲慢な態度を取ったことで本山氏らに居城岡豊城を攻められ一条氏を頼ります。そして、長宗我部家を再興している途中に元親が生まれてきました。

幼名を弥三郎といい、あまり外で活動する子供ではなかったようです。長宗我部家の跡取りとしては申し分ない体格をしていましたが、書物ばかり読んでいて周りから付けられた名が姫若子と呼ばれていました。なぜこの名前になったかというと、外で活動していないことが多かったため肌が色白で女の子のようであったからとされています。

初陣を飾るまでの間

姫若子と民からも呼ばれるたことで、国親も相当頭を抱えていたのだと思いますがそれを補わせる教育を行っていたかは土佐物語にも書かれていないため分かりません。ただ、国人といえども日記の書物だけではないと思いますので戦についての書物も残されていたでしょう。

元親は戦関連の書物を毎日、欠かさず熟読していた可能性もおおいにあり得ます。この時に数多の戦や国政などが書かれた書物を読んでいたことで後々の元親が大きく成長できたとも考えられるでしょう。

遅い初陣ながらも戦場で見せた勇猛さ

姫若子と罵られ笑われていた元親だったが、ようやく初陣がやってきました。ここで活躍して周囲を驚かせ、次期当主として成長していきます。大人しい青年でなくなって一人の男としてのし上っていく元親の最初の戦を見ていきましょう。

本山氏との関係が悪化

国親が、居城の岡豊城に戻る時に本山茂宗と和睦を結び茂宗の娘と娶ったうえに国親の娘を茂宗へ嫁がせることをしていて両氏とも政治的な意味では良好関係にあったようです。しかし、国親のことは良く思っておらず幕府に媚びていたので虎の威を借りる狐と呼んでいました。

このような関係の間に宗茂が亡くなり、本山家を継いだ茂辰が当主となります。この頃に、茂辰は一条氏を攻めていたことを気に入らなかったことや国親の父だった長宗我部兼序を自刃にさせたことなど恨みを持っていたことで反旗を翻していきました。

そして、両者の関係が悪くなっていくと大津から種﨑まで兵糧を運搬しているところを茂辰家臣が略奪していったことがきっかけで両者が戦場で相まみえることになります。

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大工を手引きし城を攻略

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兵糧略奪により本格的に茂辰の領土を攻めていくことを決意。まずは、茂辰の前線の要でもある長浜城を攻め落とすこと計画していくも守りが固く容易に落城させることができませんでした。そこで、国親は以前に長宗我部家から追放した福留右馬丞が長浜城を築城に関わっていたことを知ることができ城の情報を教えてくれれば報酬を出すといい味方に引き入れます。

味方に引き入れたことで、夜襲を仕掛けていき長浜城を陥落させることができました。この時の長浜城主だった大久保美作守は、夜襲に気づき人目につかないように脱走していき茂辰のいる朝倉城へ逃げていきます。そして長浜城を奪取した国親はこの城を拠点に本山氏を攻めていきました。

家臣達も驚くほどの活躍をした長浜の戦い

脱走してきた大久保美作守から長浜城を陥落させられたことを聞くとすぐさま、二千の兵を率いて長浜城を攻める決意をします。そして、両者が衝突したのは1560年5月28日。国親は、長浜城の南に位置する雪渓寺に出陣し茂辰は西にあたる日出野に陣を構えました。戦闘になったのは午前十時頃で数的有利だった茂辰が優勢な状況でしたが、長宗我部軍の奮戦もあり一進一退を繰り返します。

時が過ぎるにつれ、劣勢だった長宗我部軍が本山軍を押し返していき茂辰は一旦浦上城まで退きました。元親も初陣で戦場に参加していましたが、槍の扱い方が分からず家臣の秦泉寺豊後にどうすればいいか尋ねたところ相手の眼を突けと言われ戦場を駆け巡ります。

無我夢中で戦場正面に切り込んでいき、見事二人の騎馬武者の首を挙げることができました。この活躍により姫若子から鬼若子と呼ばれるようになったと元親記にも書かれています。

父国親の急死

元親の活躍もあり城を攻略することができ、茂辰を追い詰め後わずかのところで国親が病により兵を引き揚げることになりました。戦が終わって直ぐに病により急死してしまった国親。当主を失った長宗我部家を元親が継ぐことなります。

長浜の戦いで勇猛果敢に戦った姿を見て、国親は亡くなる寸前に初陣で見事な活躍をしたことを褒め称え息を引き取りました。また、家臣達も元親のことを認めていたことで家督を元親にすることに反対だった者は少なく当主となり土佐統一に向けて奔走していきます。

土佐勢力に力を注ぐ

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元親が当主となり、国親の後を継ぎ勢力を伸ばしていくため様々な制度を講じていきます。その一つが一領具足制度でした。こうすることに軍備を強化していき国親悲願の本山氏攻めて行くところから紹介していきます。

軍備強化を行い本山氏を攻める

国親亡き後、自国の軍備を強化するべく一領具足制度を導入していきました。戦に出陣する場合は、約三から四割が武士家臣団で残りの六から七割は農民だったと言われてます。そのため戦に向けて兵を集めるには、時間を要してしまうことと農作が忙しい時期に入ってしまうと兵が集まりづらい状況でした。

これを改革するべく、武装農民や地侍を対象に運用して兵をすぐさま集められるようになり軍備の強化を図ります。そして、下地が整ったことで本山氏を攻めることを決意。近隣の国人を制圧していき茂辰の所領城だった国沢城など七つの城を二年の間に攻略しました。1563年には、茂辰居城の朝倉城と吉良城を落城させ公家大名の一条氏とも協調していきます。

そして、次弟の親貞を吉良氏に継がせ朝倉城落城後に美濃斎藤道三の異父妹と婚姻しました。

本山氏と安芸氏を滅ぼし統一間近

1564年に茂辰が病で亡くなったことで更に、勢力が弱体化し後を継いだ親茂も交戦していくも元親に降伏し1568年に土佐中部を制圧しました。翌年の1569年に一条氏が仲介のもと和睦する予定だった和睦直前に安芸国虎と関係が悪化し八流の戦いへと発展することになります。

一領具足で兵を率いて黒岩城へ攻め入り兵を部隊に分けて進軍し、黒岩越前が本隊に気を取られている間に越前の背後を突いたことで黒岩の本隊を安芸城まで引き上げさせることができました。また、安芸方の家臣達が元親側に寝返っていたことで安芸軍は内部崩壊を起こし国虎は自刃し安芸氏は滅亡します。

安芸氏を滅ぼしたことで、残すは一条氏だけとなりました。安芸氏に属していた香宗我部氏もこのい戦で没落しましたが、親泰を養子にさせ元親の管理下におきます。

恩顧の一条氏と断交

土佐統一も目前に迫ったところで、親貞が独断で一条氏の領土内にある蓮池城を落城させてしまい元親と一条兼定の関係悪化してしました。元親記によれば、恩義を受けている一条氏に親貞との縁を切ると伝えるも関係が修復されることはなかったと書かれています。

結果として、一条氏を攻めることになり始めに津野氏を降伏させ元親三男の親忠を送り込み津野家当主にしました。領土が侵食されていく中で、一条氏存亡に力を尽くしていた筆頭家老の土居宗珊と一族を兼定が殺害してしまいます。殺害した経緯は、明確はないものの四国軍紀のことが主流とされているようです。

これにより、家臣らから信頼を失った兼定は強制的に隠居させられ大友氏を頼っていきました。一条家の家督を継いだ一条内政に元親は、娘を嫁がせたことで実質土佐を統一することになります。

\次のページで「一条兼定との決着」を解説!/

一条兼定との決着

大友氏のもとで旧領回復を目指していた兼定は、伊予国で挙兵し四国へ上陸し兼定の義を感じた旧臣達が集結三千五百となりました。これを見過ごすきない元親は、四万十川にて激突することになります。四万十川近隣にある栗本城を要塞として地の利を生かした構えを取りました。

四万十川で相対した時に、元親の兵力を見た兼定は驚いたようです。一領具足制度が発揮された一幕でもあり劣勢な状況で前線を下げ弓矢と鉄砲攻撃に切り替えた兼定でした。この攻撃の直後に福留儀重に手勢を引き連れさせ背後から一条軍を攻め入ります。迂回する動きを見た兼定は軍を二手に分けて迎撃していきました。

兼定が部隊は分けたことで、手薄になった本陣目掛けて攻撃していき寄せ集めに過ぎなかった兼定らは敗走し二百余りの死者を出しとされています。数時間で雌雄決した戦で勝利した元親は名実ともに土佐統一を果たすことができました。

織田信長との同盟するも対立する結果に

正室だった元親の妻は斎藤家の出身でした。ここから繋がりのあった織田信長へと同盟関係を結んでいきます。ところが、元親の四国制覇は近づいてくると信長はこれをよしとせず同盟関係が決裂してしました。

四国制覇のために阿波国などへ侵攻

土佐統一後に、妻と繋がりのあった織田家と同盟を交わし勢力拡大するために伊予・阿波・讃岐国を攻める準備をしていきます。特に阿波と讃岐は、三好一族が支配しており近畿では一大勢力となって信長と長きに渡り対立していました。ところが三好長慶が亡くなり、養子の三好義継が家督を継ぐと後見人の中で松永久秀が三好家内で一番力を持っている状態でした。

そんな、久秀のことを良く思っていない三好長逸らは久秀と対立していき三好家が崩壊していきます。その隙を逃すまいと元親は、白地城へ侵攻し大西氏と和議を結び臣従させ重清城を攻略しました。次々と阿波国と讃岐国を制圧していき残すは、伊予国だけとなりましたが毛利氏の圧力などがあったため伊予平定が長期化してしまいます。

1580年に、信長から土佐を阿波南国だけを領土として臣従するよう迫ってきました。一方的な要求と領土が減らされることに納得のいかない元親は要求を拒絶します。これにより、信長から本格的な攻撃を受ける元親。

信長との対立から秀吉との対立へ

信長からの総攻撃を受けることになり一時は、弱体化していた三好氏も信長の後ろ盾を得て元親に反抗してきました。そして四国攻めが1582年に決行され神戸信孝を総大将として丹羽長秀らを率いて阿波国の一部城を落城させていきます。1582年6月2日に軍備を整えた信孝は四国へ侵攻しようとしましたが、本能寺の変が起き信長が明智光秀に討ち取られてしまい四国攻めを中止し兵を引き上げていきました。

信長が討たれたことで、窮地を脱した元親は勢力を拡大するため再度動き出していきます。長らく争っていた十河氏を破り阿波を平定。一方で信長亡き後を秀吉が継いだ形となり、柴田勝家と秀吉が賤ケ岳で衝突しました。翌年の1584年に徳川家康と秀吉が小牧長久手で衝突し反秀吉として勝家と家康に力を貸しています。その間に、伊予国を制圧し1585年には四国を平定しました。

秀吉に降伏し豊臣政権下で働き生涯を閉じる

信長からの攻撃を回避することができましたが、織田家の中で力を付けてきた秀吉が信長領土を自分の支配下にしていきます。天下を手中に収めたい秀吉は残る勢力に総攻撃を仕掛けていきました。その勢力の一つが元親率いる長宗我部家です。

秀吉との交渉を重ねるも降伏

秀吉は北陸と紀州平定したものの、度々背後を脅かしていた元親に対して和解を模索するようになりました。元親は四国を平定しましたが、秀吉との勢力差がありここから更に領土を拡大しようとは思わず元親も和解を成立させようと動くも決裂します。そして秀吉は、四国攻めの準備に取り掛かっていきました。

四国攻めには、黒田孝高・小早川隆景・羽柴秀長らが約十万の大軍を率いて伊予・阿波・讃岐国が攻められて次々と城を陥落させられてしまいます。圧倒的な力を前にした元親の家臣谷忠澄は、秀吉方の甲冑などの恰好を見て自軍とあまりに違うため勝ち目がないと判断し元親に降伏を促しました。

一度は徹底抗戦する構えを取るも重臣らの説得を受け秀吉に降伏し土佐一国だけを安堵された形で秀吉臣従します。

\次のページで「秀吉配下として九州征伐に従軍」を解説!/

秀吉配下として九州征伐に従軍

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元親が秀吉に降伏したことで九州の島津氏を征伐へと動き出していきます。信親と共に九州征伐軍に従軍して仙石久秀を主将した一軍に加わりました。戦の場所として戸次川に陣を構え戦略会議を行われ、十河存保と元親は大友氏の援軍が到着してから攻めるべきだと進言。

ところが、秀吉からも持久戦に持ち込み大軍を牽いてくれば勝利することができると書状を送っていたにも関わらず、監視役として焦っていた久秀は自軍だけで攻め入ることを決断。数では劣っていましたが、島津兵を崩していき久秀も本隊を率いて攻撃に転じました。第二陣として元親らも攻撃へと加わっていきます。

しかし、島津義久らの援軍により中央と右翼が崩され久秀はすぐさま撤退。部隊がバラバラとなり孤立した存保と信親は玉砕覚悟で敵陣営に突撃し両名とも討死してしました。元親は何とかこの場から離脱することができ伊予国まで退却。

信親の死により精神が憔悴

戸次川の戦いで豊臣軍が破れ、元親は一命を取り留めるも信親は討死にしたことを聞き自刃しようとしたところを重臣達に止められました。信親が亡くなったことを機に、四国の英雄だった覇気が無くなり自分の意見に反対する家臣や一族を討ち取らせるなど精神状態が悪化し奇行が目立つようになります。

信親の死は長宗我部家に打撃を与えたと同時に衰弱していくきっかけとなってしまいました。1588年には、家督問題が起き次男の香川親和が有力候補で秀吉から朱印状でも推薦されていましたが後継ぎには選ばず三男津野親忠も讒言したため四男の盛親が十六代当主となります。

反対していた家臣の中には実弟の吉良親貞の子親実は讒言が元親の逆鱗に触れたため切腹を命じられました。

土佐の出来人が逝く

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家督問題で次男親和と三男親忠を追いやり四男盛親を当主にしました。この間に反対派を処罰してしまった影響で長宗我部家の支配力が弱まり、更に香川氏と吉良氏は後継ぎがいなく滅亡します。その後は、秀吉の臣従として小田原征伐から朝鮮出兵にも従軍しました。

険悪な関係となっていた親忠を幽閉した直後に、病を患い伏見屋敷で療養していました。この前年1598年に、秀吉が亡くなっていたことで政情が豊臣から徳川へと時代は移り変わり懸命な治療も虚しく1599年5月19日に息をひきとります。

当主となっていた盛親は、豊臣方から正式に長宗我部家を継承したと書かれて記録はなく冷遇措置。更に家臣の讒言によって幽閉している親忠を殺害してしまい家康から改易され大坂の陣で豊臣秀頼に従い徳川軍に敗北し六条河原で最後を遂げました。

姫若子と罵られながらも一代で四国を制覇した元親

内気で外で活発に遊ぶ様子も無い元親を周りは、姫若子と罵られ国親も頭を抱えていた嫡男でした。そんな元親を一変させのが初陣で、戦場で槍の扱い方一つ分からない状態で布陣するも五十騎ほどを牽きて敵陣に突撃していき七十兵を討ち取り武功を上げます。ここから、姫若子ではなく鬼若子と呼ばれ民からも家臣から一目置かれた存在になったのでしょう。

国親が亡き後には、国親以上に勢力拡大することを望み隣国を落としていきました。更に敵国である国人に家に長宗我部一族を送り込み勢力を拡大すると同時に、他家を内部から乗っ取るなど大胆な行動もしています。毛利氏と似たような施策を取っていたことが分かりました。

また、四国平定後に秀吉と対立した際に島津氏や北條氏などと同盟を交わしていれば毛利氏に匹敵するぐらいの一大勢力を築けていたかもしれません。あくまで想像なので、歴史にもしということはありませんが秀吉の和睦条件が毛利氏のような待遇であれば長宗我部家は大きく成長していたも考えられました。

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土佐の出来人「長宗我部元親」を戦国通のサラリーマンが5分で紹介

秀吉配下として九州征伐に従軍

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元親が秀吉に降伏したことで九州の島津氏を征伐へと動き出していきます。信親と共に九州征伐軍に従軍して仙石久秀を主将した一軍に加わりました。戦の場所として戸次川に陣を構え戦略会議を行われ、十河存保と元親は大友氏の援軍が到着してから攻めるべきだと進言。

ところが、秀吉からも持久戦に持ち込み大軍を牽いてくれば勝利することができると書状を送っていたにも関わらず、監視役として焦っていた久秀は自軍だけで攻め入ることを決断。数では劣っていましたが、島津兵を崩していき久秀も本隊を率いて攻撃に転じました。第二陣として元親らも攻撃へと加わっていきます。

しかし、島津義久らの援軍により中央と右翼が崩され久秀はすぐさま撤退。部隊がバラバラとなり孤立した存保と信親は玉砕覚悟で敵陣営に突撃し両名とも討死してしました。元親は何とかこの場から離脱することができ伊予国まで退却。

信親の死により精神が憔悴

戸次川の戦いで豊臣軍が破れ、元親は一命を取り留めるも信親は討死にしたことを聞き自刃しようとしたところを重臣達に止められました。信親が亡くなったことを機に、四国の英雄だった覇気が無くなり自分の意見に反対する家臣や一族を討ち取らせるなど精神状態が悪化し奇行が目立つようになります。

信親の死は長宗我部家に打撃を与えたと同時に衰弱していくきっかけとなってしまいました。1588年には、家督問題が起き次男の香川親和が有力候補で秀吉から朱印状でも推薦されていましたが後継ぎには選ばず三男津野親忠も讒言したため四男の盛親が十六代当主となります。

反対していた家臣の中には実弟の吉良親貞の子親実は讒言が元親の逆鱗に触れたため切腹を命じられました。

土佐の出来人が逝く

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家督問題で次男親和と三男親忠を追いやり四男盛親を当主にしました。この間に反対派を処罰してしまった影響で長宗我部家の支配力が弱まり、更に香川氏と吉良氏は後継ぎがいなく滅亡します。その後は、秀吉の臣従として小田原征伐から朝鮮出兵にも従軍しました。

険悪な関係となっていた親忠を幽閉した直後に、病を患い伏見屋敷で療養していました。この前年1598年に、秀吉が亡くなっていたことで政情が豊臣から徳川へと時代は移り変わり懸命な治療も虚しく1599年5月19日に息をひきとります。

当主となっていた盛親は、豊臣方から正式に長宗我部家を継承したと書かれて記録はなく冷遇措置。更に家臣の讒言によって幽閉している親忠を殺害してしまい家康から改易され大坂の陣で豊臣秀頼に従い徳川軍に敗北し六条河原で最後を遂げました。

姫若子と罵られながらも一代で四国を制覇した元親

内気で外で活発に遊ぶ様子も無い元親を周りは、姫若子と罵られ国親も頭を抱えていた嫡男でした。そんな元親を一変させのが初陣で、戦場で槍の扱い方一つ分からない状態で布陣するも五十騎ほどを牽きて敵陣に突撃していき七十兵を討ち取り武功を上げます。ここから、姫若子ではなく鬼若子と呼ばれ民からも家臣から一目置かれた存在になったのでしょう。

国親が亡き後には、国親以上に勢力拡大することを望み隣国を落としていきました。更に敵国である国人に家に長宗我部一族を送り込み勢力を拡大すると同時に、他家を内部から乗っ取るなど大胆な行動もしています。毛利氏と似たような施策を取っていたことが分かりました。

また、四国平定後に秀吉と対立した際に島津氏や北條氏などと同盟を交わしていれば毛利氏に匹敵するぐらいの一大勢力を築けていたかもしれません。あくまで想像なので、歴史にもしということはありませんが秀吉の和睦条件が毛利氏のような待遇であれば長宗我部家は大きく成長していたも考えられました。

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