今回は、軍人でありながら皇帝となった英雄「ナポレオン」についてです。彼はクーデタで総裁政府を倒し、皇帝となった男です。そして世界中に戦争を仕掛け、一度は退位に追い込まれてしまう。ですがナポレオンは流刑となった後脱出し、パリへ戻り再び戦いに身を投じるようになったんです。

それじゃあここからはナポレオンの軌跡を世界史大好き歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこが、英雄として称えられているナポレオンの生涯について紹介していく。

1 ナポレオン登場!

image by iStockphoto

世界史の中で、白馬に乗り赤いマントをひらりと翻す軍服を着た彼を知らない人はいないでしょう。今回の主人公は英雄ナポレオン・ボナパルト。彼は軍人でしたが、クーデタによってフランスを牛耳ることに。そして世界中へ侵攻し戦争を仕掛けた人物です。ナポレオンと言えば、「私の辞書に不可能という文字はない」という文句はとても有名ですよね。そこで今回はそんな英雄ナポレオンの軌跡を一緒に見ていきたいと思います。

1-1 コルシカ島の貴族

ナポレオンは1769年にコルシカ島で生まれました。彼の生家は貴族。そして1784年にパリ士官学校に入学することに。通常4年はかかる士官学校でしたが、ナポレオンはわずか11か月で卒業。かなりのエリートですね。余談ですが、ナポレオンは数学が得意で、幾何学でナポレオンの定理を発見しています。

1-2 ヴァンデミエールの反乱

1795年にパリで王党派の反乱が起きました。これの鎮圧の指揮を取ったのがナポレオン。彼は王党派の暴徒に対してためらいなく葡萄弾と呼ばれる大砲用の砲弾を放ちました。葡萄弾は殺傷能力が高いため、ルイ16世は使用を禁止していた代物。ナポレオンは暴徒とはいえフランス国民に対してためらいなく放ったのを考えると恐ろしいですね。しかしこの反乱を鎮めたことで、彼の名声と昇進につながることに。

1-3 イタリア、エジプトへの遠征

Baron Antoine-Jean Gros-Battle Pyramids 1810.jpg
By アントワーヌ=ジャン・グロ - Usenet, パブリック・ドメイン, Link

フランス革命後にフランス革命政権を打倒しようと対仏大同盟が結ばれました。ナポレオンはこの同盟を解体するため、各地へ遠征へ。1796年から97年にかけてイタリアへと遠征し、イタリアとオーストリアに勝利。1798年からはイギリスとインドの交易を分断する為にエジプトへ向かいます。ナポレオン軍は陸の戦いでは勝利を収めましたが、海上ではネルソン率いる海軍に敗北したため、エジプトで孤立することに。余談ですが、エジプトへの遠征でナポレオンはロゼッタ・ストーンを発見しました。

1-4 ブリュメール18日のクーデタ

ナポレオンの遠征軍が孤立している中、イギリス、オーストリア、ロシアらが第2回対仏同盟を結ぶことになりました。この知らせを受けてナポレオンは部下をエジプトに置いたまま、パリへ帰還。そしてクーデタを起こし統領政府の第1統領へ就任しました。これは事実上の独裁政権の誕生でした。

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2 ナポレオンの最盛期

クーデタを起こし晴れて独裁となったナポレオン。1804年には戴冠式が行われ、ナポレオンは皇帝となりました。戴冠式ではパリのノートルダム大聖堂で行われました。なんとナポレオンは戴冠式のために教皇をパリまで呼びつけていました。そしてあろうことか自分で冠を被ったとか。本来なら教皇から戴冠されるもので、これはナポレオンが教皇よりも自分の方が偉いという意思表示でした。それではここからはナポレオンが独裁となった後の様子について紹介していきます。

2-1 国内の安定を図ったナポレオン

アルプスへの遠征でオーストリアを破ったナポレオン。その後イギリスと和約を結んだことでつかの間の平和が訪れました。

ナポレオンは国内政策で、銀行を設立し税制改革を行い、フランス経済を立て直しに成功します。またナポレオン法典では、法の前で人は平等であることや私有財産の絶対、政教分離などを示しました。このナポレオン法典は、ヨーロッパの法律に影響を与えることになりました。

2-2 ダヴィッド描く「ナポレオンの戴冠式」

Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon edit.jpg
By ジャック=ルイ・ダヴィッド - Edited version of: File:Jacques-Louis David, The Coronation of Napoleon.jpg Who is Who, パブリック・ドメイン, Link

ナポレオンの戴冠式は、画家ダヴィッドによって描かれたもの。彼はナポレオンを本物よりも3割ほど美化して描いています。しかしダヴィッドだけが依頼主に媚びを売るようなことをしたわけではありません。当時の画家は依頼主に気に入られようと美化して描いていました。さて、ダヴィッドの絵は実際の戴冠式とは異なっていることがあります。それは絵ではナポレオンの母が描かれていますが、実際には参列していなかったのです。ナポレオンの弟が出席を許されなかったため、同情して出席しなかった説や、息子が皇帝に相応しくないと思ったからという説も。いずれにしても実の子の名誉ある式典に参列しないなんてなんとなく不思議ですよね。

2-3 ナポレオンの妻たち

戴冠する少し前にナポレオンは、ジョセフィーヌと結婚していました。彼女は明るい性格で社交的な人物でした。ジョセフィーヌはナポレオンよりも6歳年上の寡婦。つまり彼女にとっては再婚ですね。もともと彼女はナポレオンの上司バラスの愛人でした。

ジョセフィーヌを愛していたナポレオンでしたが、ジョセフィーヌとの間では子どもに恵まれませんでした。そのため1809年に離婚。しかし次の年に、ハプスブルク家出身のマリ・ルイーズを花嫁として迎えました。完全な政略結婚。ナポレオンは軍人から成りあがったため、箔をつけるために皇女であったマリと結婚したのでした。

2-4 英雄のファッション

ナポレオンといえば、軍服姿に白馬。よく歴史書に載っているナポレオンの絵画は、宮廷画家ダヴィッドによるものです。かの有名な絵はアルプスを越えている際の様子を描いたもの。ですが、これは宣伝用に描かれたものでした。実際には山道に強いロバでアルプスを越えていたのですが、白馬へ変更。このようにナポレオンは皇帝としての権威を強めるために勇敢なイメージの絵をいくつもダヴィッドに描かせています。自分の印象をよく見せようとするとはなかなかの策士ですね!

2-5 英雄に失望した天才ベートーヴェン

ナポレオンに対して大きな期待を持っていたベートーヴェン。彼が作った曲に第三交響曲に「英雄」があります。ベートーヴェンはボナパルトの名をこの曲につけて贈るつもりでした。しかし皇帝へ就任したニュースを受け、失望。なぜ失望したのかというと、ナポレオンはせっかく人権宣言で人々は平等だと宣言したフランスで、再び新しい王朝の幕開けを図ったから。結局この曲は「英雄」という名に変更しナポレオンへは贈られませんでした。

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3 皇帝ナポレオン、ヨーロッパへ戦争開始!

皇帝ナポレオンは、ヨーロッパを支配するため、ナポレオン戦争を仕掛けます。ナポレオンは皇帝の権力を不動のものとすべく戦いに明け暮れることに。この章ではナポレオン戦争について詳しく見ていきたいと思います。

3-1 攻めるナポレオン

ナポレオンは1805年、イギリスへと侵攻しますが、トラファルガーの戦いで敗北。再びネルソンに敗れました。2度も勝利したイギリスでしたが、ネルソンは狙撃され亡くなりました。しかし同年、アウステルリッツ戦いに勝利すると、神聖ローマ帝国を解体します。そしてナポレオンが盟主となり、ライン同盟を結びました。同盟国は、オーストリアとロシア、そしてプロイセン。次にナポレオンは敵対するイギリスを経済的に圧迫するため大陸封鎖令を出しました。しかしこの封鎖令によって逆に同盟国の経済にダメージを与えてしまうことに。その当時の経済は既にイギリス抜きでは語れないほどになっていたのです。

またナポレオンは次々自分の兄弟を国王としてナポリ王(後にスペイン王)、オランダ王として各国に送り出します。野心の強さがよく分かりますね。しかし連勝し続けたのはここまででした。

3-2 ロシア遠征の失敗

大陸封鎖令が出ていましたがロシアがそれを破り、イギリスと貿易を再開。ナポレオンはロシアへの制裁で60万もの兵を率いてロシアへ向かいました。しかしこれが大失敗に終わることに。ナポレオンは軍を捨てパリに逃げ帰りました。そしてロシア遠征の次の年に、各国がフランスを襲います。1813年に諸国民戦争と言われるライプツィヒの戦いでナポレオンは敗れました。

3-3 ゴヤ、ナポレオン軍の残虐さを描く

El Tres de Mayo, by Francisco de Goya, from Prado in Google Earth.jpg
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これは宮廷画家ゴヤの「1808年5月3日、プリンシペ・ピオ丘での銃殺」です。スペインではルイ14世の治世からスペイン・ブルボン家が支配し、カルロス4世の治世でした。そこへナポレオン軍が侵攻。両親と母の愛人ゴドイに反感を持った王太子フェルナンドによる裏切りでした。しかし王座はフェルナンドではなく、実の兄を王座に就けることに。

ゴヤの作品では反フランス運動を鎮圧したナポレオン軍が報復として市民を虐殺している様子が描かれています。両手を広げる白い服を着た男性の右手に注目。何やら手のひらに窪みのようなものがありますね。これはキリストが十字架に磔(はりつけ)の刑にされた時にできた「聖痕」と呼ばれる傷のこと。ゴヤはこの男性を殉教者として描き、フランスと勇敢に戦った市民がいたことをキャンパスへと残しました。実際の虐殺では老若男女問わず無差別に命を奪われたそう。ちなみにここでナポレオン軍として描かれている人物たちはフランス人ではなく、フランス軍に所属していたエジプト人たち。皆視線が男性ではなく下を向いていますね。銃を向ける彼らの葛藤が伝わってきますね。

4 ナポレオンの最期

1805年に始まったヨーロッパへのナポレオン戦争。しかし1812年のロシア遠征の失敗からナポレオンの運命は暗転します。ロシア遠征に失敗したナポレオンは軍を捨ててパリへ逃げ帰りました。そしてこれを機に彼の退位が決定。ナポレオンはエルバ島へ流刑となりました。

4-1 ナポレオン戦争後の王政復古

ナポレオン戦争を受けて、各国はウィーンに集結し戦争処理が始まりました。しかしこのウィーン会議は、各国の利害が対立したためなかなか進みませんでした。その状況を「議会は踊る、されど進まず」と揶揄されてしまう始末。議論を進めて、正統主義を採用し妥協が成立することに。正統主義とは、フランス革命よりも前の状態に戻すというもの。だからブルボン王朝は復活することができたのですね。これにより亡命していたルイ18世が即位することに。

またイギリスをはじめオーストリア、ロシア、プロイセンの4国がウィーン体制を築きました。これは革命の防止や紛争を抑制するために作られ、ナポレオン戦争によって広まった自由主義ナショナリズムを弾圧していくことに。

\次のページで「4-2 百日天下」を解説!/

4-2 百日天下

しかしナポレオンはここで終わりませんでした。彼はなんとエルバ島を脱出。この脱出に関して当時の新聞の見出しが、初めは怪物などと表記していたのにナポレオンがパリへ到着する頃には陛下のご到着などと書かれていました。なんとも面白いですね。そして彼がパリへ着く頃にはルイ18世はとっくに亡命した後でした。

4-3 ワーテルローの戦い

Andrieux - La bataille de Waterloo.jpg
By Clément-Auguste Andrieux (1829–1880) - Base Joconde, パブリック・ドメイン, Link

パリへ戻ったナポレオンでしたが、彼の天下はそう長くはありませんでした。1815年にイギリス、オランダ、オーストリアなどの各国は打倒ナポレオンを掲げフランスを攻撃。そこへプロイセンも参戦し、ついにナポレオンは倒されることに。こうしてワーテルローの戦いは集結と同時にナポレオンの百日天下も終わりを迎えました。

その後ナポレオンは再び島流しへ。2度目の島流しは南大西洋に位置する火山島、セントヘレナ島。1815年に流刑されて、その後6年後に没しました。彼の死因は毒殺とも病気であったとも言われています。

4-4 ナポレオンの功績

ナポレオンはヨーロッパ大陸の支配を目的に、1805年から大陸各地へ戦争を仕掛けました。そうした中で、フランス革命の理念がヨーロッパ中に広まることに。フランス革命前では、身分の違いが当たり前で個人の自由はなかった時代。しかし革命を通して、王政ではなく個人の尊重が叫ばれたことは、その後の19世紀で起こった自由主義やナショナリズム(国民運動)へ繋がっていきます。そう考えると、ナポレオンの功績はとても大きなことですね。

フランスに誕生した英雄!

フランス革命後に登場したナポレオン。彼は多くの戦いによってフランスの領土を拡大していきました。そして国内においては、国民からの熱望で軍人の身でありながら皇帝へとなりました。

1812年のロシア遠征の失敗から彼の人生は暗転してしまいますが、再び返り咲いてみせます。

フランス一国で各国の連合国を敵に回しても戦う姿勢は素晴らしいですね。ナポレオンが引き起こした各国への戦争は、ヨーロッパ中に自由主義やナショナリズムを起こしました。この流れは各国がウィーン体制を敷いていても止められない大きな動きへ。

フランスの混乱期に颯爽と登場したナポレオンは、今日でも多くの人を魅了しています。

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フランスフランス革命ブルボン朝ヨーロッパの歴史世界史歴史

フランスの英雄「ナポレオン」の偉大なる業績を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は、軍人でありながら皇帝となった英雄「ナポレオン」についてです。彼はクーデタで総裁政府を倒し、皇帝となった男です。そして世界中に戦争を仕掛け、一度は退位に追い込まれてしまう。ですがナポレオンは流刑となった後脱出し、パリへ戻り再び戦いに身を投じるようになったんです。

それじゃあここからはナポレオンの軌跡を世界史大好き歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこが、英雄として称えられているナポレオンの生涯について紹介していく。

1 ナポレオン登場!

image by iStockphoto

世界史の中で、白馬に乗り赤いマントをひらりと翻す軍服を着た彼を知らない人はいないでしょう。今回の主人公は英雄ナポレオン・ボナパルト。彼は軍人でしたが、クーデタによってフランスを牛耳ることに。そして世界中へ侵攻し戦争を仕掛けた人物です。ナポレオンと言えば、「私の辞書に不可能という文字はない」という文句はとても有名ですよね。そこで今回はそんな英雄ナポレオンの軌跡を一緒に見ていきたいと思います。

1-1 コルシカ島の貴族

ナポレオンは1769年にコルシカ島で生まれました。彼の生家は貴族。そして1784年にパリ士官学校に入学することに。通常4年はかかる士官学校でしたが、ナポレオンはわずか11か月で卒業。かなりのエリートですね。余談ですが、ナポレオンは数学が得意で、幾何学でナポレオンの定理を発見しています。

1-2 ヴァンデミエールの反乱

1795年にパリで王党派の反乱が起きました。これの鎮圧の指揮を取ったのがナポレオン。彼は王党派の暴徒に対してためらいなく葡萄弾と呼ばれる大砲用の砲弾を放ちました。葡萄弾は殺傷能力が高いため、ルイ16世は使用を禁止していた代物。ナポレオンは暴徒とはいえフランス国民に対してためらいなく放ったのを考えると恐ろしいですね。しかしこの反乱を鎮めたことで、彼の名声と昇進につながることに。

1-3 イタリア、エジプトへの遠征

Baron Antoine-Jean Gros-Battle Pyramids 1810.jpg
By アントワーヌ=ジャン・グロ – Usenet, パブリック・ドメイン, Link

フランス革命後にフランス革命政権を打倒しようと対仏大同盟が結ばれました。ナポレオンはこの同盟を解体するため、各地へ遠征へ。1796年から97年にかけてイタリアへと遠征し、イタリアとオーストリアに勝利。1798年からはイギリスとインドの交易を分断する為にエジプトへ向かいます。ナポレオン軍は陸の戦いでは勝利を収めましたが、海上ではネルソン率いる海軍に敗北したため、エジプトで孤立することに。余談ですが、エジプトへの遠征でナポレオンはロゼッタ・ストーンを発見しました。

1-4 ブリュメール18日のクーデタ

ナポレオンの遠征軍が孤立している中、イギリス、オーストリア、ロシアらが第2回対仏同盟を結ぶことになりました。この知らせを受けてナポレオンは部下をエジプトに置いたまま、パリへ帰還。そしてクーデタを起こし統領政府の第1統領へ就任しました。これは事実上の独裁政権の誕生でした。

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