中東と聞くと、途端に「ややこしそう」と思う人もいるかもしれない。まぁ、中東を身近に感じることはそれほど多くないかもしれませんね。「中東戦争」を引き起こした問題は、実は今でも完全には解決されていない。誰が何を争っていたのか知っているか?

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。専門として学ぶ近現代の国際政治に関する知識を活かし、今回は「中東戦争」について解説する。

何が中東戦争を引き起こしたのか

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中東戦争とはどんな戦争か

中東戦争とは、中東のアラビア半島からエジプトにかけた地域で生じた武力衝突のことです。1948年から1970年代にかけて、アラブ諸国とイスラエルの間で4度にわたって大規模な攻撃が繰り返されました。これらが、第一次から第四次の「中東戦争」と呼ばれています。

中東戦争を引き起こした主要な原因は、中東のパレスチナ地域の帰属に関する対立でした。ユダヤ人とイスラム系のアラブ人は長期間、互いにパレスチナの領有を主張しあっていたのです。第二次世界大戦後に、パレスチナにおける両者の共存を模索して国連が示した分割案が、中東戦争のきっかけになりました。

シオニズム運動の高まり

16世紀からイスラム教国家オスマン帝国の勢力圏だったパレスチナには、多くのイスラム教徒が居住していました。ところがユダヤ人の「シオニズム運動」の高まりとともに、パレスチナに大勢のユダヤ人がやってくるようになります。

シオニズムとは、パレスチナの地にユダヤ国家を建国しようという運動です。2000年以上前にパレスチナを支配していたユダヤ人は、ローマ帝国に征服されてパレスチナから世界各地に離散しました。しかし、19世紀頃からヨーロッパでユダヤ人排斥運動が高まったことを受け、パレスチナに再び安住できる国を築くことを目標とするようになります。そのため、ユダヤ人社会では聖地エルサレムのあるパレスチナへの帰還運動が高まったのです。

急増するユダヤ人と、数百年間パレスチナに暮らしていたアラブ人との間には、軋轢が生じるようになりました。これが、4度にわたる中東戦争を引き起こすきっかけとなります。

第一次中東戦争

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きっかけはイスラエルの建国宣言

第一次中東戦争のきっかけとなったのは、パレスチナにユダヤ人国家であるイスラエルが建国されたことでした。

第二次世界大戦後にパレスチナの問題を委ねられた国連は、パレスチナ分割決議案を採決します。この分割決議案は、当時パレスチナの人口の約3分の1程度を占めていたにすぎないユダヤ人に対してパレスチナの地域の56%程度を与えるという、ユダヤ人に有利なものでした。当然アラブ諸国は反対しましたが、採択の結果、この分割決議案は賛成多数で可決されました。

1948年、パレスチナ分割決議を根拠としてイスラエルが独立を宣言。これが、第一次中東戦争の引き金となったのです。

勝利したのはイスラエル

イスラエルが独立を宣言した1948年5月14日、アラブ連盟五か国(イラク、エジプト、シリア、トランスヨルダン、レバノン)はイスラエルとの戦争を宣言。翌15日、イスラエルに侵攻しました。

国連の決議による短期間の休戦を二度はさみつつ、戦闘は半年以上にわたって継続。当初圧倒的多数の兵力を擁していたアラブ諸国でしたが、イスラエルの徹底的な反撃を受けて次第に劣勢に。アラブ連盟各国がイスラエルと停戦協定を結んだ1949年7月までに、イスラエルはパレスチナの約80%を占領していました。

第一次中東戦争の結果、イスラエルは領土を拡大し、多数のパレスチナ人が故郷を追われてしまいます。アラブ諸国の狙いとは裏腹に、イスラエルの地位はむしろ確かなものとなったのです。しかし、イスラエルにとっても必ずしも満足できる結果ではありません。ユダヤの聖地「嘆きの壁」がある東エルサレムが、アラブ諸国側のヨルダンの占領下となったからです。

なお、パレスチナの帰属がきっかけとなって勃発した第一次中東戦争は、「パレスチナ戦争」とも呼ばれています。

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第二次中東戦争

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きっかけはエジプトのスエズ運河国有化

第一次中東戦争の後、工業化を目指した電力確保の政策の一環として、エジプトはナイル川の上流にアスワン=ハイダムの建設を計画しました。このダム建設には当初、アメリカも資金提供をする予定でした。しかしアメリカは、エジプトがソ連陣営よりの態度であることを嫌って、資金提供を取りやめてしまいます。世の中は東西冷戦のただなかだったのです。

エジプトのナセル大統領は、ダム建設に必要な資金をスエズ運河から得ようと考えました。そこで、それまで実質的にイギリスに支配されていたスエズ運河を国有化すると宣言。1956年のことでした。

しかし、イギリスがこれに反発。ヨーロッパとアジアを結ぶ航路であるスエズ運河は、地理的に重要な役割を果たしており、利権を失いたくなかったのです。イギリスは、エジプトのナセル政権を良く思っていなかったフランスと協調して、さらなる領土の拡大を狙っていたイスラエルにエジプトと敵対するよう働きかけました。

こうした流れで引き起こされた第二次中東戦争は、「スエズ戦争」と呼ばれることもあります。

想定の外れたイギリスとフランス

1956年10月、まずはアラブ諸国と犬猿の仲であったイスラエルがエジプトを攻撃。約1週間でシナイ半島を制圧してしまいます。その後、イギリス軍とフランス軍もエジプトのスエズ地区に侵攻しました。

イギリスとフランスの想定では、アメリカは自分たちの味方に付くはずでした。しかしイスラエルがエジプトに侵攻した翌日、アメリカは国連の安全保障理事会でイスラエルに撤兵を求める決議案を提出します。イギリスとフランスが拒否権を行使したものの、その後アメリカの働きかけで緊急特別総会が行われ、結局イスラエルの即時撤退と停戦を求める決議が採択されました。イギリス・フランス・イスラエルはこれを受け入れ、第二次中東戦争は停戦に至ります。

イギリスとフランスにとって、アメリカが自分たちと対立して事実上ソ連と協力した形となったことは、大きな誤算でした。これにより、両国の中東情勢への影響力の低下が目に見えるものとなってしまいました。

また、エジプトは実質的に戦闘には敗れたものの、スエズ運河の国有化を実現。ナセル大統領は「アラブ人の誇り」と言われるようになったのです。

第三次中東戦争

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\次のページで「短期戦だった第三次中東戦争」を解説!/

短期戦だった第三次中東戦争

第二次中東戦争以降、中東の情勢は一時的に落ち着いていました。しかしイスラエルの支配下にあるパレスチナ人の自治を目指す「パレスチナ解放機構(PLO)」が結成された1964年頃から、再び緊張の高まりが見られるようになります。

1967年6月5日、エジプトがイスラエルに対して敵対的な動きを繰り広げているということを口実に、イスラエルはエジプトに侵攻。短時間で空軍基地を破壊しました。続いて、イスラエルはエジプト領のシナイ半島とガザ地区、ヨルダン領の東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区、そしてシリア領のゴラン高原を攻撃、占領しました。

イスラエル側の一方的な進撃の後、6月10日までにイスラエルとアラブ諸国は停戦に合意。戦争状態が6日間だったことから、第三次中東戦争は「六日戦争」と呼ばれることもあります。

短期間でもたらされた被害と停戦後も続いた争い

第三次中東戦争の結果イスラエルが占領した地域では、ユダヤ人の入植が進みました。この影響で、多くのパレスチナ人が難民となります。

1967年11月には、国連でイスラエルの占領を無効とする決議が可決されました。しかし撤退の期限は定められておらず、イスラエルは現在も国際社会の公認を受けないまま、このときに占領した地域の一部を支配し続けています。

国土を奪われたアラブ諸国側には、イスラエルに対する強い不満が残りました。このため、第三次中東戦争の停戦後もイスラエルとエジプトの間では武力衝突が断続的に発生。1970年まで続いたこの対立は、「消耗戦争」とも呼ばれます。

第四次中東戦争

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アラブ側の奇襲が成功した第四次中東戦争

1973年10月6日、エジプトとシリアの先制攻撃により第四次中東戦争が開戦しました。急逝したナセルを引き継いで1970年にエジプトの大統領に就任したサダトが、第三次中東戦争によりイスラエルに占領された地域の奪還を目指し、密かに軍備増強を進めていたのです。

イスラエル軍は不意を突かれたうえ、度重なる勝利の結果アラブ諸国の軍事力を甘く見るようになっていたため、当初はアラブ諸国側が優勢な状況が続きます。約半月後、国連の要請に従って両社は停戦に合意。この時にはイスラエルが勢いを取り戻していましたが、アラブ諸国が見せた軍事力は、交渉力を取り戻すきっかけにもなりました。

エジプトとシリアが攻撃を開始した日がユダヤ教のヨム=キプール(贖罪の日)という祭日だったため、第四次中東戦争は「ヨム=キプール戦争」とも呼ばれます。

功を奏した石油戦略

第四次中東戦争で、先進各国はアラブ諸国の経済的重要性に気付かされることになりました。日本や欧米諸国に、第一次石油危機(オイルショック)がもたらされたのです。

1968年、アラブ諸国の産油国はアラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成。その後1972年までに、OAPECはアラブ諸国ほぼ全体の参加する重要な機関になりました。そのOAPECが第四次中東戦争に際して、親イスラエル諸国への石油の輸出を停止する戦略をとります。また、石油輸出国機構(OPEC)もOAPECと協調し、原油価格の大幅な値上げを行いました。

アラブ諸国がとったこの石油戦略により、世界の石油価格が大幅上昇。石油を輸入に頼る多くの先進国の経済に大きな混乱をもたらしました。アラブ諸国は、石油の力を利用して戦争を有利に進めようとしたのです。

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中東戦争の終結

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エジプトとイスラエルの和平

第四次中東戦争の停戦以降、アラブ諸国の中心的存在だったエジプトはイスラエルとの和平を模索するようになりました。背景にあるのは、アメリカの経済援助などを期待したサダト大統領がソ連寄りだった外交戦略を変更しようとしていた、という事実です。第四次中東戦争で善戦したエジプトに、アメリカも融和的な姿勢を見せるようになります。

1978年、アメリカのカーター大統領の仲介で、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が会談を行いました。ここで、シナイ半島のエジプトへの返還などを定めたキャンプ・デーヴィット合意が結ばれます。この合意に基づいて、翌年3月、両国はエジプト・イスラエル平和条約を締結しました。

この条約により、エジプトはイスラエルの存在を認めた最初のアラブ諸国となります。また、アメリカなどの西側諸国との関係を強化することにも成功。一方で、単独行動をとったエジプトに対する他のアラブ諸国からの批判は大きく、エジプトはアラブ連盟から追放される結果となってしまいました

終わらない中東問題

第四次中東戦争の終結後も、パレスチナ解放機構(PLO)などの非政府組織を敵対勢力として、中東にはイスラエルとアラブの対立が残されたままです。また、度重なる戦争により故郷を追われたパレスチナ難民は、今でも難民キャンプでの暮らしを強いられています。多くのアラブ諸国は、まだイスラエルとの国交正常化に至っていません。

中東の完全な和平へは、長い道のりが残されているのです。

中東戦争ではアラブ諸国とイスラエルの間で衝突が繰り返された

中東戦争では、4度にわたってアラブ諸国とイスラエルが大規模な軍事衝突を引き起こしました。けれど、アラブ諸国も決して一枚岩だったわけではありません。第一次から第四次まですべての戦争に参加したエジプトは、一番最初にイスラエルと国交を締結。その後ヨルダンもイスラエルとの国交を結びましたが、エジプトとヨルダンを除くアラブ諸国は今もイスラエルとの正式な国交がなく、関係は良くないままです。

また、イスラエルが自国領と主張している地域の中には国際社会から認められていない区間も含まれています。イスラエル支配の影響により厳しい生活を強いられるパレスチナ人も多く、領土問題は今でも中東諸国の大きな政治問題となっているのです。

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4度にわたった「中東戦争」とはどんな争い?国際政治を学ぶライターがわかりやすく解説

中東と聞くと、途端に「ややこしそう」と思う人もいるかもしれない。まぁ、中東を身近に感じることはそれほど多くないかもしれませんね。「中東戦争」を引き起こした問題は、実は今でも完全には解決されていない。誰が何を争っていたのか知っているか?

世界史に詳しいライター万嶋せらと一緒に解説していきます。

ライター/万嶋せら

会社員を経て、現在はイギリスで大学院に在籍中のライター。歴史が好きで関連書籍をよく読み、中でも近代以降の歴史と古典文学系が得意。専門として学ぶ近現代の国際政治に関する知識を活かし、今回は「中東戦争」について解説する。

何が中東戦争を引き起こしたのか

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中東戦争とはどんな戦争か

中東戦争とは、中東のアラビア半島からエジプトにかけた地域で生じた武力衝突のことです。1948年から1970年代にかけて、アラブ諸国とイスラエルの間で4度にわたって大規模な攻撃が繰り返されました。これらが、第一次から第四次の「中東戦争」と呼ばれています。

中東戦争を引き起こした主要な原因は、中東のパレスチナ地域の帰属に関する対立でした。ユダヤ人とイスラム系のアラブ人は長期間、互いにパレスチナの領有を主張しあっていたのです。第二次世界大戦後に、パレスチナにおける両者の共存を模索して国連が示した分割案が、中東戦争のきっかけになりました。

シオニズム運動の高まり

16世紀からイスラム教国家オスマン帝国の勢力圏だったパレスチナには、多くのイスラム教徒が居住していました。ところがユダヤ人の「シオニズム運動」の高まりとともに、パレスチナに大勢のユダヤ人がやってくるようになります。

シオニズムとは、パレスチナの地にユダヤ国家を建国しようという運動です。2000年以上前にパレスチナを支配していたユダヤ人は、ローマ帝国に征服されてパレスチナから世界各地に離散しました。しかし、19世紀頃からヨーロッパでユダヤ人排斥運動が高まったことを受け、パレスチナに再び安住できる国を築くことを目標とするようになります。そのため、ユダヤ人社会では聖地エルサレムのあるパレスチナへの帰還運動が高まったのです。

急増するユダヤ人と、数百年間パレスチナに暮らしていたアラブ人との間には、軋轢が生じるようになりました。これが、4度にわたる中東戦争を引き起こすきっかけとなります。

第一次中東戦争

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きっかけはイスラエルの建国宣言

第一次中東戦争のきっかけとなったのは、パレスチナにユダヤ人国家であるイスラエルが建国されたことでした。

第二次世界大戦後にパレスチナの問題を委ねられた国連は、パレスチナ分割決議案を採決します。この分割決議案は、当時パレスチナの人口の約3分の1程度を占めていたにすぎないユダヤ人に対してパレスチナの地域の56%程度を与えるという、ユダヤ人に有利なものでした。当然アラブ諸国は反対しましたが、採択の結果、この分割決議案は賛成多数で可決されました。

1948年、パレスチナ分割決議を根拠としてイスラエルが独立を宣言。これが、第一次中東戦争の引き金となったのです。

勝利したのはイスラエル

イスラエルが独立を宣言した1948年5月14日、アラブ連盟五か国(イラク、エジプト、シリア、トランスヨルダン、レバノン)はイスラエルとの戦争を宣言。翌15日、イスラエルに侵攻しました。

国連の決議による短期間の休戦を二度はさみつつ、戦闘は半年以上にわたって継続。当初圧倒的多数の兵力を擁していたアラブ諸国でしたが、イスラエルの徹底的な反撃を受けて次第に劣勢に。アラブ連盟各国がイスラエルと停戦協定を結んだ1949年7月までに、イスラエルはパレスチナの約80%を占領していました。

第一次中東戦争の結果、イスラエルは領土を拡大し、多数のパレスチナ人が故郷を追われてしまいます。アラブ諸国の狙いとは裏腹に、イスラエルの地位はむしろ確かなものとなったのです。しかし、イスラエルにとっても必ずしも満足できる結果ではありません。ユダヤの聖地「嘆きの壁」がある東エルサレムが、アラブ諸国側のヨルダンの占領下となったからです。

なお、パレスチナの帰属がきっかけとなって勃発した第一次中東戦争は、「パレスチナ戦争」とも呼ばれています。

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