今回は、ロシアの女帝エカテリーナ二世を取り上げるぞ。エカテリーナは、もとはドイツの小貴族の娘なのですが、ロシア帝国の女帝しかも啓蒙専制君主として、ロシアをヨーロッパの田舎から一流国の仲間入りさせたすごい人なんです。

その辺のところを昔から興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇり。子供の頃から女帝、女王様に憧れ、エカテリーナ二世がなぜドイツの小貴族出身で他国の女帝になれたのか知りたくて伝記を読んだりネットで調べまくった。今回そんなエカテリーナ二世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エカテリーナ2世は現在のポーランドの生まれ

1729年、現在はポーランド当時は北ドイツのポンメルンのシュテッティンで誕生。父は神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグスト(軍人)、母はヨハンナ・エリーザベト、弟が2人(1人は夭折)。エカテリーナはルター派の洗礼を受けて、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと命名。エカテリーナは後にロシア正教に改宗したときの洗礼名です。

1-2、子供時代のエカテリーナは勉強家

エカテリーナは自伝を残しているのですが、子供時代は家庭教師に恵まれて、何にでも興味を持つ賢い子だったよう。特に自分がそれほどの美貌でないことを自覚していて、それを知識や教養や礼儀作法で補おうとする姿勢を持っていたということです。また、占い師に3つ王冠が見えると言われたことも微妙に忘れがたい記述かも。とにかく単なる玉の輿狙い以上に、将来の目標を持って勉強に励んでいた能力と野心を持っていたというのは確かですね。

1-3、エカテリーナの母の縁でロシア皇太子の花嫁候補に

エカテリーナの母ヨハンナ・エリーザベトは、デンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の曾孫で、デンマーク王家オルデンブルク家の分家の北ドイツ小国の領主ホルシュタイン=ゴットルプ家の出身。なので田舎貴族で親子ほど年の離れた軍人(エカテリーナの父のこと)との結婚に不満だったということ。そしてヨハンナの次兄アドルフ・フレドリクがスウェーデン国王に選ばれた後、ヨハンナは娘のゾフィーはかなり良い結婚が出来ると野心満々で夢見ていたそう。

また、夭折したヨハンナの長兄カール・アウグストがロシアのエリザヴェータ女帝の婚約者だったことで、独身のエリザヴェータ女帝が若くして亡くなった婚約者をその後も忘れられずずっと結婚せず独身で、ヨハンナらと親戚付き合いをしていた縁もあり、エリザヴェータ女帝から、甥のロシア皇太子のお妃候補にゾフィーをと招待状が来て、母ヨハンナは飛びついたということです。
エカテリーナ、14歳のときでした

1-4、ロシア皇太子ピョートルとは親戚、又いとこの間柄

母ヨハンナは、娘の顔を売り社交界のマナーを学ぶため、自分の楽しみのために、夫や娘たちを連れてドイツ中の親戚を訪ねて旅行しまくっていました。なので、子供の頃からエカテリーナも貴族の集まる社交界を経験し、礼儀作法も教養もバッチリ。

この親戚の中には、母ヨハンナの従兄とロシアのピョートル大帝の娘アンナ(エリザヴェータ女帝の姉)との間に生まれたカール・ペーター・ウルリヒ、後のピョートル大公が。彼はエカテリーナより1歳年上で、将来はスウェーデン国王かロシア皇帝の後継者になるといわれていました。1741年12月、エリザヴェータがクーデターでロシア女帝の位に付くと、この甥のカール・ペーター・ウルリヒを後継者に指名、カールは14歳でロシアに連れて来られてロシア正教に改宗し皇太子ピョートル大公に。しかし皇太子はそれまでの教育もあってロシアになじめず、プロイセン王を尊敬していたということ。

1-5、エカテリーナ、プロイセン王フリードリッヒ2世に感心される

エカテリーナは母と共にロシア宮廷へ招かれての旅の途中、ベルリンのプロイセン王フリードリッヒ2世の元に寄って挨拶。これは政略結婚でもあり、フリードリッヒ2世も自分の妹をロシアに嫁がせることを考えていたけれど、エカテリーナに会って話をしてみたところ、思いがけず賢く魅力的なことに驚いたそうで、旅行に必要な衣服なども揃えてくれました。

1-6、エカテリーナ、ロシアで気に入られようとがんばる

エカテリーナは、それまで家庭教師について勉強していましたが、1744年にサンクト・ペテルブルクに到着した後、舞踏をランゲに、ロシア正教についてをプスコフ主教(48年からは大主教)シモン・トドールスキイに教わり、初めてロシア語を体系化したワーシリィ・アダドゥーロフにロシア語を習うなど、必死にエリザヴェータ女帝にも宮廷の人々やロシア人に気に入られようと努力。特にロシア語の勉強に熱中しすぎて高熱で倒れ生死をさまよった逸話は、エリザヴェータ女帝もロシア国民も感動させたそう。

そして故郷の父はルター派の信仰を捨てるなと手紙までくれたのに、あっさりとロシア正教に改宗、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名。

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2-1、エカテリーナ、ピョートル大公と結婚、皇太子妃に

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エカテリーナはエリザヴェータ女帝に気に入られ、改宗の翌日にピョートル大公と婚約、翌年1745年に結婚、皇太子妃となりました

しかしエカテリーナにとってピョートルは、はっきりいって愛情を感じるような存在ではなかったよう。ピョートルにとってもエカテリーナはドイツ育ちでドイツ語で会話できるというだけで、エカテリーナの回想によれば、兵隊遊びに熱中するような知的障害のあった人だったということ。政略結婚とはいえ、なんとも悲しい結婚ではありますが、エカテリーナはそれを納得済みでいたこともすごいですね。

2-2、気まぐれな義理の叔母エリザヴェータ女帝に気に入られようと努力

エカテリーナは14歳で皇太子妃になりましたが、自分の立ち位置を理解していたので、夫のピョートル大公よりも、義理の叔母であるエリザヴェータ女帝に気に入られることを使命にがんばりました。
エカテリーナは最初から全身でロシアになじむ努力を怠らず、ロシア語を会得、ロシア正教にも熱心に信仰、そして宮廷内の動静などもじっくり観察し、宮廷にはびこる陰謀には関わらずに、あくまで慎重にエリザヴェータ女帝の信頼を得ることに勤め、その上にモンテスキューの「法の精神」など色々な本を読み漁って教養を高め、国内を旅行すればロシア国民の暮らしを観察していたということ

そういうエカテリーナの姿勢は、野心家の母ヨハンナが宮廷の陰謀に巻き込まれたときに効果を発揮して、母は宮廷を追放されても娘は別と、エリザヴェータ女帝のエカテリーナへの信頼はゆるがなかったそう。

2-3、女帝公認の相手と不倫関係になり、息子を産む

エカテリーナの夫ピョートル大公は結婚後何年たっても、ベッドに人形を置いて兵隊ごっこをするのが趣味の人で、後継ぎを望むのは無理っぽい状態でした。そういう事情はエリザヴェータ女帝も知っていて、女帝の黙認で貴族の男性(セルゲイ・サルトゥイコフ)と関係を結び、数度の流産の末エカテリーナが25歳のときに生まれたのが、息子のパーヴェル大公
当時から誰もパーヴェル大公がピョートル大公の息子だと信じる者はいなかったということですが、エリザヴェータ女帝は生まれたばかりのエカテリーナの息子を継承者と認め、エカテリーナから取り上げて養育。息子パーヴェルとはそのせいか生涯を通じて気持ちの通わない親子になったよう。

エリザヴェータ女帝は気まぐれで享楽的な人で、エカテリーナは女帝のわがままや気分次第の態度に必死に対応していたのですが、後年回想して「自分以外の人がこんな目に合えば、きっと気がおかしくなっているだろう」と述懐するほどだったということです。

3-1、エリザヴェータ女帝が亡くなり、夫はピョートル3世皇帝に

エリザヴェータ女帝が亡くなったときはエカテリーナは32歳、しかし夫ピョートルにはエカテリーナの侍女だった愛人エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァがいて、エカテリーナと離婚してこの愛人と結婚すると脅迫されていました。

また、ピョートルはドイツ生まれのせいで、プロイセン王フリードリヒ2世を尊敬し、皇太子時代からエリザヴェータやロシア貴族と対立していました。しかも当時は七年戦争で、ロシア軍がプロイセン領内に侵攻し、あと一歩というところまでフリードリヒ2世を追い詰めていた戦況だったのに、即位後にいきなりプロイセンと講和条約を結んで兵を引かせたので、ロシアの内外から大ブーイング。
そしてピョートルはルター派の信者としてロシア正教会にも弾圧を加えたので、貴族にも民衆にもピョートル3世を廃してエカテリーナを帝位にという声が高まっていました。

3-2、エカテリーナ、クーデターを起こして女帝に即位

Catherine II of Russia by Vigilius Eriksen - Конный портрет Екатерины Великой. - 1762.jpg
By ウィギリウス・エリクセン - http://www.ceremonija.lv/pages/maska.ru.php, パブリック・ドメイン, Link

このときのエカテリーナの愛人は軍人貴族のグレゴリー・オルロフで、彼は5人兄弟が全員近衛兵という家系。エカテリーナには信頼できる側近たちがいて、彼らが貴族の支持を取り付け、また愛人のオルロフ5兄弟がロシア軍にエカテリーナに味方するよう運動、エカテリーナも凛々しく軍服を着て馬にまたがり指揮し、結果として、エカテリーナはピョートル3世から政権を無血で奪取し、ピョートルの側近たちも処罰せずに許して、エカテリーナ2世として即位したのです。

エカテリーナは9歳の息子パーヴェル大公がいたからこそ、大人になるまでの間の暫定的な女帝、という意味で支持した貴族もいたはずですが、エカテリーナ自身はそのつもりはなく自分が親政する気満々。
また、一般庶民全員がエカテリーナを支持したというわけでもなく、1773年にヴォルガ川流域で勃発したプガチョフの乱は大規模なものでしたが、1775年に鎮圧され、幽閉中だったイヴァン6世(ピョートル1世の兄の曽孫で、エリザヴェータ女帝のクーデターで廃位された)を担ぎ出す陰謀があったが看守に殺害され、エカテリーナはその後34年にわたって親政したのでした。

ピョートル3世の暗殺

在位6ヶ月のピョートル3世は廃位・幽閉されましたが、間もなく監視役のオルロフ兄弟のアレクセイ・オルロフに暗殺されたという話が。公式には、「前帝ピョートル3世は持病の痔が悪化して急逝、エカテリーナ2世はこれを深く悼む」と発表され、エカテリーナ2世は関与を否定するも真相は不明のままということ。

\次のページで「4-1、政治、文化にも多大な貢献をしロシアを一流大国に」を解説!/

4-1、政治、文化にも多大な貢献をしロシアを一流大国に

Catherine II by V.Eriksen (1766-7, Statens Museum for Kunst, Denmark).jpg
By ウィギリウス・エリクセン - http://www.perspectivia.net/content/publikationen/friedrich300-colloquien/friedrich-hof/, パブリック・ドメイン, Link

エカテリーナは、今まで得た知識や教養を生かしてロシアの改革に着手。
トルコのオスマン帝国との戦争にも勝利、ポーランド分割などで領土もどんどん拡大したのです。エカテリーナの治世は成功に次ぐ成功をおさめました。

4-2、ナカース(訓令)を提案するが、時期尚早で実現せず

エカテリーナは、自身が読みふけったモンテスキューの「法の精神」、ベッカリーアの「犯罪と刑罰」など、西欧の啓蒙思想を盛り込んだ上に、農奴制の緩和も入った「訓令(ナカース)」を1766年開催の新法典編纂委員会で提案しましたが、当時のロシア社会はまだ未成熟な状態であり成果を上げられず、新法典編纂委員会もオスマン帝国との戦争が始まったために無期限休会し再開されず、訓令(ナカース)も実現はしませんでした。

4-3、文才を生かして文豪や文化人と文通

エカテリーナはフランスの文化人である哲学者のヴォルテール、百科全書派のディドロらと文通し、彼らに資金援助したのです。するとヴォルテールらは、フランスでエカテリーナ女帝が教養ある文化人であること、ロシアが田舎ではなく文化的な国であることなどを宣伝してくれるように。
その結果、フランスの社交界や教養人たちの間に、エカテリーナ女帝についてやロシアへの親しみが広まって、ロシアへフランスなどの文化人が職を求めてやって来ることになりました。
エカテリーナは、そうやって先進国の文化をロシアにもたらし、啓蒙君主として自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興などなど、ロシアにトップダウンの近代化政策を推進したのですね。

4-4、学校や孤児院を創設し、宮殿なども建設

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エカテリーナは側近のダーシュコワ夫人をアカデミー長官に据えてロシアの文化・教育の整備も熱心に行いました。ロシア語辞典の編纂事業から、後年のロシア文学発展の基盤を作り上げ、そしてボリショイ劇場、エルミタージュ宮殿(現在のエルミタージュ美術館)、タブリダ宮殿、パヴロフスク宮殿、アレクサンデル宮殿なども建設し、貴族の子女のためにスモーリヌィ女学院を設立して、貴婦人の教育にも尽力、もちろん美術品なども多数収集しました。
エカテリーナ自身も、42歳から書き始めた回想録、ヴォルテールから愛人ポチョムキンまでとの往復書簡、童話、戯曲などの文芸作品を残しています。

4-5、エカテリーナの対外政策

エカテリーナはオスマン帝国との露土戦争(1768年-1774年、1787年-1791年)、3回にわたるポーランド分割などを通じて、ロシア帝国の領土を拡大。1780年、アメリカ独立戦争には、ロシアは中立国としてアメリカへの輸出を推進、他のヨーロッパ諸国に働きかけて武装中立同盟を結束。そして第一次ロシア・スウェーデン戦争では、ロシア艦隊はフィンランド湾でスウェーデン海軍に敗北しましたが、イギリスとプロイセンの仲介により講和したおかげで、ロシアには何の悪影響もなし。

4-6、外交に積極的で紛争の仲裁も

エカチェリーナは積極的な外交政策を推進、対外的に啓蒙専制君主、先進的に見られることを好んだようで、紛争があると仲裁を勝って出ようとし、それによってロシアが大国として国際的な影響力を高めたのでした。

しかし、1789年に起こったフランス革命にはさすがに脅威を感じたのでロシア国内の自由主義を弾圧することも。そしてフランス革命にも個人的には関心を示し、ルイ16世の弟アルトワ伯爵(後のシャルル10世)ら亡命貴族を受け入れましたが、フランス革命戦争への介入は行われず。

\次のページで「4-7、日本人大黒屋光太夫を謁見」を解説!/

4-7、日本人大黒屋光太夫を謁見

1783年、伊勢白子(現鈴鹿市)の船頭だった大黒屋光太夫は江戸への航海途中に漂流してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着、ロシア人に助けられて、シベリアの首府イルクーツクに。そしてキリル・ラックスマンの援助でサンクト・ペテルブルクに行き、1791年、63歳のエカテリーナに拝謁し、歓待されたそう。

エカテリーナはこれを機会に日本との交易を考えたようですが、光太夫らはラックスマン次男らと遣日使節として日本に派遣され帰国できたものの鎖国状態のために交易はならずでした。エカテリーナは光太夫に会い、「なんとかわいそうに」などと同情したという話は有名ですよね

5、エカテリーナの愛人たち

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By After ヨハン・バプティスト・ランピ1世 - http://www.barmin-ekb.ru/?page=katalog&id=100174, パブリック・ドメイン, Link

エカテリーナは、皇太子妃のときから女帝として即位後も愛人を何人も作りました。生涯において10人もの公認の愛人を持ち、夜ごとに違う男と寝室をともにしたとする伝説まであるくらいで、孫のニコライ1世に「玉座の上の娼婦」とまで酷評される始末(ただし、ニコライはエカテリーナが亡くなる1年前に誕生)。しかし10歳年下のグレゴリー・ポチョムキン以外には政治に口を出せるような人物はおらず、また、エカテリーナは愛人の情にほだされて政治に介入させるような人ではなかったということ。1774年エカテリーナ45歳の頃に結ばれたポチョムキンは、秘密裏に結婚したという話もあり、唯一のパートナー的存在だったといわれています。
またエカテリーナはパーヴェル大公の他、庶子を何人も儲けましたが、エカテリーナを超えるような優秀な子は出来なかったのですね。

6、エカテリーナの後継者

エカテリーナは息子パーヴェルにドイツから妃を迎え、孫息子が生まれるとすぐに取り上げて自分で育てました。
エカテリーナは義理の叔母エリザヴェータにされたことと同じことをしたのですが、孫息子のアレクサンドルはお気に入りで、パーヴェルを廃嫡してアレクサンドルに跡を継がせるつもりであったようです
また、パーヴェルの娘アレクサンドラをスウェーデン国王と結婚させるべくスウェーデン国王グスタフ・アドルフを招待、ふたりは恋愛感情を持ちましたが、婚約式の直前になってアレクサンドラのルター派への改宗が出来ないことが分かり、スウェーデン国王が激怒、婚約が見送られたことでエカテリーナは体調を崩したのでした。また息子パーヴェル大公に見切りをつけて、孫のアレクサンドルを後継ぎにしようと書類を作成したといわれていますが、それを実行する前に脳梗塞で倒れて亡くなりました。享年68歳。

パーヴェル大公は、父ピョートル3世と同じようにプロイセン大好きで猜疑心が強く、エカテリーナの期待外れの息子で、エカテリーナの死後にバーヴェル1世として即位したものの、エカテリーナの治世を否定するようなことばかりしたせいか、4年後に暗殺されました。息子のアレクサンドルが関わっていたかは謎ですが、アレクサンドル1世として即位しました。

ひたすら楽観的で前向きな姿勢で偉業を成し遂げた女性

14歳で見知らぬ国ロシアにやって来たエカテリーナは、子供の頃から勉強好きで教養を身に着け、野心さえ持っていました。そしてロシア語も学びエリザヴェータ女帝に気に入られようと努力し、陰謀渦巻く宮廷で信頼できる側近を作り、貴族たちの支持を取り付けました。無能な夫皇帝を廃して即位後は、ロシアをヨーロッパの国々からも大国へと認めさせる地位へ押し上げ、歴史に名を遺す偉業を成し遂げたなんて、並大抵の人間に出来ることではないでしょう。エカテリーナは回想で「何か苦難に打ち負かされそうになれば、生きる喜びを思って立ち直ること。すべてに耐えて克服するために、とにかく朗らかでなければ」と自分を鼓舞していたそう。先日見たエカテリーナ関連の番組でエルミタージュ美術館の職員の女性が「エカテリーナの文章や遺物を見ると元気になる、まわりにそういう雰囲気をもたらす人だったのだ」とコメントしていたのはとても印象的でした。

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ヨーロッパの歴史ロシア世界史歴史

ドイツ小貴族の娘「エカテリーナ二世」が大帝まで上り詰めた理由を歴女がわかりやすく解説

今回は、ロシアの女帝エカテリーナ二世を取り上げるぞ。エカテリーナは、もとはドイツの小貴族の娘なのですが、ロシア帝国の女帝しかも啓蒙専制君主として、ロシアをヨーロッパの田舎から一流国の仲間入りさせたすごい人なんです。

その辺のところを昔から興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇり。子供の頃から女帝、女王様に憧れ、エカテリーナ二世がなぜドイツの小貴族出身で他国の女帝になれたのか知りたくて伝記を読んだりネットで調べまくった。今回そんなエカテリーナ二世について5分でわかるようにまとめた。

1-1、エカテリーナ2世は現在のポーランドの生まれ

1729年、現在はポーランド当時は北ドイツのポンメルンのシュテッティンで誕生。父は神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグスト(軍人)、母はヨハンナ・エリーザベト、弟が2人(1人は夭折)。エカテリーナはルター派の洗礼を受けて、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと命名。エカテリーナは後にロシア正教に改宗したときの洗礼名です。

1-2、子供時代のエカテリーナは勉強家

エカテリーナは自伝を残しているのですが、子供時代は家庭教師に恵まれて、何にでも興味を持つ賢い子だったよう。特に自分がそれほどの美貌でないことを自覚していて、それを知識や教養や礼儀作法で補おうとする姿勢を持っていたということです。また、占い師に3つ王冠が見えると言われたことも微妙に忘れがたい記述かも。とにかく単なる玉の輿狙い以上に、将来の目標を持って勉強に励んでいた能力と野心を持っていたというのは確かですね。

1-3、エカテリーナの母の縁でロシア皇太子の花嫁候補に

エカテリーナの母ヨハンナ・エリーザベトは、デンマーク・ノルウェー王フレデリク3世の曾孫で、デンマーク王家オルデンブルク家の分家の北ドイツ小国の領主ホルシュタイン=ゴットルプ家の出身。なので田舎貴族で親子ほど年の離れた軍人(エカテリーナの父のこと)との結婚に不満だったということ。そしてヨハンナの次兄アドルフ・フレドリクがスウェーデン国王に選ばれた後、ヨハンナは娘のゾフィーはかなり良い結婚が出来ると野心満々で夢見ていたそう。

また、夭折したヨハンナの長兄カール・アウグストがロシアのエリザヴェータ女帝の婚約者だったことで、独身のエリザヴェータ女帝が若くして亡くなった婚約者をその後も忘れられずずっと結婚せず独身で、ヨハンナらと親戚付き合いをしていた縁もあり、エリザヴェータ女帝から、甥のロシア皇太子のお妃候補にゾフィーをと招待状が来て、母ヨハンナは飛びついたということです。
エカテリーナ、14歳のときでした

1-4、ロシア皇太子ピョートルとは親戚、又いとこの間柄

母ヨハンナは、娘の顔を売り社交界のマナーを学ぶため、自分の楽しみのために、夫や娘たちを連れてドイツ中の親戚を訪ねて旅行しまくっていました。なので、子供の頃からエカテリーナも貴族の集まる社交界を経験し、礼儀作法も教養もバッチリ。

この親戚の中には、母ヨハンナの従兄とロシアのピョートル大帝の娘アンナ(エリザヴェータ女帝の姉)との間に生まれたカール・ペーター・ウルリヒ、後のピョートル大公が。彼はエカテリーナより1歳年上で、将来はスウェーデン国王かロシア皇帝の後継者になるといわれていました。1741年12月、エリザヴェータがクーデターでロシア女帝の位に付くと、この甥のカール・ペーター・ウルリヒを後継者に指名、カールは14歳でロシアに連れて来られてロシア正教に改宗し皇太子ピョートル大公に。しかし皇太子はそれまでの教育もあってロシアになじめず、プロイセン王を尊敬していたということ。

1-5、エカテリーナ、プロイセン王フリードリッヒ2世に感心される

エカテリーナは母と共にロシア宮廷へ招かれての旅の途中、ベルリンのプロイセン王フリードリッヒ2世の元に寄って挨拶。これは政略結婚でもあり、フリードリッヒ2世も自分の妹をロシアに嫁がせることを考えていたけれど、エカテリーナに会って話をしてみたところ、思いがけず賢く魅力的なことに驚いたそうで、旅行に必要な衣服なども揃えてくれました。

1-6、エカテリーナ、ロシアで気に入られようとがんばる

エカテリーナは、それまで家庭教師について勉強していましたが、1744年にサンクト・ペテルブルクに到着した後、舞踏をランゲに、ロシア正教についてをプスコフ主教(48年からは大主教)シモン・トドールスキイに教わり、初めてロシア語を体系化したワーシリィ・アダドゥーロフにロシア語を習うなど、必死にエリザヴェータ女帝にも宮廷の人々やロシア人に気に入られようと努力。特にロシア語の勉強に熱中しすぎて高熱で倒れ生死をさまよった逸話は、エリザヴェータ女帝もロシア国民も感動させたそう。

そして故郷の父はルター派の信仰を捨てるなと手紙までくれたのに、あっさりとロシア正教に改宗、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名。

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