日本史

これは分かりやすい!「関ヶ原の戦い」の流れを物語感覚で元塾講師が5分で解説

よぉ、桜木建二だ。今日は関ヶ原の戦いについて勉強していくぞ。歴史上の戦いで覚えるべきものは多々あるが、その代表とも言えるのが「天下の分け目」とも呼ばれた関ヶ原の戦いだ。

ただ、関ヶ原の戦いはそこに至る経緯が長く、また複雑なために覚えるのが難しいだろう。そこで、物語を読み進める感覚で分かりやすく覚えられるよう、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から関ヶ原の戦いをわかりやすくまとめた。

関ヶ原の戦いが起こるまで 豊臣秀吉の死後

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豊臣秀吉の死後・揉める五大老と五奉行

戦国時代の後期、天下統一を果たした豊臣秀吉は1598年にその生涯を終えることになります。病状の悪化で死を悟った豊臣秀吉は、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老と、石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以・長束正家ら五奉行に遺言書を出しました。

そして豊臣秀吉の死後、豊臣政権の政治体制はこの五大老と五奉行を中心とした集団運営体制へと移行しますが、これがうまくいきません。徳川家康はこれまで豊臣家が禁じていた各地の大名や家臣への婚姻の斡旋などを独断で行うようになり、当然他のメンバーがこれを非難、内部対立が勃発するのです。

実は、豊臣秀吉が生きている頃からこうした内部対立は起こっており、石田三成を中心とした政務活動担当の「文治派」と軍事活動に従事する「武断派」とで対立していました。さて、徳川家康の独断での行動は世間で非難を招くものの、一方でそれを支持する意見もあり、なぜなら婚姻の斡旋を受けた武将にとってはむしろ喜ぶべき事態だったためです。

豊臣秀吉の死後・修復不可となった対立

徳川家康の行動を支持する者と支持しない者、武将達は「徳川派」「三成派」に分かれて対立します。さて、こうした対立を収める上でなくてはならないのが仲裁役となる存在ですが、その仲裁役となっていたのが五大老の前田利家でした。しかし、1599年にこのバランスが崩壊します。

仲裁役であった五大老の前田利家が死去、このため内部対立はより激しくなっていき、ついには石田三成の暗殺まで計画されてしまうのです。最も、これは石田三成が逃げて未遂に終わるものの、この石田三成の暗殺未遂事件によって3つのことが起こりました。

1つ目に徳川家康の影響力が大きくなったことで、これは石田三成の暗殺未遂事件を解決させたのが徳川家康だったからです。2つ目に石田三成が失脚したことで、この事件の影響で石田三成は謹慎処分、一時的ではありますが失脚してしまいます。そして3つ目、豊臣家の「文治派」と「武断派」の対立は完全に修復不可能になりました

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豊臣秀吉の死後、五大老と五奉行による集団運営体制は対立を招く結果となった。仲裁役の前田利家が死去したことで対立はより激しくなり、石田三成の暗殺未遂事件によってもはや関係修復は不可能な状態になったのだ。

関ヶ原の戦いが起こるまで 力をつける徳川家康

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