
それじゃ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 紫式部が生まれた雲林院
- 雲林院は平安時代の史跡でもある
- 雲林院に伝わるのが紫式部の産湯
- 紫式部の生家と位置づけられる廬山寺
- 紫式部の邸宅があった場所と推定
- 紫式部はどのような生活をしていた?
- 父と共に訪れ歌を詠んだ琵琶湖の浜辺
- 越前に向かう紫式部が立ち寄ったことで知られる
- 漁夫の様子に対する興味が名歌を生んだ
- 父の赴任により紫式部が暮らしたのが福井県の武生
- 越前国府の所在地を解き明かすヒントが「源氏物語」に
- 紫式部公園として平安時代を再現
- 「源氏物語」の原点という説も!石山寺
- 石山寺とは観音霊場として知られるお寺
- 石山詣では数多くの文学作品を生んだ
- 「源氏物語」が執筆されたのが京都御所
- 京都御所とはどのような場所?
- 京都御所から見える平安時代
- 紫式部が参拝したらしい?上賀茂神社
- 上賀茂神社は縁結びの神社?
- 紫式部は何を想って歌を詠んだ?
- 紫式部が眠るお墓は京都市内にある
- 紫式部の墓は言い伝えに基づくもの
- お墓があるのは企業敷地の一角
- 紫式部をリアルに実感するならフィールドワーク
この記事の目次

ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。「源氏物語」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。現在の日本には、作者の紫式部のルーツに関わる歴史的遺産がたくさん残っている。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて「紫式部」の記事をまとめた。
紫式部が生まれた雲林院
By 日:もかめーる – 日:もかめーる, CC 表示-継承 4.0, Link
紫式部がいつ生まれたのかは正確には不明。970年から978年のあいだに生まれとされています。紫式部が生まれた場所とされるのが雲林院という臨済宗のお寺でした。
雲林院は平安時代の史跡でもある
雲林院はもともと淳和天皇の離宮として建てられました。桜の名所としても知られ、天皇はたびたび訪れていたようです。淳和天皇が亡くなったあとも後続する天皇に引き継がれていきました。
皇子常康親王が亡くなったあとは官寺として継続。官寺とは、運営のために国の予算があてられたお寺のこと。鎌倉時代まで天台宗の官寺として栄えました。
雲林院に伝わるのが紫式部の産湯
かつて雲林院の境内にあったのが大徳寺塔頭の真珠庵。そこに「紫式部産湯」と呼ばれる井戸があります。紫式部はこのあたりで生まれ育ったという言い伝えから、そのように呼ばれてきました。
紫式部という名前の由来も雲林院にあるとされています。雲林院があるのは紫野という場所。ここから紫式部という呼称が生まれたと推測されています。
紫式部の生家と位置づけられる廬山寺
By PlusMinus – Photo by PlusMinus, CC 表示-継承 3.0, Link
紫式部の父親は越後守である藤原為時。母は早くに亡くなりました。紫式部が、父、兄弟(兄か弟か不明)、姉と一緒に暮らしたとされるのが廬山寺です。
紫式部の邸宅があった場所と推定
紫式部の邸宅は、もともと曽祖父である藤原兼輔が建てたもの。それを彼女の父親である藤原為時が引き継ぎました。当時の平安京の東側に位置する場所でした。
その邸宅で紫式部は幼少期を過ごし、結婚後してすぐに夫と死別したため、ここで1人娘の賢子を育てたとされています。また「源氏物語」が書き始められたのもこの邸宅でした。
紫式部はどのような生活をしていた?
母が早くに亡くなったため、紫式部の家族は父親の為時が中心の生活。為時は学者であったことから、兄弟(兄か弟)に漢学を熱心に教え、それを紫式部は熱心に聞いていました。
紫式部の代表作である「源氏物語」には、当時の女性が触れることが少ない漢学の知識が散見。それは、廬山寺あたりにあった邸宅で学んだ知識であると思われます。
\次のページで「父と共に訪れ歌を詠んだ琵琶湖の浜辺」を解説!/