今日は『新選組』について勉強していこう。
新選組といえば『幕末』に徳川家のために戦った侍の集団として有名です。
全てが混沌としていた時代の境目において、最後まで江戸幕府への忠義を貫いた彼らは今も多くの人気を集めている。しかし中心人物のほとんどが元々は武士ではなく、多摩の百姓だったことは知っているでしょうか……?
元塾講師で、日本史マニアのライター四郎を招いている。新選組の真実に迫っていこう。

ライター/四郎

偏差値70超の私立高校から、早慶や国公立大学を現役で合格。複数の学習メディアで執筆を行う受験ライター。今回は得意分野のひとつである「歴史」から記事をまとめた。

『新選組』が結成されるまで

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日本史のターニングポイントの1つ『幕末』。そこに新選組はどのようにして現れたのでしょうか。

尊王攘夷運動の高まりと江戸幕府の弱体化

1853年のペリー来航以来、徳川家ではなく天皇を中心とした新しい国づくりを掲げる『尊王攘夷派』たちによって江戸幕府を倒そうとする『倒幕運動』が盛んとなります。そしてその倒幕運動の中心勢力が薩摩藩(鹿児島)や長州藩(山口県)の『志士』たちでした。
彼らが集まったのは江戸ではなく、実際に天皇家が住まう京都。そこで倒幕運動の体制を整えていました。列強各国の脅威を受けて江戸幕府の権威が弱まる文久2年(1862年)、14代将軍徳川家茂は天皇家に攘夷を約束するために、229年ぶりに上洛(京都に行くこと)を行うことにします。

浪士組結成 京都へ

この時代、京都の治安を維持していたのは主に京都所司代と京都町奉行という2つの組織でした。しかしそれだけでは将軍の上洛には心許ないということから、身分に関わらず腕に覚えのある者に募集がかかります。それが『浪士組』。後に新選組の中心人物となる『近藤勇』や『土方歳三』などが参加しました。
近藤や土方それに『沖田総司』は多摩の百姓出身で、『試衛館』という道場の仲間たちでした。彼らのような農民という身分の者が、将軍警護のために公式に雇われるといういわば「実力主義」は当時として異例のことだったのです。これは幕府の影響力が弱まり、人材が不足していたことの表れでもあります。
そのようにして集まった総勢およそ200人の浪士組は陸路で京都を目指しました。

京都へと移った浪士組

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多摩の「田舎」から時代の中心地である京都へと移った近藤たち。新選組はその地で結成を迎えます。

浪士組の解散 そして壬生浪士組の誕生

京都に到着してから、浪士組の発起人である清河八郎が実は倒幕を掲げる『勤王派』であることが判明しました。それをきっかけに組織は分裂しますが、近藤勇たちはあくまで京都に残り、将軍警護の使命を果たそうとします。
そして『壬生浪士組』を名乗った彼らは、京都守護職に就く会津藩主の『松平容保』から正式に市中警護と不逞浪士の取り締まりを命じられました。

活躍が認められて『新選組』に

荒くれ者の集まりという一面も持っていた壬生浪士組は、いくつかのトラブルを起こしながらも、徐々に京都市内でその存在感を大きくしていきます。そして文久3年(1863年)に薩摩藩が長州藩を京都から追放するという『八月十八日の政変』が起こり、そこで近藤勇たちはたしかな活躍をしました。その働きを評価されて『新選組』の名前を拝命するのです。

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誰もが恐れる戦闘集団『新選組』

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様々な活躍によって「新選組」となった組織はその結束をさらに強い強固なものへとしていきます。

芹沢鴨の暗殺

八月十八日の政変をもって『新選組』となりましたが、組織は近藤勇たちを中心とする『試衛館派』と、芹沢鴨たちを中心とする『水戸派』とで勢力が二分されていました。芹澤は粗暴な面もあったことから近藤たちと度々衝突するようになります。

そこで近藤たちは新選組のさらなる飛躍のために暗殺を決意しました。そして文久3年9月、近藤や土方は芹澤たち水戸派を排除し、新選組の実験を握るのです。

鉄と血の結束

近藤勇、土方歳三たち試衛館派が実権を握り、ついに新選組はその体制を確固たるものとしました。局長には近藤、副長には土方が就き、様々な規則を制定していきます。新選組の規則は一言で表すなら「鉄と血の掟」。武士道に背く行為や、組を脱退する『組抜け』は御法度です。

それらのルールをまとめたものが『局注法度』。侍を理想像とするため、その規律は非常に厳しいものであり、規律を維持するために粛清がたびたび行われました。

京都でのさらなる活躍

列強の脅威が強まる中、尊王攘夷に情熱を燃やす者、そのために幕府を倒そうとする者、幕府に忠誠を尽くそうとする者が京都に集まり、市中はさらに混沌としていきます。

京都大火を防いだ池田屋事件

元治元年(1864年)に『池田屋事件』が起こります。これは京都市内にある池田屋という旅館に潜伏していた長州藩・土佐藩(高知県)の尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃・鎮圧したというものです。このとき志士たちは御所の焼き討ちを計画をしており、それを未然に防いだことから新選組の名が天下に轟くこととなりました。
池田屋への襲撃は真夜中に行われ、また20数人ほどの志士に対して最初に踏み込んだ新選組側が4人(近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助)だったということから、とくにドラマチックな出来事として取り上げられる傾向にあります。またこのときたまたま難を逃れた志士側の人物として有名なのが、桂小五郎(後の木戸孝允)です。

禁門の変 長州藩の失墜

元治元年(1864年)、その前年の八月十八日の政変によって京都から追放されていた長州藩勢力が、巻き返しを図るために松平容保を排除しようとした『禁門の変』。これは大砲が投入されたり、戦火によって京都市中3万戸が焼失したりするなど、非常に激しい戦いとなりました。新選組の活躍もあって敗退した長州藩はいよいよ立場がなくなり、ついには『朝敵』と見なされてしまうのです。
この戦いで長州藩は久坂玄瑞や真木和泉、来島又兵衛といった中心人物を失います。またこの出来事をきっかけに会津藩や薩摩藩との確執がますます深まることなりました。

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新選組の絶頂期と内紛

組織として絶頂を迎えた新選組。しかしその内部には様々な思惑が交錯するようになります。

拡大する新選組 伊東甲子太郎の加入

池田屋事件と禁門の変の活躍によって新選組は朝廷・幕府・会津藩から、感状(軍事面での活躍における賞状)や200両という大金を下賜されました。そして組織をさらに成長させるために隊士の第二募集を行います。新選組結成以前からの生え抜きのメンバーである『藤堂平助』の仲介で、江戸に住んでいた『伊東甲子太郎』がこれに参加しました。
この第二募集によって新選組は200人を超す大所帯へと成長します。しかしそれだけの人数を抱えた組織が一枚岩になることは難しく、その内部には様々な思惑が入れ乱れていたのです。

伊東たちの脱退 油小路事件

新選組局長である近藤勇と伊東甲子太郎は攘夷という点では思想を共有していましたが、近藤は佐幕派(幕府側)、伊東は倒幕派という点では決定的な隔たりがありました。そして博識で剣の腕も確かな伊東は組内での影響力を急速に強めていき、慶応3年(1867年)3月に10数人の隊士を引き抜いて『御陵衛士』を結成・脱退します。
同じ年の6月、これまでの活躍を評価された新選組は『幕臣』へと取り立てられました。幕臣とはつまり武士として認められること。武士に憧れ続けた百姓である近藤の夢がついに叶った瞬間でした。
幕府とのつながりをさらに強固なものとした新選組は、倒幕を掲げる伊東甲子太郎たち御陵衛士を襲撃します。それが『油小路事件』です。これによって伊東甲子太郎だけではなく、
試衛館時代からの近藤たちの仲間、藤堂平助も戦死します。

移り行く時代 徳川家から新政府へ

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近藤たちが幕府のために日々刀を振るう中、その裏では新たな国づくりが急速に進められていきます。そして時代の流れはいよいよ京の都を飲み込もうとするのです。

大政奉還から王政復古の大号令

新選組は組織として勢いを増していきますが、時勢は確実に倒幕へと向かっていきます。そして慶応3年(1867年)3月に15代将軍『徳川慶喜』が『大政奉還』を行うのです。これは政治の実権を朝廷に返すというもので、同年10月の『王政復古の大号令』を持って江戸幕府はついに消滅します。ここに300年続いた徳川幕府が終わりを迎えました。
そして翌年の慶應4年(明治元年)に薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍との間に、最大の内戦『戊辰戦争』が勃発します。

国を二分した戊辰戦争

戊辰戦争はこれまでに類を見ないほど大規模な内戦となりました。近藤たち新選組は旧幕府軍として参戦しますが、その初戦となる『鳥羽・伏見の戦い』で敗北。幕府海軍の指揮官だった榎本武揚が率いる軍艦で江戸へと撤退しました。
戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱退したことで新選組は弱体化していきます。『甲陽鎮撫隊』と名をあらためて、甲府でさらなる戦いへと出ますがそこでも敗戦。江戸への再びの撤退を余儀なくされます。

\次のページで「新選組の終局」を解説!/

新選組の終局

徳川家のために懸命に刀を振るってきた近藤たち。敗戦が続く中、終わりの時は確実に近づいていきます。

盟友たちとの別れ 近藤勇の死

甲府での戦いに敗れて江戸に戻った新選組(甲陽鎮撫隊)から、生え抜きともいえる古参の隊士『永倉新八』と『原田左之助』が意見の違いから脱退しました。さらに局長の近藤勇が新政府軍に捕らえられて処刑され、結核を患っていた沖田総司も病死します。
残された土方歳三は江戸から北上するように転戦しますが、会津において『斉藤一』が松平容保を守護するために離隊。土方はさらに北上して蝦夷地(北海道)で榎本武揚と合流しました。

土方歳三の死 新政府軍への降伏

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蝦夷地に渡った土方たちは二股口の戦いなどで活躍しますが、新政府軍は勢いを増していき戦局はやがて不利になっていきます。そしてかつては鬼の副長として恐れられた土方歳三が銃撃により戦死、その3日後に新選組はついに新政府軍へと降伏するのです。さらにその4日後の明治2年(1869年)5月18日に旧幕府軍も降伏し、1年以上に亘った戊辰戦争が終結します。ここに刀で切り拓かれてきた旧い時代が終止符を打ちました。

激動の時代を駆け抜け、敗れ去った新選組

幕末に活躍した侍集団、『新選組』。時代が激しく動いていく中、最後まで徳川家への忠誠を貫いた彼らはある種のヒーロー像として民衆から支持を得るようになります。その足取りや組織の変遷を見つめると、幕末のパワーバランスの変遷を理解することができるでしょう。政治の中心が京都へと移り、はじめこそ長州藩たち倒幕派の志士たちを退けますが、やがて時代の波に押し返されるように東へ、北へと敗走していく……彼らが今も絶大な人気を誇っているのは、そこに日本人固有の美学があるからかもしれません。時代が大きく動くとき、そこには必ず勝者だけではなく敗者がいます。そして敗者もまた歴史において確かな役割を担っているのです。新選組はこれからも、そのことをわたしに教え続けてくれるでしょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末を駆け抜けた最後の侍『新選組』を元塾講師がわかりやすく解説!始まりから終わりまでを5分で総まとめ

新選組の絶頂期と内紛

組織として絶頂を迎えた新選組。しかしその内部には様々な思惑が交錯するようになります。

拡大する新選組 伊東甲子太郎の加入

池田屋事件と禁門の変の活躍によって新選組は朝廷・幕府・会津藩から、感状(軍事面での活躍における賞状)や200両という大金を下賜されました。そして組織をさらに成長させるために隊士の第二募集を行います。新選組結成以前からの生え抜きのメンバーである『藤堂平助』の仲介で、江戸に住んでいた『伊東甲子太郎』がこれに参加しました。
この第二募集によって新選組は200人を超す大所帯へと成長します。しかしそれだけの人数を抱えた組織が一枚岩になることは難しく、その内部には様々な思惑が入れ乱れていたのです。

伊東たちの脱退 油小路事件

新選組局長である近藤勇と伊東甲子太郎は攘夷という点では思想を共有していましたが、近藤は佐幕派(幕府側)、伊東は倒幕派という点では決定的な隔たりがありました。そして博識で剣の腕も確かな伊東は組内での影響力を急速に強めていき、慶応3年(1867年)3月に10数人の隊士を引き抜いて『御陵衛士』を結成・脱退します。
同じ年の6月、これまでの活躍を評価された新選組は『幕臣』へと取り立てられました。幕臣とはつまり武士として認められること。武士に憧れ続けた百姓である近藤の夢がついに叶った瞬間でした。
幕府とのつながりをさらに強固なものとした新選組は、倒幕を掲げる伊東甲子太郎たち御陵衛士を襲撃します。それが『油小路事件』です。これによって伊東甲子太郎だけではなく、
試衛館時代からの近藤たちの仲間、藤堂平助も戦死します。

移り行く時代 徳川家から新政府へ

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近藤たちが幕府のために日々刀を振るう中、その裏では新たな国づくりが急速に進められていきます。そして時代の流れはいよいよ京の都を飲み込もうとするのです。

大政奉還から王政復古の大号令

新選組は組織として勢いを増していきますが、時勢は確実に倒幕へと向かっていきます。そして慶応3年(1867年)3月に15代将軍『徳川慶喜』が『大政奉還』を行うのです。これは政治の実権を朝廷に返すというもので、同年10月の『王政復古の大号令』を持って江戸幕府はついに消滅します。ここに300年続いた徳川幕府が終わりを迎えました。
そして翌年の慶應4年(明治元年)に薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍との間に、最大の内戦『戊辰戦争』が勃発します。

国を二分した戊辰戦争

戊辰戦争はこれまでに類を見ないほど大規模な内戦となりました。近藤たち新選組は旧幕府軍として参戦しますが、その初戦となる『鳥羽・伏見の戦い』で敗北。幕府海軍の指揮官だった榎本武揚が率いる軍艦で江戸へと撤退しました。
戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱退したことで新選組は弱体化していきます。『甲陽鎮撫隊』と名をあらためて、甲府でさらなる戦いへと出ますがそこでも敗戦。江戸への再びの撤退を余儀なくされます。

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