今日は『豊臣秀吉』について勉強していこう。

豊臣秀吉は『織⽥信⻑』、『徳川家康』とならんで戦国時代、いや日本史を語るうえで絶対に外せない最重要人物です。
豊臣秀吉がなし遂げた最⼤の出来事『天下統一』や、それを実現させる秘訣となった『人⼼掌握術』など、彼を理解するのに重要なことを優先的にまとめておいた。

元塾講師で、日本史マニアのライター四郎を招いている。一緒に解説していきます。

ライター/四郎

偏差値70超の私立高校から、早慶や国公立大学を現役で合格。複数の学習メディアで執筆を行う受験ライター。今回は得意分野のひとつである「歴史」から記事をまとめた。

『木下藤吉郎』としての『豊臣秀吉』

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戦乱の時代を駆け抜けて、ついに天下人になった豊臣秀吉。彼がどのようにして天下を手中に収めたのか、彼の誕生から辿っていきましょう。

足軽の子に生まれた豊臣秀吉

豊臣秀吉は天文6年(1537年)に尾張国愛知郡(現在の名古屋市中村区)で、足軽の木下弥右衛門の子として生を受けます。足軽というのは最下級の兵士のことで、多くの場合は農家の男性が戦のときに傭兵として駆り出されていました。

このときの名前は秀吉ではなく『藤吉郎』で、その名前のまま天文23年(1554年)に小者(こもの)として織田家につかえ始めます。小者というのは武家につかえる奉公人の中でも身分が一番低く、ほとんど雑用を行う役職でした。しかし秀吉は清州城の工事に関する仕事や、台所奉行を積極的に引き受け、そこで成果をあげることで存在感を放っていきます。

織田信長との絆

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主君であった『織田信長』から「猿」と呼ばれていた豊臣秀吉ですが、両者のあいだには厚い信頼関係があったことはよく知られています。これは信長が美濃国(現在の岐阜県南部)を攻略する際の要所となった墨俣(すのまた)城(じょう)を秀吉が短時間で築城したことがきっかけとなり、それいらい重用されるようになったのです。

他にも、雪の降る冬の日に屋敷に上がった信長を屋外で待っていた秀吉が信長の草履を自分の服の中で温め、その気配りに信長が感心したという逸話は有名でしょう。また部下ができてからは彼らが失敗しても、責めずに逆に優しい言葉をかけることが多かったようです。

このように秀吉は「人たらし」と呼ばれるほどに他人から気に入られる術を心得ていました。このことがのちの大出世につながったともいわれています。

信長の死後、後継者を名乗る

日本史における最重要人物、織田信長。その死は時代を大きく動かします。そのとき秀吉は何をしたのか?彼の人心掌握術がこことばかりに発揮されるときが来ました。

その後継者の座を虎視眈々と狙う大名・武将が大勢いる中、彼はどう振る舞い、どう動いたのか……。

本能寺の変から清州会議へ

天正10年(1582年)、信長の重臣として毛利家が治める中国地方に派遣されていた秀吉は、同じく信長の重臣である明智光秀による謀反『本能寺の変』で信長が死去したことを知るとすぐに毛利家と和睦し、本能寺のある京都へと引きかえします(中国大返し)。そして信長のほかの家臣の支持と助力を取りつけ、数で劣る明智光秀を討ち取りました。

そのあとに信長の後継者や遺産・遺領の分配を決めるために『清州会議』が開かれました。ここにおいて、秀吉はまだ二歳に過ぎない信長の孫にあたる三法師(のちの織田秀信)を後継者とすることで、実質的な権力を握ることに成功します。

\次のページで「信長の後継者へ」を解説!/

信長の後継者へ

信長の死後、ますます台頭する秀吉をこころよく思わなかったのが同じく信長の重臣であった『柴田勝家』でした。清州会議を経て不利な立場に立たされた勝家はほかの織田家重臣と手を結んで秀吉と対抗しようとしますが、それ以上に味方をつけた秀吉に賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで滅ぼされてしまいます。

このようにして秀吉は織田家の実力者たちを葬ったり、あるいは味方に引き込んだりすることで家臣第一の地位を確かなものとしました。名目としては幼い三法師を担ぎつつ、実質的には自分が織田信長の後継者としてふるまうようになったのです。

信長も成しえなかった天下統一へ

いよいよ天下取りへと動き出した秀吉。しかしその道のりは平坦ではありません。

解決するべき問題が未だ山積みの中、それでも彼は自らの野望と理想を胸に突き進んでいきます。

大阪城を築城 徳川家康との対立と講和

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天正11年(1583年)、秀吉は大阪本願寺の跡地に大阪城を築きます。これは当時において規格外の規模を誇る城であり、秀吉の勢力を諸国大名に知らしめる役目を果たしました。このように勢いをますます強くする秀吉の悩みのたねが『徳川家康』でした。

織田信長の盟友であり、天正壬午の乱によって東の有力者になっていた家康は諸国大名と手を結んで反秀吉の勢力をつくっていきます。秀吉もそれに対抗しますが、いくつかの戦を経て両者はおたがいの家族を人質として差し出すことで和睦を結びました。これによって秀吉は東に家康という不安要素を残しながらも、その地位をさらに確かなものとしたのです。

関白を任官して全国を平定、天下統一へ

天正13年(1584年)朝廷より『関白』に任ぜられた秀吉は勢いそのままに紀伊(現在の和歌山県)、四国、越中地方と次々と支配地を拡大していきます。そして同年、島津家が勢力を伸ばしている九州地方もついに攻略し、全国を手中に収めました。またこのときにキリスト教布教と南蛮貿易を禁止・制限する『バテレン追放令』を出すことで、自らの影響力を強める政策も取っています。

天正18年(1590年)までには現在の東北地方にあたる陸奥や出羽の国も攻略し、ここにかつての主君である織田信長もなしえなかった天下統一を果たしました。室町幕府の崩壊後、100年あまり続いた戦乱の世に終止符を打ったのです。

翌年天正19年(1591年)には関白の地位を甥の秀次に譲り、自らは『太閤(前関白の尊称)』を名乗りますが、慶長3年(1598年)に死去するまで実質的に権力をふるい続けました。

豊臣秀吉が行った主な政策

秀吉は国内外に向けて様々な政策を行ったことで知られています。ここでは主だったものを紹介していきしましょう。

\次のページで「全国を測量した「太閤検地」」を解説!/

全国を測量した「太閤検地」

全国を平定した秀吉ですが、信長の家臣だった時代に検地(土地の測量や権利関係の確認)の実務に携わっていてその重要性をはやくから認識していました。そのため自らが権力を握ってからは支配下の領地の検地を積極的に行い、データの収集に努めましたが、秀吉が行ったこの検地を『太閤検地』と呼びます。

太閤検地は単に測量や権利関係の確認だけではなく、単位の統一、年貢高の把握、情報を中央に集める中央集権化など、様々な面においておおきな意義があったというのが通説です。

農民の反乱の芽をつんだ「刀狩り」

『刀狩り』とは武士以外の農民や僧侶による武器の所有を禁止、廃棄させることで秀吉以前にも日本国内においてたびたび行われていました。時の権力者や諸大名が刀狩りを行うおもな目的は、武器を取り上げることで一揆・反乱の発生を防ぐことです。

その刀狩りを大々的に行ったのが豊臣秀吉でした。名目としては「没収した刀をもちいいて大仏をつくるための材料にする」ということでしたが、その目的はやはり一揆を防ぐためにあったようです。

ただ最近の研究では刀を一度は没収するものの、そのあと再び所持することについては黙認しており、実際は農民は刀を所持してはいけないと広く知らせることで、まだ明確に別れていなかった武士と農民の区別化を図るためであったともいわれています。

私闘を禁じ、中央集権化を図った「惣無事令」

惣無事令とは大名間の私闘を禁じるために豊臣秀吉が出した法令です。

従来において近隣の大名間でおもに領土に関してトラブルがあると戦(私闘)によって解決を図っていましたが、秀吉はトラブルが起こった場合には豊臣政権が最高処理機関としてすべてそれを処理すると定めました。これによってさらなる中央集権化を図ったといわれています。

2度にわたる朝鮮出兵 文禄・慶長の役

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全国を平定した豊臣秀吉は海をはさんだ大明帝国(現在の中華人民共和国)の征服を目指し、西国の諸大名を動員して遠征軍を組織します。大明帝国征服の足がかりとして秀吉が選んだのが朝鮮半島にある『李氏朝鮮』でした。

この出兵は文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の2度にわたって行われ、どちらも大きな戦果を挙げることなく、両軍を疲弊させるだけの結果に終わりました。この2度の朝鮮出兵をあわせて『文禄・慶長の役』と呼びます。

文化に親しんだ豊臣秀吉

豊臣秀吉は趣味人としての一面も持ち合わせており、生前にいろいろな文化に親しんだといわれています。彼の治世下ではどのような文化が花開いたのでしょうか。

武士のたしなみ 茶道・連歌

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秀吉治世の時代に花開いたのが茶の文化です。

『わび・さび』を背景とする茶道の文化を秀吉は気に入り、その大家である『千利休』を重用しました。千利休につくらせた茶室に諸大名をまえいて茶を振る舞った秀吉ですが、当時茶道は武士のあいだで身につけるべき教養の一つでした。武家出身でないからこそ秀吉はそれを身につけ、披露したともいわれています。

また秀吉はのちの俳句につながる連歌をたしなんだことでも有名でしょう。

有名な歌が「鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ホトトギス」。これは信長の「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」、家康の「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」とあわせてそれぞれの人柄や政治観が見えてくるものだといわれています。秀吉は自らの意に沿うように他者を動かすことを信条としていたのかもしれません。

\次のページで「絢爛豪華な安土・桃山文化」を解説!/

絢爛豪華な安土・桃山文化

織田信長と豊臣秀吉が実権を握っていた時代の文化をあわせて『安土桃山文化』と呼びます。その特色はそれまで盛んだった仏教色が弱まり、現世的になったことにありました。これは信長の政策によって仏教勢力が弱まったことと、この時代の都市部において成長した『豪商』と呼ばれる新興商人がその富を背景に豪奢なものを好んだためだといわれています。

絵画では金色のかがやきと濃密な色彩を特徴とする『狩野派』、建築では石組みに特徴のある『書院式庭園』が盛んになりました。

人心掌握術を駆使して、天下を太平した豊臣秀吉!

農民の出身でありながら、信長すら成し得なかった天下統一を果たした豊臣秀吉。

波乱に満ちた一生を送った彼に最もそなわっていたのは『時流を読みとる能力』と『人を動かす能力』だったかもしれません。貧しい家に生まれた彼が日本史至上一番といわれる出世をなし遂げたのも、そのときそのときの時流を敏感に読みとり、だれの味方につくべきか、だれを味方にするべきかを的確に判断したからだといわれています。それがなければ、武家という後ろ盾を持たない彼が天下統一をなし遂げることはできなかったでしょう。

豊臣秀吉が天下人になれた理由。それは彼一人の力だけではなく、周囲の能力を最大限に活かしたことにあります。このことを頭に入れておけば、複雑な戦乱の時代がずいぶんわかりやすくなるはずです。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

戦乱の世を平定した「豊臣秀吉」を元塾講師がわかりやすく解説!大出世人生を5分で総まとめ

今日は『豊臣秀吉』について勉強していこう。

豊臣秀吉は『織⽥信⻑』、『徳川家康』とならんで戦国時代、いや日本史を語るうえで絶対に外せない最重要人物です。
豊臣秀吉がなし遂げた最⼤の出来事『天下統一』や、それを実現させる秘訣となった『人⼼掌握術』など、彼を理解するのに重要なことを優先的にまとめておいた。

元塾講師で、日本史マニアのライター四郎を招いている。一緒に解説していきます。

ライター/四郎

偏差値70超の私立高校から、早慶や国公立大学を現役で合格。複数の学習メディアで執筆を行う受験ライター。今回は得意分野のひとつである「歴史」から記事をまとめた。

『木下藤吉郎』としての『豊臣秀吉』

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戦乱の時代を駆け抜けて、ついに天下人になった豊臣秀吉。彼がどのようにして天下を手中に収めたのか、彼の誕生から辿っていきましょう。

足軽の子に生まれた豊臣秀吉

豊臣秀吉は天文6年(1537年)に尾張国愛知郡(現在の名古屋市中村区)で、足軽の木下弥右衛門の子として生を受けます。足軽というのは最下級の兵士のことで、多くの場合は農家の男性が戦のときに傭兵として駆り出されていました。

このときの名前は秀吉ではなく『藤吉郎』で、その名前のまま天文23年(1554年)に小者(こもの)として織田家につかえ始めます。小者というのは武家につかえる奉公人の中でも身分が一番低く、ほとんど雑用を行う役職でした。しかし秀吉は清州城の工事に関する仕事や、台所奉行を積極的に引き受け、そこで成果をあげることで存在感を放っていきます。

織田信長との絆

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主君であった『織田信長』から「猿」と呼ばれていた豊臣秀吉ですが、両者のあいだには厚い信頼関係があったことはよく知られています。これは信長が美濃国(現在の岐阜県南部)を攻略する際の要所となった墨俣(すのまた)城(じょう)を秀吉が短時間で築城したことがきっかけとなり、それいらい重用されるようになったのです。

他にも、雪の降る冬の日に屋敷に上がった信長を屋外で待っていた秀吉が信長の草履を自分の服の中で温め、その気配りに信長が感心したという逸話は有名でしょう。また部下ができてからは彼らが失敗しても、責めずに逆に優しい言葉をかけることが多かったようです。

このように秀吉は「人たらし」と呼ばれるほどに他人から気に入られる術を心得ていました。このことがのちの大出世につながったともいわれています。

信長の死後、後継者を名乗る

日本史における最重要人物、織田信長。その死は時代を大きく動かします。そのとき秀吉は何をしたのか?彼の人心掌握術がこことばかりに発揮されるときが来ました。

その後継者の座を虎視眈々と狙う大名・武将が大勢いる中、彼はどう振る舞い、どう動いたのか……。

本能寺の変から清州会議へ

天正10年(1582年)、信長の重臣として毛利家が治める中国地方に派遣されていた秀吉は、同じく信長の重臣である明智光秀による謀反『本能寺の変』で信長が死去したことを知るとすぐに毛利家と和睦し、本能寺のある京都へと引きかえします(中国大返し)。そして信長のほかの家臣の支持と助力を取りつけ、数で劣る明智光秀を討ち取りました。

そのあとに信長の後継者や遺産・遺領の分配を決めるために『清州会議』が開かれました。ここにおいて、秀吉はまだ二歳に過ぎない信長の孫にあたる三法師(のちの織田秀信)を後継者とすることで、実質的な権力を握ることに成功します。

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