紫式部は「源氏物語」の作者として有名な女性です。平安時代に関連する歴史的遺産は京都を中心に数多く残っている。実は紫式部のルーツに関わるスポットも少なくなのです。そんな場所をめぐると紫式部がより身近に感じることができる。

それじゃ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「源氏物語」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。現在の日本には、作者の紫式部のルーツに関わる歴史的遺産がたくさん残っている。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて「紫式部」の記事をまとめた。

紫式部が生まれた雲林院

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紫式部がいつ生まれたのかは正確には不明。970年から978年のあいだに生まれとされています。紫式部が生まれた場所とされるのが雲林院という臨済宗のお寺でした。

雲林院は平安時代の史跡でもある

雲林院はもともと淳和天皇の離宮として建てられました。桜の名所としても知られ、天皇はたびたび訪れていたようです。淳和天皇が亡くなったあとも後続する天皇に引き継がれていきました。

皇子常康親王が亡くなったあとは官寺として継続。官寺とは、運営のために国の予算があてられたお寺のこと。鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄えました。

雲林院に伝わるのが紫式部の産湯

かつて雲林院の境内にあったのが大徳寺塔頭の真珠庵。そこに「紫式部産湯」と呼ばれる井戸があります。紫式部はこのあたりで生まれ育ったという言い伝えから、そのように呼ばれてきました。

紫式部という名前の由来も雲林院にあるとされています。雲林院があるのは紫野という場所。ここから紫式部という呼称が生まれたと推測されています。

紫式部の生家と位置づけられる廬山寺

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紫式部の父親は越後守である藤原為時。母は早くに亡くなりました。紫式部が、父、兄弟(兄か弟か不明)、姉と一緒に暮らしたとされるのが廬山寺です。

紫式部の邸宅があった場所と推定

紫式部の邸宅は、もともと曽祖父である藤原兼輔が建てたもの。それを彼女の父親である藤原為時が引き継ぎました。当時の平安京の東側に位置する場所でした。

その邸宅で紫式部は幼少期を過ごし、結婚後してすぐに夫と死別したため、ここで1人娘の賢子を育てたとされています。また「源氏物語」が書き始められたのもこの邸宅でした。

紫式部はどのような生活をしていた?

母が早くに亡くなったため、紫式部の家族は父親の為時が中心の生活。為時は学者であったことから、兄弟(兄か弟)に漢学を熱心に教え、それを紫式部は熱心に聞いていました。

紫式部の代表作である「源氏物語」には、当時の女性が触れることが少ない漢学の知識が散見。それは、廬山寺あたりにあった邸宅で学んだ知識であると思われます。

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父と共に訪れ歌を詠んだ琵琶湖の浜辺

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紫式部の父親である為時は国司。いわゆる地方官僚のような立ち位置です。そのため地方に赴任することが多々ありました。父親と一緒に越前に行くときに立ち寄った琵琶湖付近で紫式部は有名な歌を生み出しました。

越前に向かう紫式部が立ち寄ったことで知られる

越前とは現在の石川県と福井県のあたり。都から適度に近いことから重要な管轄地のひとつでした。越前に向かうとき、紫式部一行は船にて琵琶湖を渡ります。その途中で立ち寄ったのが高島でした。

平安時代の琵琶湖は湖上輸送ルートとして発達。木材、燃料、食料などを都に運ぶ中継地点として栄えました。紫式部たちは越前に向かうとき、すでに発達していた湖上ルートを利用したことが分かります。

漁夫の様子に対する興味が名歌を生んだ

琵琶湖の西側にある高島で紫式部が目撃したのが網を引く漁師たちの姿。その姿をみて詠んだ歌が次のものです。

三尾の海に網引く民のてまもなく立居につけて都恋しも(紫式部)

網を引く漁師たちがあわただしく働いているのを見た紫式部。琵琶湖で漁をする光景は見慣れぬ珍しさがあるものの、京から離れることはそれなりの寂しさを感じさせたのでしょう。

父の赴任により紫式部が暮らしたのが福井県の武生

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紫式部は996年から約2年のあいだ越前で暮らします(期間は諸説あり)。越前国府があったのは福井県の越前市にある武生地区とされていますが、同じ市内に国府という地名があるなど、はっきりしない部分もあります。

越前国府の所在地を解き明かすヒントが「源氏物語」に

越前国府があったのは武生が濃厚とする理由が「源氏物語」の一節。別れを悲しむ浮舟にたいして母親が「たとえ武生の国府に行ってもこっそり会いに行く」という言葉をかける場面があるからです。

紫式部は武生=国府と結びつけ、さらに京から遠く離れた地というイメージを投影しました。そこから清少納言自身も、国府があった武生地区の近くに住んでいたと推察されています。

紫式部公園として平安時代を再現

現在の武生地区には紫式部をしのぶ公園があります。公園のシンボルとなるのが十二単をまとった黄金の紫式部像。その周囲には平安朝式の庭園が広がっており、季節ごとに美しい花が咲くことでも知られています。

この庭園は緻密な時代考証をかさねて再現したもの。当時の貴族が住んでいた寝殿造りのほか、池、橋、築山などが配置されました。日野山がひろがる風景は紫式部が見ていたものと共通する可能性が高いと思われます。

「源氏物語」の原点という説も!石山寺

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By Daderot - 投稿者自身による作品, CC0, Link

石山寺は紫式部が「源氏物語」を書き始めるきっかけになったお寺として知られています。そのほか「枕草子」「蜻蛉日記」「更級日記」など女流文学のなかでも触れられました。

石山寺とは観音霊場として知られるお寺

石山寺があるのは滋賀県の大津市。琵琶湖の近くにお寺をかまえています。京都の清水寺や奈良の長谷寺とならぶ由緒がある観音霊場。聖徳太子が私的に礼拝していた如意輪観音を祀ったのがお寺の起源とされています。

平安時代の石山寺を興隆させたのが菅原道真の孫である第3世座主の淳祐。体が不自由であった淳祐はきちんと座ることができませんでした。そこで学問に身をささげ、たくさんの書物をのこすことになります。

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石山詣では数多くの文学作品を生んだ

平安時代の中期、宮中に努める女房たちのあいだで石山詣でが大ブームに。紫式部の他、清少納言、藤原道綱母、菅原孝標女など、平安時代の文学をけん引した女性たちが石山寺を訪れています。

そのため平安時代の中期に書かれた女流文学の多くに石山寺が登場。「和泉式部日記」によると、敦道親王との関係が上手くいかずに心が沈んだ和泉式部が石山寺を詣でたこともあったそうです。

「源氏物語」が執筆されたのが京都御所

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紫式部が「源氏物語」を主に執筆したのが宮中。藤原道長の娘である中宮彰子のもとで書き続けました。そこから京都御所が、紫式部が宮仕えをしながら物語を書いた場所であると言えます。

京都御所とはどのような場所?

京都御所とは京都市内にある皇室の関連施設。かつては代々の天皇が住み、儀式や公務などをしていたところです。現在、天皇家は東京都千代田区にある皇居に居住。そのため京都御所は宮内庁の管轄となっています。

また京都御所では、春と秋に「雅楽」や「蹴鞠」など宮中に伝わる文化を再現する催し物を開催。そのほか、歴代の天皇が住まわれていた御所内を見学することができます。

京都御所から見える平安時代

現在の京都御所は、内裏が焼失したときに天皇が仮住まいするために建てられた東洞院土御門殿に由来するもの。紫式部が実際に出入りしていた宮中は、京都御所から西に約2キロのところにありました。

しかしながら、京都御所内にある建物の位置関係や役割は平安時代とも共通。天皇だけが通ることができる「建礼門」のほか、牛車で入る御殿や使者が待機する御殿など、当時の身分制度をリアルに感じ取ることができます。

紫式部が参拝したらしい?上賀茂神社

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By 663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, Link

紫式部が何度も通ったことで知られるのが上賀茂神社。正式な名前を賀茂別雷神社といいます。京都市内にある神社のなかでも長い歴史がある神社。平安京に遷都したあとは宮中の鎮護社としての役割を担いました。

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上賀茂神社は縁結びの神社?

上賀茂神社に祀られているのは賀茂別雷大神。いわゆる雷の神様で、厄除けや方位除けの力があると考えられてきました。また、雷の神様ということで、落雷除けや電気関係の神様として信仰を集めている一面もあります。

現在、上賀茂神社のひとつである片岡社は縁結びの神社として有名。その根拠となるのが紫式部です。彼女が足しげく通い、人を待ちわびる歌を詠んだことから、恋愛成就のパワースポットとなりました。

紫式部は何を想って歌を詠んだ?

紫式部が詠んだ歌は、次のようなものです。

ほととぎす声まつほどは片岡のもりのしづくに立ちやぬれまし(紫式部)

「ほととぎすの声が聞こえるというけれど、まだ時間がかかりそうだから、朝露に濡れて恋人を待つ古歌と同じように、片岡の杜で露に濡れていようか」という内容。ここから紫式部は誰かを想いながら片岡社を訪れていたと解釈されました。

紫式部が眠るお墓は京都市内にある

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紫式部が亡くなった時期は諸説あります。1014年から1031年までのあいだに亡くなったとされますが、詳細は確定できません。京都市内の敷地の一角に紫式部のお墓が存在。現在も多くの観光客が訪れています。

紫式部の墓は言い伝えに基づくもの

この場所に紫式部のお墓があったという言い伝えは複数あります。とくに古いものが14世紀中頃に書かれた源氏物語の注釈書である「河海抄」。また江戸時代に書かれた書物にも、この場所であることを意味する記述が含まれています。

くわえて近くには紫式部が晩年に暮らしていたとされる雲林院が。平安時代の公家である小野篁のお墓の隣という情報も。これらを加味して紫式部のお墓の位置が確定されました。

お墓があるのは企業敷地の一角

紫式部の墓は島津製作所の紫野工場の敷地のなかにあります。とはいえ、工場からは区切られているので普通にお参りすることが可能。墓所のなかには紫式部の功績をしるした顕彰碑も設置されています。

くわえて紫式部の生涯を紹介する小さな小屋も隣接。なかには訪れた人が書き込むことができる寄せ書きノートが。全国にいる紫式部ファンとつながることができます。

紫式部をリアルに実感するならフィールドワーク

歴史を学ぶとき教科書や本などの文字を通じて情報をあつめることは大切です。しかし、当時の人々がどのような生活をしていたのか具体的にイメージするにはフィールドワークがいちばん。平安時代と現代ではほとんどの風景は変わっています。とはいえ移動する感覚や山や湖などの自然の風景は共通するもの。フィールドワークを通じて紫式部の人物像がもっとリアルになるはずです。

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平安時代日本史歴史

「紫式部」のルーツをたどる旅!元大学教員がわかりやすく解説する現代に残る歴史的スポット8選

紫式部は「源氏物語」の作者として有名な女性です。平安時代に関連する歴史的遺産は京都を中心に数多く残っている。実は紫式部のルーツに関わるスポットも少なくなのです。そんな場所をめぐると紫式部がより身近に感じることができる。

それじゃ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「源氏物語」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。現在の日本には、作者の紫式部のルーツに関わる歴史的遺産がたくさん残っている。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて「紫式部」の記事をまとめた。

紫式部が生まれた雲林院

紫式部がいつ生まれたのかは正確には不明。970年から978年のあいだに生まれとされています。紫式部が生まれた場所とされるのが雲林院という臨済宗のお寺でした。

雲林院は平安時代の史跡でもある

雲林院はもともと淳和天皇の離宮として建てられました。桜の名所としても知られ、天皇はたびたび訪れていたようです。淳和天皇が亡くなったあとも後続する天皇に引き継がれていきました。

皇子常康親王が亡くなったあとは官寺として継続。官寺とは、運営のために国の予算があてられたお寺のこと。鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄えました。

雲林院に伝わるのが紫式部の産湯

かつて雲林院の境内にあったのが大徳寺塔頭の真珠庵。そこに「紫式部産湯」と呼ばれる井戸があります。紫式部はこのあたりで生まれ育ったという言い伝えから、そのように呼ばれてきました。

紫式部という名前の由来も雲林院にあるとされています。雲林院があるのは紫野という場所。ここから紫式部という呼称が生まれたと推測されています。

紫式部の生家と位置づけられる廬山寺

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By PlusMinus – Photo by PlusMinus, CC 表示-継承 3.0, Link

紫式部の父親は越後守である藤原為時。母は早くに亡くなりました。紫式部が、父、兄弟(兄か弟か不明)、姉と一緒に暮らしたとされるのが廬山寺です。

紫式部の邸宅があった場所と推定

紫式部の邸宅は、もともと曽祖父である藤原兼輔が建てたもの。それを彼女の父親である藤原為時が引き継ぎました。当時の平安京の東側に位置する場所でした。

その邸宅で紫式部は幼少期を過ごし、結婚後してすぐに夫と死別したため、ここで1人娘の賢子を育てたとされています。また「源氏物語」が書き始められたのもこの邸宅でした。

紫式部はどのような生活をしていた?

母が早くに亡くなったため、紫式部の家族は父親の為時が中心の生活。為時は学者であったことから、兄弟(兄か弟)に漢学を熱心に教え、それを紫式部は熱心に聞いていました。

紫式部の代表作である「源氏物語」には、当時の女性が触れることが少ない漢学の知識が散見。それは、廬山寺あたりにあった邸宅で学んだ知識であると思われます。

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