「保元の乱」が終結した次は「平治の乱」が始まる。ふたつの乱の間はわずか4年しか空いていない。そのたった4年の間に朝廷でまたもや権力争いが巻き起こり、「平治の乱」が立て続くわけです。そして、この乱の後はいよいよ源平合戦が始まる。

今回は「保元の乱」について源平マニアのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経をテーマに卒業論文を書いた。

「保元の乱」を経てできあがった四つ巴勢力

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信西、親政を盤石なものにする

「保元の乱」によって対立していた後白河天皇と崇徳上皇の政権争いに終止符が打たれた結果、敗戦した崇徳上皇自身は讃岐へ流罪、上皇についていた藤原頼長は自害し、源為義をはじめとした武士たちも処刑となりました。そうして、朝廷には新たな後白河天皇政権が確立します。この後白河天皇政権下で最も発言力を持っていたのが信西(しんぜい)という僧侶でした。信西の妻は後白河天皇の乳母であり、後白河天皇からの信頼も厚かった彼は先の「保元の乱」においても後白河天皇に随行しています。

信西は荘園整理令を盛り込んだ『保元新制』を推進しました。荘園整理令の目的を簡単に解説すると、違法な荘園を取り締まったり、荘園関係の紛争を集束させることです。『保元新制』がうまく回ると、今度は役人の綱紀粛正などにも取り組みます。要するに、不正を働いている役人を厳しく取り締まったんですね。このように政務に励む一方で、信西は自分の息子たちや親戚を役職につけたり、土地を受領させたりと、権力と経済力を手に入れていきます。

平家一族の大出世!一介の武士から国司へ

信西と同時に清盛を棟梁とする平家一門も台頭してきます。ここで信西と清盛の権力争いでも起きそうなものですけど、実は、信西と清盛は以前からの知り合いであり、仲も良かったみたいなんです。その証拠に清盛は自分の娘と信西の息子を婚約させていますし、信西も清盛を優遇しています。その甲斐あって、平家は清盛を播磨守として、さらにその弟たちを含めた四人で四つの国の国司(長官)ないし、その次あたりの地位に就いたのです。現代風にすると兄弟四人が同時に県知事就任というところですね。当然ながら経済力はうなぎ登り。しかも、清盛は大宰府の役人にもなりましたから、日宋貿易に力を入れてさらに資産を増やしていきます。さらに「保元の乱」で荒れた都の治安維持に平家の武士たちが必要不可欠となりました。実質警察権を握ったようなものですね。

ちなみに、当時の日本は894年に菅原道真が遣唐使を廃止してから1401年に始まる日明貿易(勘合貿易)まで、国同士による公式国交は行っていません。なので、この貿易は個人的なやり取り(民間貿易)になります。

朝廷内の派閥争いふたたび

信西と平家が目覚ましい跳躍を遂げていますが、もちろん、従来の権力者たちもうかうかしていたわけではありません。「保元の乱」で崇徳上皇一派がいなくなった朝廷では、後白河天皇と亡き鳥羽法皇の中宮・美福門院率いる二条親政派の対立が始まります。なぜ美福門院がここで出てくるかと言うと、彼女は鳥羽法皇の荘園を相続して莫大な経済力を持っていたからです。株式会社が大株主の意見を無視できないのと同じ状況だったんですね。

もともと後白河天皇は息子の守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして天皇の座にいるにすぎませんでした。守仁親王が成長すれば退位しなくてはなりません。守仁親王は後白河天皇の子どもですから、退位しても白河法皇や鳥羽法皇のように院政を敷けば、後白河天皇には何の問題もないのではないか、とお思いになるでしょう。ところが、「保元の乱」以前から美福門院は守仁親王を養子にしていたので、彼女もまた守仁親王の「母親」でした。つまり、美福門院は守仁親王へ強い影響力を持っていたんです。

後白河天皇のもとでがんばっていた信西でしたが、そもそもがそういう約束だったので美福門院の要求を飲まざるを得ません。後白河天皇は守仁親王に譲位し、両陣営の対立が深まっていきました。

後白河院制派の人事

退位させられた後白河上皇は当然ながら面白くありませんよね。しかも、信じていた信西にまで譲位を迫られたんですから、もう彼ひとりに全幅の信頼を置くことも出来ません。(信西はもともと鳥羽上皇の側近で、美福門院とも強い関係がありました。)信西を頼れないとなると、後白河院制派は新たな人材を探さなければなりません。どこかに生まれが良くて地位もあって美福門院とも関係ない、おまけに武士ともつながりのある優秀で即戦力になるものはいないか、と無茶苦茶な人材を探した結果、なんといたんですよ。藤原北家の出身で、父親は鳥羽院政時代の重臣。軍事貴族の奥州藤原氏と姻戚関係にあり、しかも源義朝(頼朝の父)ともつながり、かつ、清盛とも姻戚。それが藤原信頼(ふじわらののぶより)という公卿でした。こんなハイスペックな人材を逃す手はありません。後白河上皇は信頼を登用すると寵臣として異例の出世をさせました。

\次のページで「高まる信西への反感」を解説!/

高まる信西への反感

こうして朝廷内に四つ巴の勢力が成立し、お互いににらみ合うことになるのですが、清盛の平家一門は他の陣営に対しては中立の立場を取っていました。信西の息子、信頼の息子はともに清盛の娘と婚約状態にあるわけですから、清盛からみればふたりは自分の親戚にあたります。中立を保つのは難しいことではありませんでした。

さて、後白河上皇は新しい人事を行いましたが、依然として信西は寵臣に変りありません。その上、信西は二条親政派のもとにも自分の息子を送り込み、朝廷での強い発言力を持っていました。四つ巴の勢力が、と冒頭で記述しましたが、信西が頭一つ抜き出た状態にあったのです。

しかし、信西は貴族たちから多くの反感を買っていました。政策によって収入が減ったもの、もともと身分の低い信西が朝廷の中心にいることが気に入らないもの、と理由は様々でありながら確実に信西へのヘイトが高まっていったのです。その中には同じ後白河院制派の信頼も含まれていました。こうして信西は二条親政派と後白河院制派のどちらからも邪魔者と見なされ、派閥の垣根を超えた反信西勢力が形成されていったのです。

クーデターから始まる「平治の乱」

『平治物語絵巻』三条殿焼討
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反信西派のクーデター

反信西派が結束しますが、中立の清盛の動向がうかがえませんでした。平家は都で最大の武士団でしたから、敵になったら厄介なことこの上ありません。下手をすると戦況をひっくり返されてしまいます。そこで平治元年(1159年)の年の瀬、清盛が熊野詣に出かけた隙に反信西派が動き出しました。熊野詣というのは和歌山県の熊野三山へお参りに行くことで、平安時代は天皇も参詣するほど流行しています。この熊野詣は往復680キロ、約一ヶ月の長旅になりますから、清盛はしばらく帰って来れません。それに、清盛が引き返してきたとしても、信頼は清盛と姻戚関係を結んでいますから、きっと自分の味方をしてくれるだろうと高を括っていました。

そして、信頼は武士たちを率いて後白河上皇や信西のいる三条殿を襲撃します。信頼は素早く後白河上皇を確保した後、建物に放火して逃げ出てきたものは誰であれ殺してしまいました。多くの犠牲者が出る中、しかし、信西とその一派は襲撃を事前に知ってすでに脱出していたのです。なんとか山城国(京都南部)まで逃れたのですが、ほどなくして発見されてしまった信西は都で晒首となりました。さらに要職に就いていた息子たちも流罪となり、信西一派は壊滅したのです。

信頼の大勝利?いいえ、ここからが本番です

信西を死に追いやった信頼は彼に代わって朝廷のトップに躍り出ます。源義朝もクーデター成功の報酬として清盛の役職だった播磨守に着任しました。ところで、頼信が信西に成り代わることができたかと言うと、まったくそんなことはありません。そもそも、後白河院制派と二条親政派は打倒信西のみを目指して手を組んだわけですから、信西がいなくなればまたお互い政敵に戻るわけです。信頼がトップになったのもまた他の貴族たちの反感を買いました。さらに後白河上皇も信頼の手によって監禁状態にあります。後白河上皇としても飼い犬に手を噛まれたようなものですね。

信頼とその配下・源義朝の武士団。これに対抗できるのは清盛の他にありません。後白河院制派と二条親政派は揃って清盛の帰還を待つことにしたのです。

清盛の帰還

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一方、清盛が都のクーデターを知ったのは熊野詣へ参る途中でした。急いで帰ったところで親しかった信西はすでに亡く、朝廷も一変しています。清盛は後白河院制派と二条親政派のどちらに対しても中立的な立場でいましたし、信頼とも姻戚関係にありましたから、すぐに彼の地位が揺らぐということはありません。しかし、清盛は信頼らへ反感を持つ貴族たちに説得され、信頼を打ち倒すことにしました。そうして、二条天皇は密かに清盛の邸宅へと移動します。このとき、後白河上皇もこっそり仁和寺へと逃れていましたので、事実上、信頼は大儀となる天皇を失うわけです。

清盛は帰還の最中にも各地から軍勢を集めていましたから、戦闘の準備は万全でした。ところが、清盛と戦うハメになった義朝は、もともとクーデターのための少数精鋭しかありません。本当なら帰還途中で装備もろくに揃っていない清盛を叩きたかったところですが、それも清盛は味方になってくれると思い込んでいた信頼に許可されませんでした。しかも、清盛は帰還後すぐに信頼に完全に服従するフリをして、自分の娘と信頼の息子の婚約をとりやめています。つまり、清盛はこれで信頼と戦うのに何のしがらみもなくなったということですね。

\次のページで「戦う前に負けが決まった信頼」を解説!/

戦う前に負けが決まった信頼

二条天皇を得て、さらに貴族たちの支持も得た清盛。もはや錦の御旗が信頼に戻ることはありません。しかし、賊軍となり果てても義朝は一族と郎党を引き連れて出陣します。

一方、天皇の住まいであり、政治の場である御所を戦いの場にして壊したくない清盛は、自分の邸宅のある六波羅の近くへ義朝たちをおびき寄せることにしました。六波羅へ向けて撤退する平家を義朝は追撃しますが、奇しくも、先の「保元の乱」で義朝自ら父や兄弟を処刑した六条河原にて敗北してしまいます。平家に武力で負けたとなると、もう信頼に抵抗するすべはありませんでした。

「平治の乱」の戦後処理

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クーデターの主犯・信頼の末路

負けが決まった信頼は最初こそ義朝と一緒に東国へ逃げようとしますが、二条天皇を逃してしまった信頼は、部下であるはずの義朝に「日本一のうっかりさんめ!」とめちゃくちゃに叱られて見捨てられます。まあ、怒りたくなりますよね。彼の言う通り熊野の帰路で清盛を襲撃していれば、こんなことにはならなかったのですから。それで信頼は大人しく清盛に出頭します。それまでの朝廷なら、貴族でしかも家格の高いの信頼ならどんなに重くても流罪が最高の刑でした。しかし、皮肉なことに、彼が殺した信西が死刑制度を復活させています。そうして、信西殺害と三条殿襲撃を行ったクーデターの主犯として信頼は処刑となりました。また、彼に味方していた貴族たちも次々と流罪や官職を罷免されていきます。

義朝の最期と頼朝、義経の処遇

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信頼を見捨て、生き残った一族郎党を引き連れた義朝は本拠地である東国へ逃れようとしますが、黙って見過ごす平家ではありません。何度も追っ手と戦闘を繰り返しているうちに息子や家臣たちが死に、頼朝ともはぐれてしまいます。それでもなんとか尾張国(愛知県)まで逃げ延び、縁者を頼って匿ってもらいました。ところが、その縁者に裏切られて義朝は部下ともども殺されてしまいます。

はぐれた頼朝も捕縛され、都へ出頭させられると清盛の前に引き出されました。頼朝ももちろん死罪となるのですが、ここへきて清盛の義母・池禅尼(清盛の父・忠盛の正妻。清盛とは血が繋がっていない)が「頼朝は死んだ息子の家盛(清盛の腹違いの弟)とよく似ているから、どうか殺さないでほしい」と助命するのです。しかも清盛がその願いを聞かないとなればハンガーストライキまで初めてしまう始末。これには清盛も従わざるを得ませんでした。池禅尼のお陰で頼朝は伊豆へ流罪となり、彼はそこで平家の配下に監視されながら成長することとなります。

また、後に源平合戦の最前線に立つことになる義経はこのときわずか一歳の赤ちゃんでした。兄弟の今若、乙若と共に母親の常盤御前に連れられて平家の追っ手から逃げますが、常盤御前の母が平家に捕まったと知って出頭します。幼いとはいえ義朝の子どもですから、義経たちも死刑となるはずでした。しかし、常盤御前は絶世の美女と謳われる美貌の持ち主で、清盛もそれにクラッときてしまいます。将来は武士にせず、寺に入れて僧侶にすることを条件に義経兄弟たちは助命され、義経は常盤御前や兄弟と別れて鞍馬寺で養育されることになりました。

平家一門の更なる飛躍

「平治の乱」によって後白河院制派と二条親政派はお互いに臣下を失っていました。そこで初めて歩み寄ることとなったのですが、ここで「平治の乱」一番の功労者だった平家が躍進することになります。

ライバルだった源義朝がいなくなり、清盛と肩を並べられるような武士はもういなくなってしまったのですから、都の武士団は平家一強。治安維持をするのも平家なら、朝廷の軍だって平家です。つまり、日本の軍事権や警察権は完全に平家のものとなったんですね。この武力を背景に清盛は出世を重ね、ついには太政大臣(現在の総理大臣)にまで上り詰めます。武士から太政大臣になるのは清盛が初めてです。

権力、経済力、軍事力。すべてを手に入れた清盛は、一族を次々と朝廷の重要な役職につけ、「平家にあらずんば人にあらず」と身内が豪語するほどの大勢力となっていきました。

\次のページで「「おごる平家」政権の誕生」を解説!/

「おごる平家」政権の誕生

「保元の乱」に引き続き「平治の乱」は政治争いの延長上に起こった武力闘争です。いずれも期間は短く、清盛率いる平家に有利に働く戦争となりました。このチャンスをしっかり我が物にしてのし上がる清盛でしたが、『平家物語』の通り「おごる平家は久しからず」となります。20年は短くはありませんが、次代へとその権勢を受け継げず、清盛一代の繁栄として終わってしまったので、長い歴史の流れから見ればほんの一瞬の出来事ですね。

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平安時代日本史歴史

源平合戦まで秒読み!「平治の乱」を源平マニアが5分でわかりやすく解説

「保元の乱」が終結した次は「平治の乱」が始まる。ふたつの乱の間はわずか4年しか空いていない。そのたった4年の間に朝廷でまたもや権力争いが巻き起こり、「平治の乱」が立て続くわけです。そして、この乱の後はいよいよ源平合戦が始まる。

今回は「保元の乱」について源平マニアのリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経をテーマに卒業論文を書いた。

「保元の乱」を経てできあがった四つ巴勢力

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信西、親政を盤石なものにする

「保元の乱」によって対立していた後白河天皇と崇徳上皇の政権争いに終止符が打たれた結果、敗戦した崇徳上皇自身は讃岐へ流罪、上皇についていた藤原頼長は自害し、源為義をはじめとした武士たちも処刑となりました。そうして、朝廷には新たな後白河天皇政権が確立します。この後白河天皇政権下で最も発言力を持っていたのが信西(しんぜい)という僧侶でした。信西の妻は後白河天皇の乳母であり、後白河天皇からの信頼も厚かった彼は先の「保元の乱」においても後白河天皇に随行しています。

信西は荘園整理令を盛り込んだ『保元新制』を推進しました。荘園整理令の目的を簡単に解説すると、違法な荘園を取り締まったり、荘園関係の紛争を集束させることです。『保元新制』がうまく回ると、今度は役人の綱紀粛正などにも取り組みます。要するに、不正を働いている役人を厳しく取り締まったんですね。このように政務に励む一方で、信西は自分の息子たちや親戚を役職につけたり、土地を受領させたりと、権力と経済力を手に入れていきます。

平家一族の大出世!一介の武士から国司へ

信西と同時に清盛を棟梁とする平家一門も台頭してきます。ここで信西と清盛の権力争いでも起きそうなものですけど、実は、信西と清盛は以前からの知り合いであり、仲も良かったみたいなんです。その証拠に清盛は自分の娘と信西の息子を婚約させていますし、信西も清盛を優遇しています。その甲斐あって、平家は清盛を播磨守として、さらにその弟たちを含めた四人で四つの国の国司(長官)ないし、その次あたりの地位に就いたのです。現代風にすると兄弟四人が同時に県知事就任というところですね。当然ながら経済力はうなぎ登り。しかも、清盛は大宰府の役人にもなりましたから、日宋貿易に力を入れてさらに資産を増やしていきます。さらに「保元の乱」で荒れた都の治安維持に平家の武士たちが必要不可欠となりました。実質警察権を握ったようなものですね。

ちなみに、当時の日本は894年に菅原道真が遣唐使を廃止してから1401年に始まる日明貿易(勘合貿易)まで、国同士による公式国交は行っていません。なので、この貿易は個人的なやり取り(民間貿易)になります。

朝廷内の派閥争いふたたび

信西と平家が目覚ましい跳躍を遂げていますが、もちろん、従来の権力者たちもうかうかしていたわけではありません。「保元の乱」で崇徳上皇一派がいなくなった朝廷では、後白河天皇と亡き鳥羽法皇の中宮・美福門院率いる二条親政派の対立が始まります。なぜ美福門院がここで出てくるかと言うと、彼女は鳥羽法皇の荘園を相続して莫大な経済力を持っていたからです。株式会社が大株主の意見を無視できないのと同じ状況だったんですね。

もともと後白河天皇は息子の守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして天皇の座にいるにすぎませんでした。守仁親王が成長すれば退位しなくてはなりません。守仁親王は後白河天皇の子どもですから、退位しても白河法皇や鳥羽法皇のように院政を敷けば、後白河天皇には何の問題もないのではないか、とお思いになるでしょう。ところが、「保元の乱」以前から美福門院は守仁親王を養子にしていたので、彼女もまた守仁親王の「母親」でした。つまり、美福門院は守仁親王へ強い影響力を持っていたんです。

後白河天皇のもとでがんばっていた信西でしたが、そもそもがそういう約束だったので美福門院の要求を飲まざるを得ません。後白河天皇は守仁親王に譲位し、両陣営の対立が深まっていきました。

後白河院制派の人事

退位させられた後白河上皇は当然ながら面白くありませんよね。しかも、信じていた信西にまで譲位を迫られたんですから、もう彼ひとりに全幅の信頼を置くことも出来ません。(信西はもともと鳥羽上皇の側近で、美福門院とも強い関係がありました。)信西を頼れないとなると、後白河院制派は新たな人材を探さなければなりません。どこかに生まれが良くて地位もあって美福門院とも関係ない、おまけに武士ともつながりのある優秀で即戦力になるものはいないか、と無茶苦茶な人材を探した結果、なんといたんですよ。藤原北家の出身で、父親は鳥羽院政時代の重臣。軍事貴族の奥州藤原氏と姻戚関係にあり、しかも源義朝(頼朝の父)ともつながり、かつ、清盛とも姻戚。それが藤原信頼(ふじわらののぶより)という公卿でした。こんなハイスペックな人材を逃す手はありません。後白河上皇は信頼を登用すると寵臣として異例の出世をさせました。

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