3 皇帝ナポレオン、ヨーロッパへ戦争開始!
皇帝ナポレオンは、ヨーロッパを支配するため、ナポレオン戦争を仕掛けます。ナポレオンは皇帝の権力を不動のものとすべく戦いに明け暮れることに。この章ではナポレオン戦争について詳しく見ていきたいと思います。
3-1 攻めるナポレオン
ナポレオンは1805年、イギリスへと侵攻しますが、トラファルガーの戦いで敗北。再びネルソンに敗れました。2度も勝利したイギリスでしたが、ネルソンは狙撃され亡くなりました。しかし同年、アウステルリッツ戦いに勝利すると、神聖ローマ帝国を解体します。そしてナポレオンが盟主となり、ライン同盟を結びました。同盟国は、オーストリアとロシア、そしてプロイセン。次にナポレオンは敵対するイギリスを経済的に圧迫するため大陸封鎖令を出しました。しかしこの封鎖令によって逆に同盟国の経済にダメージを与えてしまうことに。その当時の経済は既にイギリス抜きでは語れないほどになっていたのです。
またナポレオンは次々自分の兄弟を国王としてナポリ王(後にスペイン王)、オランダ王として各国に送り出します。野心の強さがよく分かりますね。しかし連勝し続けたのはここまででした。
3-2 ロシア遠征の失敗
大陸封鎖令が出ていましたがロシアがそれを破り、イギリスと貿易を再開。ナポレオンはロシアへの制裁で60万もの兵を率いてロシアへ向かいました。しかしこれが大失敗に終わることに。ナポレオンは軍を捨てパリに逃げ帰りました。そしてロシア遠征の次の年に、各国がフランスを襲います。1813年に諸国民戦争と言われるライプツィヒの戦いでナポレオンは敗れました。
3-3 ゴヤ、ナポレオン軍の残虐さを描く
By フランシスコ・デ・ゴヤ – The Prado in Google Earth: Home – 7th level of zoom, JPEG compression quality: Photoshop 8., パブリック・ドメイン, Link
これは宮廷画家ゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオ丘での銃殺」です。スペインではルイ14世の治世からスペイン・ブルボン家が支配し、カルロス4世の治世でした。そこへナポレオン軍が侵攻。両親と母の愛人ゴドイに反感を持った王太子フェルナンドによる裏切りでした。しかし王座はフェルナンドではなく、実の兄を王座に就けることに。
ゴヤの作品では反フランス運動を鎮圧したナポレオン軍が報復として市民を虐殺している様子が描かれています。両手を広げる白い服を着た男性の右手に注目。何やら手のひらに窪みのようなものがありますね。これはキリストが十字架に磔(はりつけ)の刑にされた時にできた「聖痕」と呼ばれる傷のこと。ゴヤはこの男性を殉教者として描き、フランスと勇敢に戦った市民がいたことをキャンパスへと残しました。実際の虐殺では老若男女問わず無差別に命を奪われたそう。ちなみにここでナポレオン軍として描かれている人物たちはフランス人ではなく、フランス軍に所属していたエジプト人たち。皆視線が男性ではなく下を向いていますね。銃を向ける彼らの葛藤が伝わってきますね。
4 ナポレオンの最期
1805年に始まったヨーロッパへのナポレオン戦争。しかし1812年のロシア遠征の失敗からナポレオンの運命は暗転します。ロシア遠征に失敗したナポレオンは軍を捨ててパリへ逃げ帰りました。そしてこれを機に彼の退位が決定。ナポレオンはエルバ島へ流刑となりました。
4-1 ナポレオン戦争後の王政復古
ナポレオン戦争を受けて、各国はウィーンに集結し戦争処理が始まりました。しかしこのウィーン会議は、各国の利害が対立したためなかなか進みませんでした。その状況を「議会は踊る、されど進まず」と揶揄されてしまう始末。議論を進めて、正統主義を採用し妥協が成立することに。正統主義とは、フランス革命よりも前の状態に戻すというもの。だからブルボン王朝は復活することができたのですね。これにより亡命していたルイ18世が即位することに。
またイギリスをはじめオーストリア、ロシア、プロイセンの4国がウィーン体制を築きました。これは革命の防止や紛争を抑制するために作られ、ナポレオン戦争によって広まった自由主義やナショナリズムを弾圧していくことに。
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