今回は、15世紀に君臨したテューダー朝のヘンリー8世についてみていきます。彼は教皇から破門された後、国王至上法を成立させて自らをイギリス国教会の首長となった人物です。

それじゃあここからはヨーロッパの歴史に詳しいまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこが、信仰する宗教をカトリックからイギリス国教会へ転換をしたヘンリー8世を中心にテューダー朝について紹介していく。

1 ヘンリー8世ってどんな人物?

image by iStockphoto

今回はイングランドに君臨したヘンリー8世について。彼は6回も結婚を繰り返したことで有名な王ですね。もともとはカトリック教徒だったため、離婚するには教皇からの許可がいる時代。1回目の離婚は、妃が兄王と結婚していたから無効にしてもらったヘンリー8世。しかし、2回目の許可が貰えなかったヘンリー8世はどうしたのでしょうか。それではヘンリー8世について詳しく解説していきますね。

1-1 次男だったヘンリー

まずはヘンリー8世の生い立ちですが、彼はテューダー朝を開いたヘンリー7世の次男として誕生しました。兄は後にスペインの王女、キャサリン・オブ・アラゴンと結婚するアーサー。そして姉と妹の4人兄弟でした。ヘンリー8世は英才教育を受けたので、ラテン語もフランス語も堪能。多少ならイタリア語も話せたそうです。ヘンリー8世は成人するとかなりの大柄な体格に。どれほど大きかったかというと、亡くなった時に棺に収まりきらなかったと言われています。

1-2 兄王の妻と結婚した男

ヘンリー8世の初婚の相手は、なんと兄王の妻キャサリンでした。もともとはアーサーと結婚したキャサリン。しかしアーサーが急死したのです。本来ならばスペインへ帰国するはずだったキャサリン。しかしヘンリー7世はキャサリンが持ってきた持参金惜しさにヘンリー8世と結婚させることにしたのです。ですがカトリック信者だったため、本来は一度結婚したら離婚は無理でした。そこで教皇からアーサーとキャサリンの結婚は無効というお墨付きをもらい、ヘンリー8世はキャサリンと婚約することに。

1-3 離婚したかったヘンリー

無事に結婚できたヘンリー8世とキャサリン。2人の間には娘のメアリ(後のメアリ1世)が誕生します。しかし、なかなか後継者となる男児が生まれませんでした。次第にヘンリー8世はキャサリンとの離婚を考えるようになります。しかし当時カトリックは離婚を認められていませんでした。ヘンリー8世はキャサリンとの離婚問題によって教皇から破門されてしまいます。しかしヘンリー8世はキャサリンとの離別を選びました。こうしてキャサリンと離婚したヘンリー8世は、1533年にアン・ブーリンと結婚。そして彼女はエリザベス(後のエリザベス1世)を産みました。しかし男児を望んだヘンリーは、アンをでっち上げた罪により処刑しました。

\次のページで「2 ヘンリー8世の治世」を解説!/

2 ヘンリー8世の治世

1491 Henry VIII.jpg
By ヨース・ファン・クレーフェ - Royal Collection, パブリック・ドメイン, Link

ヘンリー8世は、キャサリンとの離婚が原因でカトリックを離れ、イギリス国教会を成立させます。そしてヘンリー8世はなんと生涯6回も結婚を繰り返しました。ヘンリーは自分が気に入らない人物を次々と追放や処刑していくように。それがたとえかつての王妃であっても、気に入っていた臣下であっても。かなりの暴君ですね。それではヘンリー8世の治世について詳しく解説していきます。

2-1 ヘンリー8世の宗教改革

ヘンリー8世は宗教改革を行い、カトリックから信仰をイギリス国教会へ変えました。しかしこれは、教皇がヘンリー8世とキャサリンとの離婚を認めなかったため。そのためヘンリー8世は教皇から破門されてしまいます。しかしヘンリー8世は1534年に国王至上法(首長法)を制定しました。これによってイングランドはカトリックから国教会を信仰するように。しかし教義面での改革は、ヘンリー8世の息子エドワード6世の時に、また最終的にイギリス独自の教会体制が確立したのはエリザベス1世の時でした。

ヘンリー8世は宗教改革を進めたのにはある思惑があったと言われています。それは財政の立て直しでした。イングランドは度重なるフランスとの戦争で財政難に陥っていました。そこでヘンリー8世は、教会から財産を没収して財政難を解消させることに。

 

2-2 イギリス国教会とは?

教皇から王妃との離婚を認められなかったことから始まった宗教改革。そもそもイギリス国教会はカトリックと何が違うのでしょうか。

イギリス国教会の特徴は、カトリックとプロテスタントの組み合わさったものだということです。カトリックではトップが教皇なのに対し、国教会ではトップが国王。また国教会は、カルヴァン主義を採用。カトリックにおいて、営利を目的とした仕事は卑しい者と見做されますが、国教会ではそのように見做されていません。またカトリックでは牧師は妻帯が認められていませんが、国教会では認められています。

2-3 再婚と離婚を繰り返したヘンリー

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ヘンリー8世はキャサリンと離婚し、アン・ブーリンと結婚した後も再婚を繰り返しました。

男児の誕生を望んだヘンリーは、女児しか産まないアン・ブーリンを処刑します。そしてアン・ブーリンの女官だったジェーン・シーモアと再婚。アンの処刑から10日後のことでした。彼女はヘンリー8世が熱望した男児を産みますが、出産後すぐに死去。次の王妃となったのがドイツの公女、アン・オブ・クレーヴス。ヘンリーは宮廷画家ホルバインに肖像画を描かせ、その絵を元に彼女を王妃にします。しかし絵画とあまりにも違ったことから、半年で離婚されることに。5回目の結婚は、キャサリン・ハワード。彼女は2番目の王妃、アン・ブーリンの従妹でした。しかしヘンリーに浮気を疑われ、20歳の若さでロンドン塔で処刑されることに。最後の王妃はキャサリン・パー。彼女は庶子となったメアリ1世やエリザベス1世の地位を戻すようにヘンリーに伝えたと言います。そして先妻の子どもたちを愛情いっぱいに育てました。

2-4 イギリス産業の発展

ヘンリー8世の治世の時に、イングランドは毛織物産業が盛んになりました。それ以前では、イングランドでは羊を飼い、羊毛を輸出していました。しかし15世紀から16世紀になると毛織物を輸出するように。これによって開放耕地を牧羊地にし、羊が逃げないように囲いをしました。これを囲い込みと呼んでいます。囲い込みを行うようになったことで、これまで開放耕地で働いていた農民が仕事を失い、浮浪者となりました。これによってイングランドは社会不安が起こりました。この現象について、トマス・モア「羊が人間を食う」と非難します。

2-5 ヘンリー8世の怒りに触れたトマス・モア

ヘンリー8世は自分の気に入らない妃や家臣たちを処刑していきました。その中にトマス・モアもいます。当初彼はヘンリー8世から気に入られ、大法官に就任することに。彼はヘンリー8世とキャサリンの離婚の際にヘンリーから意見を求められ、離婚は正当できない旨を告げます。これがヘンリー8世の怒りに触れることに。トマス・モアは、1535年に処刑されました。

またヘンリー8世につかえた人物に宮廷画家のホルバインがいます。彼は多くのヘンリー8世の肖像画も手がけました。そして他国にいるヘンリー8世の花嫁候補の絵画も描く仕事を担いますが、彼の描いた絵と実際の花嫁が似てなかったため不評を買うことに。その後、ヘンリー8世から追い出されることになりました。このようにヘンリー8世は自分が気に入らない人物は追放や処刑など行う残酷な人物だったのが分かりますね。

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3 ヘンリー8世の死後

ヘンリー8世は、56歳で生涯を閉じました。その後テューダー朝の3代目として、冠を被ったのは、ヘンリー待望の王子エドワード6世でした。しかし彼の治世はとても短く、次々にヘンリーの子どもたちが冠を回していくように。この章ではより詳しく解説していきたいと思います。

3-1 エドワード6世

ヘンリー8世が6回もの結婚を繰り返してやっと手に入れた男児。エドワード6世の母は、ヘンリー8世が3回目の結婚相手ジェーン・シーモアでした。エドワード6世はわずか9歳で即位することに。エドワード6世の時に、イギリス国教会の教義面での改革が行われます。しかし彼の治世は長くは続かず、即位して6年後に死去。エドワード6世の治世時に権力を握った廷臣ダドリーは、自分の息子と結婚したジェーン・グレイを女王にしようと陰謀を図りました。

3-2 9日間の女王、悲劇のジェーン・グレイ

ジェーン・グレイは、本来は王位継承順がとても低

3-3 ジェーン・グレイの処刑

PAUL DELAROCHE - Ejecución de Lady Jane Grey (National Gallery de Londres, 1834).jpg
By ポール・ドラローシュ, パブリック・ドメイン, Link

この絵は、ジェーンが処刑されてから300年後にフランス人画家ドラローシュが描いたもの。左側にいる女性2人はジェーンの侍女。座っている侍女の膝に先ほどまでジェーンが着ていた衣服が乗っていますね。ジェーンの白い衣装は花嫁のようで彼女の潔白を示しているのではないでしょうか。画面右側の赤いズボンの男性は処刑の執行人。彼の腰に付けているロープは処刑人の手を縛るため。ナイフは斧で上手く首を刎ねられなかった場合に切断するため。髪で斧の刃が滑らないように髪を1つに束ねているジェーン。当時の処刑方法は身分によって違います。身分の高い者は斬首で、低い者は絞首。実際のジェーンの処刑は、室内ではなく、ロンドン塔の広場でした。当時の民衆にとって処刑は娯楽でした。ジェーンの処刑を見に多くの民衆が集まったそうです。ドラローシュの描く絵は、ジェーンの処刑に立ち会ったような恐ろしいリアリティを鑑賞者に伝えてきますね。

\次のページで「3-4 ブラッディメアリ」を解説!/

3-4 ブラッディメアリ

こうしてメアリ1世の治世が始まります。彼女は熱心なカトリック教徒。そのためプロテスタントとなったイギリスを再びカトリックの国にしようとします。そして数々の処刑を行う内に、人々からブラッディメアリと呼ばれるように。今日では、ブラッディメアリというカクテルがありますが、これは彼女が語源。ゾッとしますよね。またメアリ1世は、スペインのフェリペ2世と結婚します。ところがメアリ1世はフェリペ2世と結婚したことで、国を売った女と批判されることに。しかし子どもに恵まれずに没しました。

3-5 イギリスの繁栄をもたらした処女王

Elizabeth I (Armada Portrait).jpg
By かつてはジョージ・ゴアの作とされていた。 - http://www.luminarium.org/renlit/elizarmada.jpg, パブリック・ドメイン, Link

次にテューダー朝の冠を被ることになったのが、エリザベス1世。彼女はヘンリー8世の2番目の妻、アン・ブーリンを母に持ちます。エリザベス1世は一度王女の身分をはく奪され、庶子の扱いを受けました。そしてロンドン塔へ幽閉されることに。ロンドン塔は政治犯などの犯罪者を閉じ込める場所で、ロンドン塔に連行されたら生きて帰ることは困難と言われていました。しかし幸運なことにエリザベス1世は帰還することができました。

エリザベス1世が即位後に取り組んだのが国内の宗教問題。これは1559年に統一法を制定しました。そして当時の大国、スペインとアマルダの海戦で勝利。ここからイギリスは大国として繁栄していきます。ちなみにこの戦いにおいて無敵隊を誇ったスペインは緩やかに衰退していくことに。そしてエリザベス1世は生涯結婚しなかったため、彼女が亡くなるとテューダー朝は断絶しました。テューダー朝が断絶後に王位についたのはエリザベス1世によって処刑されたメアリ・ステュアートの息子、ジェームズ1世でした。

わずか6代で幕を閉じたイングランドの王朝

今回は、テューダー朝を治めたヘンリー8世の生涯と彼の死後のテューダー朝の結末について見ていきました。世継ぎを望んで次々と結婚と離婚を繰り返してきたヘンリー8世。しかしテューダー朝はエリザベス1世で幕を閉じることに。王朝のためとは言え、次々結婚や離婚を繰り返したヘンリー8世に対して王妃たちは一体何を思っていたんでしょうか。

またイングランドの国内で問題となった宗教。メアリ1世やエリザベス1世など、同じ父を持つ子どもたちでも信仰している宗教が違うのは興味深いですよね。宗教の対立はとても難しい問題。メアリ1世のようにかなり激しい弾圧をして国内統一を目指すよりも、エリザベス1世のようにプロテスタントでありながら、カトリック教徒にも配慮した政策を行い国内の安定を図ったやり方がこの当時のイングランドではうまくいったみたいです。

ヘンリー8世のように強烈なキャラクターの王やわずか9日間しか王座に就けなかった悲劇の女王、そしてイングランドに平和と繁栄をもたらした女王など、テューダー朝の君主たちにはドラマティックな人物たちが多くいます。そんな彼らに思いを馳せずにはいられませんね。

" /> 暴君「ヘンリー8世」から見るテューダー朝の繁栄を歴女が5分でわかりやすく解説! – Study-Z
イギリスヨーロッパの歴史世界史歴史

暴君「ヘンリー8世」から見るテューダー朝の繁栄を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は、15世紀に君臨したテューダー朝のヘンリー8世についてみていきます。彼は教皇から破門された後、国王至上法を成立させて自らをイギリス国教会の首長となった人物です。

それじゃあここからはヨーロッパの歴史に詳しいまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこが、信仰する宗教をカトリックからイギリス国教会へ転換をしたヘンリー8世を中心にテューダー朝について紹介していく。

1 ヘンリー8世ってどんな人物?

image by iStockphoto

今回はイングランドに君臨したヘンリー8世について。彼は6回も結婚を繰り返したことで有名な王ですね。もともとはカトリック教徒だったため、離婚するには教皇からの許可がいる時代。1回目の離婚は、妃が兄王と結婚していたから無効にしてもらったヘンリー8世。しかし、2回目の許可が貰えなかったヘンリー8世はどうしたのでしょうか。それではヘンリー8世について詳しく解説していきますね。

1-1 次男だったヘンリー

まずはヘンリー8世の生い立ちですが、彼はテューダー朝を開いたヘンリー7世の次男として誕生しました。兄は後にスペインの王女、キャサリン・オブ・アラゴンと結婚するアーサー。そして姉と妹の4人兄弟でした。ヘンリー8世は英才教育を受けたので、ラテン語もフランス語も堪能。多少ならイタリア語も話せたそうです。ヘンリー8世は成人するとかなりの大柄な体格に。どれほど大きかったかというと、亡くなった時に棺に収まりきらなかったと言われています。

1-2 兄王の妻と結婚した男

ヘンリー8世の初婚の相手は、なんと兄王の妻キャサリンでした。もともとはアーサーと結婚したキャサリン。しかしアーサーが急死したのです。本来ならばスペインへ帰国するはずだったキャサリン。しかしヘンリー7世はキャサリンが持ってきた持参金惜しさにヘンリー8世と結婚させることにしたのです。ですがカトリック信者だったため、本来は一度結婚したら離婚は無理でした。そこで教皇からアーサーとキャサリンの結婚は無効というお墨付きをもらい、ヘンリー8世はキャサリンと婚約することに。

1-3 離婚したかったヘンリー

無事に結婚できたヘンリー8世とキャサリン。2人の間には娘のメアリ(後のメアリ1世)が誕生します。しかし、なかなか後継者となる男児が生まれませんでした。次第にヘンリー8世はキャサリンとの離婚を考えるようになります。しかし当時カトリックは離婚を認められていませんでした。ヘンリー8世はキャサリンとの離婚問題によって教皇から破門されてしまいます。しかしヘンリー8世はキャサリンとの離別を選びました。こうしてキャサリンと離婚したヘンリー8世は、1533年にアン・ブーリンと結婚。そして彼女はエリザベス(後のエリザベス1世)を産みました。しかし男児を望んだヘンリーは、アンをでっち上げた罪により処刑しました。

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