大工を手引きし城を攻略
兵糧略奪により本格的に茂辰の領土を攻めていくことを決意。まずは、茂辰の前線の要でもある長浜城を攻め落とすこと計画していくも守りが固く容易に落城させることができませんでした。そこで、国親は以前に長宗我部家から追放した福留右馬丞が長浜城を築城に関わっていたことを知ることができ城の情報を教えてくれれば報酬を出すといい味方に引き入れます。
味方に引き入れたことで、夜襲を仕掛けていき長浜城を陥落させることができました。この時の長浜城主だった大久保美作守は、夜襲に気づき人目につかないように脱走していき茂辰のいる朝倉城へ逃げていきます。そして長浜城を奪取した国親はこの城を拠点に本山氏を攻めていきました。
家臣達も驚くほどの活躍をした長浜の戦い
脱走してきた大久保美作守から長浜城を陥落させられたことを聞くとすぐさま、二千の兵を率いて長浜城を攻める決意をします。そして、両者が衝突したのは1560年5月28日。国親は、長浜城の南に位置する雪渓寺に出陣し茂辰は西にあたる日出野に陣を構えました。戦闘になったのは午前十時頃で数的有利だった茂辰が優勢な状況でしたが、長宗我部軍の奮戦もあり一進一退を繰り返します。
時が過ぎるにつれ、劣勢だった長宗我部軍が本山軍を押し返していき茂辰は一旦浦上城まで退きました。元親も初陣で戦場に参加していましたが、槍の扱い方が分からず家臣の秦泉寺豊後にどうすればいいか尋ねたところ相手の眼を突けと言われ戦場を駆け巡ります。
無我夢中で戦場正面に切り込んでいき、見事二人の騎馬武者の首を挙げることができました。この活躍により姫若子から鬼若子と呼ばれるようになったと元親記にも書かれています。
父国親の急死
元親の活躍もあり城を攻略することができ、茂辰を追い詰め後わずかのところで国親が病により兵を引き揚げることになりました。戦が終わって直ぐに病により急死してしまった国親。当主を失った長宗我部家を元親が継ぐことなります。
長浜の戦いで勇猛果敢に戦った姿を見て、国親は亡くなる寸前に初陣で見事な活躍をしたことを褒め称え息を引き取りました。また、家臣達も元親のことを認めていたことで家督を元親にすることに反対だった者は少なく当主となり土佐統一に向けて奔走していきます。
土佐勢力に力を注ぐ
元親が当主となり、国親の後を継ぎ勢力を伸ばしていくため様々な制度を講じていきます。その一つが一領具足制度でした。こうすることに軍備を強化していき国親悲願の本山氏攻めて行くところから紹介していきます。
軍備強化を行い本山氏を攻める
国親亡き後、自国の軍備を強化するべく一領具足制度を導入していきました。戦に出陣する場合は、約三から四割が武士家臣団で残りの六から七割は農民だったと言われてます。そのため戦に向けて兵を集めるには、時間を要してしまうことと農作が忙しい時期に入ってしまうと兵が集まりづらい状況でした。
これを改革するべく、武装農民や地侍を対象に運用して兵をすぐさま集められるようになり軍備の強化を図ります。そして、下地が整ったことで本山氏を攻めることを決意。近隣の国人を制圧していき茂辰の所領城だった国沢城など七つの城を二年の間に攻略しました。1563年には、茂辰居城の朝倉城と吉良城を落城させ公家大名の一条氏とも協調していきます。
そして、次弟の親貞を吉良氏に継がせ朝倉城落城後に美濃斎藤道三の異父妹と婚姻しました。
本山氏と安芸氏を滅ぼし統一間近
1564年に茂辰が病で亡くなったことで更に、勢力が弱体化し後を継いだ親茂も交戦していくも元親に降伏し1568年に土佐中部を制圧しました。翌年の1569年に一条氏が仲介のもと和睦する予定だった和睦直前に安芸国虎と関係が悪化し八流の戦いへと発展することになります。
一領具足で兵を率いて黒岩城へ攻め入り兵を部隊に分けて進軍し、黒岩越前が本隊に気を取られている間に越前の背後を突いたことで黒岩の本隊を安芸城まで引き上げさせることができました。また、安芸方の家臣達が元親側に寝返っていたことで安芸軍は内部崩壊を起こし国虎は自刃し安芸氏は滅亡します。
安芸氏を滅ぼしたことで、残すは一条氏だけとなりました。安芸氏に属していた香宗我部氏もこのい戦で没落しましたが、親泰を養子にさせ元親の管理下におきます。
恩顧の一条氏と断交
土佐統一も目前に迫ったところで、親貞が独断で一条氏の領土内にある蓮池城を落城させてしまい元親と一条兼定の関係悪化してしました。元親記によれば、恩義を受けている一条氏に親貞との縁を切ると伝えるも関係が修復されることはなかったと書かれています。
結果として、一条氏を攻めることになり始めに津野氏を降伏させ元親三男の親忠を送り込み津野家当主にしました。領土が侵食されていく中で、一条氏存亡に力を尽くしていた筆頭家老の土居宗珊と一族を兼定が殺害してしまいます。殺害した経緯は、明確はないものの四国軍紀のことが主流とされているようです。
これにより、家臣らから信頼を失った兼定は強制的に隠居させられ大友氏を頼っていきました。一条家の家督を継いだ一条内政に元親は、娘を嫁がせたことで実質土佐を統一することになります。
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