新選組の絶頂期と内紛
組織として絶頂を迎えた新選組。しかしその内部には様々な思惑が交錯するようになります。
拡大する新選組 伊東甲子太郎の加入
池田屋事件と禁門の変の活躍によって新選組は朝廷・幕府・会津藩から、感状(軍事面での活躍における賞状)や200両という大金を下賜されました。そして組織をさらに成長させるために隊士の第二募集を行います。新選組結成以前からの生え抜きのメンバーである『藤堂平助』の仲介で、江戸に住んでいた『伊東甲子太郎』がこれに参加しました。
この第二募集によって新選組は200人を超す大所帯へと成長します。しかしそれだけの人数を抱えた組織が一枚岩になることは難しく、その内部には様々な思惑が入れ乱れていたのです。
伊東たちの脱退 油小路事件
新選組局長である近藤勇と伊東甲子太郎は攘夷という点では思想を共有していましたが、近藤は佐幕派(幕府側)、伊東は倒幕派という点では決定的な隔たりがありました。そして博識で剣の腕も確かな伊東は組内での影響力を急速に強めていき、慶応3年(1867年)3月に10数人の隊士を引き抜いて『御陵衛士』を結成・脱退します。
同じ年の6月、これまでの活躍を評価された新選組は『幕臣』へと取り立てられました。幕臣とはつまり武士として認められること。武士に憧れ続けた百姓である近藤の夢がついに叶った瞬間でした。
幕府とのつながりをさらに強固なものとした新選組は、倒幕を掲げる伊東甲子太郎たち御陵衛士を襲撃します。それが『油小路事件』です。これによって伊東甲子太郎だけではなく、
試衛館時代からの近藤たちの仲間、藤堂平助も戦死します。
移り行く時代 徳川家から新政府へ
近藤たちが幕府のために日々刀を振るう中、その裏では新たな国づくりが急速に進められていきます。そして時代の流れはいよいよ京の都を飲み込もうとするのです。
大政奉還から王政復古の大号令
新選組は組織として勢いを増していきますが、時勢は確実に倒幕へと向かっていきます。そして慶応3年(1867年)3月に15代将軍『徳川慶喜』が『大政奉還』を行うのです。これは政治の実権を朝廷に返すというもので、同年10月の『王政復古の大号令』を持って江戸幕府はついに消滅します。ここに300年続いた徳川幕府が終わりを迎えました。
そして翌年の慶應4年(明治元年)に薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍との間に、最大の内戦『戊辰戦争』が勃発します。
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国を二分した戊辰戦争
戊辰戦争はこれまでに類を見ないほど大規模な内戦となりました。近藤たち新選組は旧幕府軍として参戦しますが、その初戦となる『鳥羽・伏見の戦い』で敗北。幕府海軍の指揮官だった榎本武揚が率いる軍艦で江戸へと撤退しました。
戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱退したことで新選組は弱体化していきます。『甲陽鎮撫隊』と名をあらためて、甲府でさらなる戦いへと出ますがそこでも敗戦。江戸への再びの撤退を余儀なくされます。
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