新選組といえば『幕末』に徳川家のために戦った侍の集団として有名です。
全てが混沌としていた時代の境目において、最後まで江戸幕府への忠義を貫いた彼らは今も多くの人気を集めている。しかし中心人物のほとんどが元々は武士ではなく、多摩の百姓だったことは知っているでしょうか……?
元塾講師で、日本史マニアのライター四郎を招いている。新選組の真実に迫っていこう。
- 『新選組』が結成されるまで
- 尊王攘夷運動の高まりと江戸幕府の弱体化
- 浪士組結成 京都へ
- 京都へと移った浪士組
- 浪士組の解散 そして壬生浪士組の誕生
- 活躍が認められて『新選組』に
- 誰もが恐れる戦闘集団『新選組』
- 芹沢鴨の暗殺
- 鉄と血の結束
- 京都でのさらなる活躍
- 京都大火を防いだ池田屋事件
- 禁門の変 長州藩の失墜
- 新選組の絶頂期と内紛
- 拡大する新選組 伊東甲子太郎の加入
- 伊東たちの脱退 油小路事件
- 移り行く時代 徳川家から新政府へ
- 大政奉還から王政復古の大号令
- 国を二分した戊辰戦争
- 新選組の終局
- 盟友たちとの別れ 近藤勇の死
- 土方歳三の死 新政府軍への降伏
- 激動の時代を駆け抜け、敗れ去った新選組
この記事の目次
ライター/四郎
偏差値70超の私立高校から、早慶や国公立大学を現役で合格。複数の学習メディアで執筆を行う受験ライター。今回は得意分野のひとつである「歴史」から記事をまとめた。
尊王攘夷運動の高まりと江戸幕府の弱体化
1853年のペリー来航以来、徳川家ではなく天皇を中心とした新しい国づくりを掲げる『尊王攘夷派』たちによって江戸幕府を倒そうとする『倒幕運動』が盛んとなります。そしてその倒幕運動の中心勢力が薩摩藩(鹿児島)や長州藩(山口県)の『志士』たちでした。
彼らが集まったのは江戸ではなく、実際に天皇家が住まう京都。そこで倒幕運動の体制を整えていました。列強各国の脅威を受けて江戸幕府の権威が弱まる文久2年(1862年)、14代将軍徳川家茂は天皇家に攘夷を約束するために、229年ぶりに上洛(京都に行くこと)を行うことにします。
浪士組結成 京都へ
この時代、京都の治安を維持していたのは主に京都所司代と京都町奉行という2つの組織でした。しかしそれだけでは将軍の上洛には心許ないということから、身分に関わらず腕に覚えのある者に募集がかかります。それが『浪士組』。後に新選組の中心人物となる『近藤勇』や『土方歳三』などが参加しました。
近藤や土方それに『沖田総司』は多摩の百姓出身で、『試衛館』という道場の仲間たちでした。彼らのような農民という身分の者が、将軍警護のために公式に雇われるといういわば「実力主義」は当時として異例のことだったのです。これは幕府の影響力が弱まり、人材が不足していたことの表れでもあります。
そのようにして集まった総勢およそ200人の浪士組は陸路で京都を目指しました。
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浪士組の解散 そして壬生浪士組の誕生
京都に到着してから、浪士組の発起人である清河八郎が実は倒幕を掲げる『勤王派』であることが判明しました。それをきっかけに組織は分裂しますが、近藤勇たちはあくまで京都に残り、将軍警護の使命を果たそうとします。
そして『壬生浪士組』を名乗った彼らは、京都守護職に就く会津藩主の『松平容保』から正式に市中警護と不逞浪士の取り締まりを命じられました。
活躍が認められて『新選組』に
荒くれ者の集まりという一面も持っていた壬生浪士組は、いくつかのトラブルを起こしながらも、徐々に京都市内でその存在感を大きくしていきます。そして文久3年(1863年)に薩摩藩が長州藩を京都から追放するという『八月十八日の政変』が起こり、そこで近藤勇たちはたしかな活躍をしました。その働きを評価されて『新選組』の名前を拝命するのです。
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