今回は「保元の乱」について源平マニアのリリー・リリコと一緒に解説していきます。
ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経をテーマに卒業論文を書いた。
信西、親政を盤石なものにする
「保元の乱」によって対立していた後白河天皇と崇徳上皇の政権争いに終止符が打たれた結果、敗戦した崇徳上皇自身は讃岐へ流罪、上皇についていた藤原頼長は自害し、源為義をはじめとした武士たちも処刑となりました。そうして、朝廷には新たな後白河天皇政権が確立します。この後白河天皇政権下で最も発言力を持っていたのが信西(しんぜい)という僧侶でした。信西の妻は後白河天皇の乳母であり、後白河天皇からの信頼も厚かった彼は先の「保元の乱」においても後白河天皇に随行しています。
信西は荘園整理令を盛り込んだ『保元新制』を推進しました。荘園整理令の目的を簡単に解説すると、違法な荘園を取り締まったり、荘園関係の紛争を集束させることです。『保元新制』がうまく回ると、今度は役人の綱紀粛正などにも取り組みます。要するに、不正を働いている役人を厳しく取り締まったんですね。このように政務に励む一方で、信西は自分の息子たちや親戚を役職につけたり、土地を受領させたりと、権力と経済力を手に入れていきます。
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平家一族の大出世!一介の武士から国司へ
信西と同時に清盛を棟梁とする平家一門も台頭してきます。ここで信西と清盛の権力争いでも起きそうなものですけど、実は、信西と清盛は以前からの知り合いであり、仲も良かったみたいなんです。その証拠に清盛は自分の娘と信西の息子を婚約させていますし、信西も清盛を優遇しています。その甲斐あって、平家は清盛を播磨守として、さらにその弟たちを含めた四人で四つの国の国司(長官)ないし、その次あたりの地位に就いたのです。現代風にすると兄弟四人が同時に県知事就任というところですね。当然ながら経済力はうなぎ登り。しかも、清盛は大宰府の役人にもなりましたから、日宋貿易に力を入れてさらに資産を増やしていきます。さらに「保元の乱」で荒れた都の治安維持に平家の武士たちが必要不可欠となりました。実質警察権を握ったようなものですね。
ちなみに、当時の日本は894年に菅原道真が遣唐使を廃止してから1401年に始まる日明貿易(勘合貿易)まで、国同士による公式国交は行っていません。なので、この貿易は個人的なやり取り(民間貿易)になります。
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朝廷内の派閥争いふたたび
信西と平家が目覚ましい跳躍を遂げていますが、もちろん、従来の権力者たちもうかうかしていたわけではありません。「保元の乱」で崇徳上皇一派がいなくなった朝廷では、後白河天皇と亡き鳥羽法皇の中宮・美福門院率いる二条親政派の対立が始まります。なぜ美福門院がここで出てくるかと言うと、彼女は鳥羽法皇の荘園を相続して莫大な経済力を持っていたからです。株式会社が大株主の意見を無視できないのと同じ状況だったんですね。
もともと後白河天皇は息子の守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして天皇の座にいるにすぎませんでした。守仁親王が成長すれば退位しなくてはなりません。守仁親王は後白河天皇の子どもですから、退位しても白河法皇や鳥羽法皇のように院政を敷けば、後白河天皇には何の問題もないのではないか、とお思いになるでしょう。ところが、「保元の乱」以前から美福門院は守仁親王を養子にしていたので、彼女もまた守仁親王の「母親」でした。つまり、美福門院は守仁親王へ強い影響力を持っていたんです。
後白河天皇のもとでがんばっていた信西でしたが、そもそもがそういう約束だったので美福門院の要求を飲まざるを得ません。後白河天皇は守仁親王に譲位し、両陣営の対立が深まっていきました。
後白河院制派の人事
退位させられた後白河上皇は当然ながら面白くありませんよね。しかも、信じていた信西にまで譲位を迫られたんですから、もう彼ひとりに全幅の信頼を置くことも出来ません。(信西はもともと鳥羽上皇の側近で、美福門院とも強い関係がありました。)信西を頼れないとなると、後白河院制派は新たな人材を探さなければなりません。どこかに生まれが良くて地位もあって美福門院とも関係ない、おまけに武士ともつながりのある優秀で即戦力になるものはいないか、と無茶苦茶な人材を探した結果、なんといたんですよ。藤原北家の出身で、父親は鳥羽院政時代の重臣。軍事貴族の奥州藤原氏と姻戚関係にあり、しかも源義朝(頼朝の父)ともつながり、かつ、清盛とも姻戚。それが藤原信頼(ふじわらののぶより)という公卿でした。こんなハイスペックな人材を逃す手はありません。後白河上皇は信頼を登用すると寵臣として異例の出世をさせました。
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