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ドイツ小貴族の娘「エカテリーナ二世」が大帝まで上り詰めた理由を歴女がわかりやすく解説

4-1、政治、文化にも多大な貢献をしロシアを一流大国に

エカテリーナは、今まで得た知識や教養を生かしてロシアの改革に着手。
トルコのオスマン帝国との戦争にも勝利、ポーランド分割などで領土もどんどん拡大したのです。エカテリーナの治世は成功に次ぐ成功をおさめました。

4-2、ナカース(訓令)を提案するが、時期尚早で実現せず

エカテリーナは、自身が読みふけったモンテスキューの「法の精神」、ベッカリーアの「犯罪と刑罰」など、西欧の啓蒙思想を盛り込んだ上に、農奴制の緩和も入った「訓令(ナカース)」を1766年開催の新法典編纂委員会で提案しましたが、当時のロシア社会はまだ未成熟な状態であり成果を上げられず、新法典編纂委員会もオスマン帝国との戦争が始まったために無期限休会し再開されず、訓令(ナカース)も実現はしませんでした。

4-3、文才を生かして文豪や文化人と文通

エカテリーナはフランスの文化人である哲学者のヴォルテール、百科全書派のディドロらと文通し、彼らに資金援助したのです。するとヴォルテールらは、フランスでエカテリーナ女帝が教養ある文化人であること、ロシアが田舎ではなく文化的な国であることなどを宣伝してくれるように。
その結果、フランスの社交界や教養人たちの間に、エカテリーナ女帝についてやロシアへの親しみが広まって、ロシアへフランスなどの文化人が職を求めてやって来ることになりました。
エカテリーナは、そうやって先進国の文化をロシアにもたらし、啓蒙君主として自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興などなど、ロシアにトップダウンの近代化政策を推進したのですね。

4-4、学校や孤児院を創設し、宮殿なども建設

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エカテリーナは側近のダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据えてロシアの文化・教育の整備も熱心に行いました。ロシア語辞典の編纂事業から、後年のロシア文学発展の基盤を作り上げ、そしてボリショイ劇場、エルミタージュ宮殿(現在のエルミタージュ美術館)、タブリダ宮殿、パヴロフスク宮殿、アレクサンデル宮殿なども建設し、貴族の子女のためにスモーリヌィ女学院を設立して、貴婦人の教育にも尽力、もちろん美術品なども多数収集しました。
エカテリーナ自身も、42歳から書き始めた回想録、ヴォルテールから愛人ポチョムキンまでとの往復書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残しています。

4-5、エカテリーナの対外政策

エカテリーナはオスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年)、3回にわたるポーランド分割などを通じて、ロシア帝国の領土を拡大。1780年、アメリカ独立戦争には、ロシアは中立国としてアメリカへの輸出を推進、他のヨーロッパ諸国に働きかけて武装中立同盟を結束。そして第一次ロシア・スウェーデン戦争では、ロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗北しましたが、イギリスとプロイセンの仲介により講和したおかげで、ロシアには何の悪影響もなし。

4-6、外交に積極的で紛争の仲裁も

エカチェリーナは積極的な外交政策を推進、対外的に啓蒙専制君主、先進的に見られることを好んだようで、紛争があると仲裁を勝って出ようとし、それによってロシアが大国として国際的な影響力を高めたのでした。

しかし、1789年に起こったフランス革命にはさすがに脅威を感じたのでロシア国内の自由主義を弾圧することも。そしてフランス革命にも個人的には関心を示し、ルイ16世の弟アルトワ伯爵(後のシャルル10世)ら亡命貴族を受け入れましたが、フランス革命戦争への介入は行われず。

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