日本史

土佐の出来人「長宗我部元親」を戦国通のサラリーマンが5分で紹介

よぉ、桜木建二だ。今回は、土佐の出来人や鬼若子と呼ばれていた長宗我部元親を紹介していくぞ。元親は、土佐を統一した将と知られているが始めは一国人だけでしかない一族だった。国人でしかなかった元親は家督を継いでから勢力を拡大していくんだ。

どのようなことをして長宗我部家を大きくして行ったのか戦国ライターのwhat_0831と共に紹介していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/what

戦国武将が大好きなライター。分からないことがあると徹底的に調べないと気が済まない性格。今回は地方の大名の中でも特に好きな長宗我部元親を解説していく。

土佐で誕生した第二十一代長宗我部家当主

image by PIXTA / 16070849

土佐を瞬く間に支配下に収めていき、当時の天下人に最も近いとされていた織田信長と渡り合い智勇共に優れていた元親。国人から大名へ成長し戦国乱世を生き抜いていく元親の生い立ちから見ていきましょう。

土佐の出来人誕生

1539年に長宗我部国親と斎藤道三の娘だった祥鳳玄陽から長男として誕生。元々、長宗我部氏は室町時代に細川晴元が守護職として四国一帯を管轄して時の国人でした。国親は元親が生まれる前に、祖父にあたる兼予が隣国の国人に対して傲慢な態度を取ったことで本山氏らに居城岡豊城を攻められ一条氏を頼ります。そして、長宗我部家を再興している途中に元親が生まれてきました。

幼名を弥三郎といい、あまり外で活動する子供ではなかったようです。長宗我部家の跡取りとしては申し分ない体格をしていましたが、書物ばかり読んでいて周りから付けられた名が姫若子と呼ばれていました。なぜこの名前になったかというと、外で活動していないことが多かったため肌が色白で女の子のようであったからとされています。

初陣を飾るまでの間

姫若子と民からも呼ばれるたことで、国親も相当頭を抱えていたのだと思いますがそれを補わせる教育を行っていたかは土佐物語にも書かれていないため分かりません。ただ、国人といえども日記の書物だけではないと思いますので戦についての書物も残されていたでしょう。

元親は戦関連の書物を毎日、欠かさず熟読していた可能性もおおいにあり得ます。この時に数多の戦や国政などが書かれた書物を読んでいたことで後々の元親が大きく成長できたとも考えられるでしょう。

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幼少期から長身と恵まれた体格だったが、外で活発に出ていく子供ではなかったようだ。戦国時代の平均身長は、150cmほどと推定されていて成人になるころには180cmと非常に大柄であったとされている。色白いうこともあり、剣術などの稽古はほとんどしていないということが可能性が高そうだな。

しかし、活発ではない内向的な性格だったが戦関連の書物を読んでいたと思われ家督を継いだ後の戦で役立っていたのだと思われる。

遅い初陣ながらも戦場で見せた勇猛さ

姫若子と罵られ笑われていた元親だったが、ようやく初陣がやってきました。ここで活躍して周囲を驚かせ、次期当主として成長していきます。大人しい青年でなくなって一人の男としてのし上っていく元親の最初の戦を見ていきましょう。

本山氏との関係が悪化

国親が、居城の岡豊城に戻る時に本山茂宗と和睦を結び茂宗の娘と娶ったうえに国親の娘を茂宗へ嫁がせることをしていて両氏とも政治的な意味では良好関係にあったようです。しかし、国親のことは良く思っておらず幕府に媚びていたので虎の威を借りる狐と呼んでいました。

このような関係の間に宗茂が亡くなり、本山家を継いだ茂辰が当主となります。この頃に、茂辰は一条氏を攻めていたことを気に入らなかったことや国親の父だった長宗我部兼序を自刃にさせたことなど恨みを持っていたことで反旗を翻していきました。

そして、両者の関係が悪くなっていくと大津から種﨑まで兵糧を運搬しているところを茂辰家臣が略奪していったことがきっかけで両者が戦場で相まみえることになります。

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