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ドイツ小貴族の娘「エカテリーナ二世」が大帝まで上り詰めた理由を歴女がわかりやすく解説

4-7、日本人大黒屋光太夫を謁見

1783年、伊勢白子(現鈴鹿市)の船頭だった大黒屋光太夫は江戸への航海途中に漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着、ロシア人に助けられて、シベリアの首府イルクーツクに。そしてキリル・ラックスマンの援助でサンクト・ペテルブルクに行き、1791年、63歳のエカテリーナに拝謁し、歓待されたそう。

エカテリーナはこれを機会に日本との交易を考えたようですが、光太夫らはラックスマン次男らと遣日使節として日本に派遣され帰国できたものの鎖国状態のために交易はならずでした。エカテリーナは光太夫に会い、「なんとかわいそうに」などと同情したという話は有名ですよね

5、エカテリーナの愛人たち

エカテリーナは、皇太子妃のときから女帝として即位後も愛人を何人も作りました。生涯において10人もの公認の愛人を持ち、夜ごとに違う男と寝室をともにしたとする伝説まであるくらいで、孫のニコライ1世に「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末(ただし、ニコライはエカテリーナが亡くなる1年前に誕生)。しかし10歳年下のグレゴリー・ポチョムキン以外には政治に口を出せるような人物はおらず、また、エカテリーナは愛人の情にほだされて政治に介入させるような人ではなかったということ。1774年エカテリーナ45歳の頃に結ばれたポチョムキンは、秘密裏に結婚したという話もあり、唯一のパートナー的存在だったといわれています。
またエカテリーナはパーヴェル大公の他、庶子を何人も儲けましたが、エカテリーナを超えるような優秀な子は出来なかったのですね。

6、エカテリーナの後継者

エカテリーナは息子パーヴェルにドイツから妃を迎え、孫息子が生まれるとすぐに取り上げて自分で育てました。
エカテリーナは義理の叔母エリザヴェータにされたことと同じことをしたのですが、孫息子のアレクサンドルはお気に入りで、パーヴェルを廃嫡してアレクサンドルに跡を継がせるつもりであったようです
また、パーヴェルの娘アレクサンドラをスウェーデン国王と結婚させるべくスウェーデン国王グスタフ・アドルフを招待、ふたりは恋愛感情を持ちましたが、婚約式の直前になってアレクサンドラのルター派への改宗が出来ないことが分かり、スウェーデン国王が激怒、婚約が見送られたことでエカテリーナは体調を崩したのでした。また息子パーヴェル大公に見切りをつけて、孫のアレクサンドルを後継ぎにしようと書類を作成したといわれていますが、それを実行する前に脳梗塞で倒れて亡くなりました。享年68歳。

パーヴェル大公は、父ピョートル3世と同じようにプロイセン大好きで猜疑心が強く、エカテリーナの期待外れの息子で、エカテリーナの死後にバーヴェル1世として即位したものの、エカテリーナの治世を否定するようなことばかりしたせいか、4年後に暗殺されました。息子のアレクサンドルが関わっていたかは謎ですが、アレクサンドル1世として即位しました。

ひたすら楽観的で前向きな姿勢で偉業を成し遂げた女性

14歳で見知らぬ国ロシアにやって来たエカテリーナは、子供の頃から勉強好きで教養を身に着け、野心さえ持っていました。そしてロシア語も学びエリザヴェータ女帝に気に入られようと努力し、陰謀渦巻く宮廷で信頼できる側近を作り、貴族たちの支持を取り付けました。無能な夫皇帝を廃して即位後は、ロシアをヨーロッパの国々からも大国へと認めさせる地位へ押し上げ、歴史に名を遺す偉業を成し遂げたなんて、並大抵の人間に出来ることではないでしょう。エカテリーナは回想で「何か苦難に打ち負かされそうになれば、生きる喜びを思って立ち直ること。すべてに耐えて克服するために、とにかく朗らかでなければ」と自分を鼓舞していたそう。先日見たエカテリーナ関連の番組でエルミタージュ美術館の職員の女性が「エカテリーナの文章や遺物を見ると元気になる、まわりにそういう雰囲気をもたらす人だったのだ」とコメントしていたのはとても印象的でした。

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