平安時代日本史歴史

「紫式部」のルーツをたどる旅!元大学教員がわかりやすく解説する現代に残る歴史的スポット8選

よぉ、桜木建二だ。紫式部は「源氏物語」の作者として有名な女性だ。平安時代に関連する歴史的遺産は京都を中心に数多く残っている。実は紫式部のルーツに関わるスポットも少なくないんだ。そんな場所をめぐると紫式部がより身近に感じることができる。

それじゃ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「源氏物語」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。現在の日本には、作者の紫式部のルーツに関わる歴史的遺産がたくさん残っている。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて「紫式部」の記事をまとめた。

紫式部が生まれた雲林院

紫式部がいつ生まれたのかは正確には不明。970年から978年のあいだに生まれとされています。紫式部が生まれた場所とされるのが雲林院という臨済宗のお寺でした。

雲林院は平安時代の史跡でもある

雲林院はもともと淳和天皇の離宮として建てられました。桜の名所としても知られ、天皇はたびたび訪れていたようです。淳和天皇が亡くなったあとも後続する天皇に引き継がれていきました。

皇子常康親王が亡くなったあとは官寺として継続。官寺とは、運営のために国の予算があてられたお寺のこと。鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄えました。

雲林院に伝わるのが紫式部の産湯

かつて雲林院の境内にあったのが大徳寺塔頭の真珠庵。そこに「紫式部産湯」と呼ばれる井戸があります。紫式部はこのあたりで生まれ育ったという言い伝えから、そのように呼ばれてきました。

紫式部という名前の由来も雲林院にあるとされています。雲林院があるのは紫野という場所。ここから紫式部という呼称が生まれたと推測されています。

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雲林院は室町時代に勃発した応仁の乱により焼失。その後、しばらくのあいだお寺は廃寺となっていた。今、我々が見ることができる雲林院は、江戸時代に同じ寺名で再建されたものだそうだ。

紫式部の生家と位置づけられる廬山寺

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By PlusMinus – Photo by PlusMinus, CC 表示-継承 3.0, Link

紫式部の父親は越後守である藤原為時。母は早くに亡くなりました。紫式部が、父、兄弟(兄か弟か不明)、姉と一緒に暮らしたとされるのが廬山寺です。

紫式部の邸宅があった場所と推定

紫式部の邸宅は、もともと曽祖父である藤原兼輔が建てたもの。それを彼女の父親である藤原為時が引き継ぎました。当時の平安京の東側に位置する場所でした。

その邸宅で紫式部は幼少期を過ごし、結婚後してすぐに夫と死別したため、ここで1人娘の賢子を育てたとされています。また「源氏物語」が書き始められたのもこの邸宅でした。

紫式部はどのような生活をしていた?

母が早くに亡くなったため、紫式部の家族は父親の為時が中心の生活。為時は学者であったことから、兄弟(兄か弟)に漢学を熱心に教え、それを紫式部は熱心に聞いていました。

紫式部の代表作である「源氏物語」には、当時の女性が触れることが少ない漢学の知識が散見。それは、廬山寺あたりにあった邸宅で学んだ知識であると思われます。

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現在の廬山寺には紫式部をしのんで「源氏庭」がつくられている。この庭は平安時代の雰囲気を再現したものだ。6月末から9月の初めごろまでのあいだ、紫色の桔梗が咲いている様子を見ることができる。

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