今日は関ヶ原の戦いについて勉強していきます。歴史上の戦いで覚えるべきものは多々ありますが、その代表とも言えるのが「天下の分け目」とも呼ばれた関ヶ原の戦いです。

ただ、関ヶ原の戦いはそこに至る経緯が長く、また複雑なために覚えるのが難しいでしょう。そこで、物語を読み進める感覚で分かりやすく覚えられるよう、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から関ヶ原の戦いをわかりやすくまとめた。

関ヶ原の戦いが起こるまで 豊臣秀吉の死後

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豊臣秀吉の死後・揉める五大老と五奉行

戦国時代の後期、天下統一を果たした豊臣秀吉は1598年にその生涯を終えることになります。病状の悪化で死を悟った豊臣秀吉は、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老と、石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以・長束正家ら五奉行に遺言書を出しました。

そして豊臣秀吉の死後、豊臣政権の政治体制はこの五大老と五奉行を中心とした集団運営体制へと移行しますが、これがうまくいきません。徳川家康はこれまで豊臣家が禁じていた各地の大名や家臣への婚姻の斡旋などを独断で行うようになり、当然他のメンバーがこれを非難、内部対立が勃発するのです。

実は、豊臣秀吉が生きている頃からこうした内部対立は起こっており、石田三成を中心とした政務活動担当の「文治派」と軍事活動に従事する「武断派」とで対立していました。さて、徳川家康の独断での行動は世間で非難を招くものの、一方でそれを支持する意見もあり、なぜなら婚姻の斡旋を受けた武将にとってはむしろ喜ぶべき事態だったためです。

豊臣秀吉の死後・修復不可となった対立

徳川家康の行動を支持する者と支持しない者、武将達は「徳川派」「三成派」に分かれて対立します。さて、こうした対立を収める上でなくてはならないのが仲裁役となる存在ですが、その仲裁役となっていたのが五大老の前田利家でした。しかし、1599年にこのバランスが崩壊します。

仲裁役であった五大老の前田利家が死去、このため内部対立はより激しくなっていき、ついには石田三成の暗殺まで計画されてしまうのです。最も、これは石田三成が逃げて未遂に終わるものの、この石田三成の暗殺未遂事件によって3つのことが起こりました。

1つ目に徳川家康の影響力が大きくなったことで、これは石田三成の暗殺未遂事件を解決させたのが徳川家康だったからです。2つ目に石田三成が失脚したことで、この事件の影響で石田三成は謹慎処分、一時的ではありますが失脚してしまいます。そして3つ目、豊臣家の「文治派」と「武断派」の対立は完全に修復不可能になりました

関ヶ原の戦いが起こるまで 力をつける徳川家康

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浅野長政の失脚と徳川家に従う前田家

暗殺未遂事件によって失脚した石田三成、ここで力を発揮するのが徳川家康でした。徳川家康は石田三成に代わって豊臣家にとって中心となる大坂城に入ると、政務を指揮する立場へとなります。これで力をつけた徳川家康でしたが、この事態を良しとしないのが元々政務を取り仕切る立場であった五奉行です。

当然両者の溝は深まるばかり……そんな時、徳川家康が自らの暗殺計画が立てられていたことを公表しました。前田利家の死後、前田家を継いだ前田利長と、五奉行の1人である浅野長政が結託して徳川家康の暗殺計画を計っていたというものです。

信憑性はともかく、徳川家康のこの公表によって五奉行の浅野長政が失脚、さらに徳川家康は暗殺計画を立てたことを理由に前田家の討伐を決定、兵士を集めてそのための準備に入ります。ここで機転を利かせたのが亡き前田利家の妻・芳春院で、芳春院は自ら徳川家の人質となることを決意したのです。

上杉景勝が徳川家康に送った挑戦状

徳川家の人質になること……すなわちそれは前田家が徳川家に従うことを意味しており、そのため徳川家康による前田家討伐の緊迫した事態は収まります。ただしこれは徳川家康の力をより強くさせる結果となり、徳川家康は五大老でナンバー2の力を持つ前田家を従えることになったのです。

さらに、浅野長政を失脚させたことで五奉行の力も低下させ、徳川家康は豊臣家において最も力を持つ存在にまでなりました。時は1600年、既に徳川家康は天下を掌握するほどの力を持っており、そのため各地の大名も徳川家康に頭が上がらない状況でした。

そんな徳川家康に対して謀反の態度を示したのが、五大老の1人である上杉景勝です。そもそも無断で軍事増強を進めていた上杉景勝、さらに謀反の態度を示したことで、徳川家康は彼の本心を知るために釈明を求める手紙を送りました。しかし、その返事は釈明どころか徳川家康に対する挑戦状に等しく、これが直江状と呼ばれるものです。

石田三成の動きと徳川家康の結論

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伏見城を攻撃した石田三成

直江状を受け取った徳川家康は上杉景勝の謀反を確信、上杉家の討伐を決意します。大軍を率いて出陣する徳川家康、これに目をつけたのが失脚した石田三成でした。出陣したことで徳川派は大坂城に残っておらず、今がチャンスとばかりに石田三成は徳川家康を倒すために兵士を集めます

内府ちかひの条々(徳川家康の罪状を並べて討伐を訴えた文章)を発表して諸国の大名の協力を仰ぐ石田三成、さらに大坂城に残っていた徳川派の武将の家族も人質に取ったのです。10000以上の兵力を集めた石田三成は、徳川家の重臣・鳥居元忠のいる伏見城をまず攻撃、この攻撃で伏見城は炎上して鳥居元忠は戦死しました。

一方、上杉家討伐に出陣した徳川軍はこの知らせを聞くと、会議を開いて今後の進むべき道を話し合います。これが小山評定と呼ばれる会議であり、「小山」とは会議を行った場所の名前をそのまま取ってつけたものです。そして会議で出た結論は、大坂に引き返して石田三成の軍……すなわち石田軍と戦おうというものでした

石田三成との戦いを決意した徳川家康

「徳川軍=東軍」「石田軍=西軍」の陣営が決まり、これは関ヶ原の戦いの陣営でもあります。石田軍との戦いを決意したとは言え、このまま上杉家を放置できないと考えた徳川家康は、上杉家と対立する最上家伊達家に上杉家への攻撃を依頼しました。

一方、石田軍と戦うために兵を集めようとする徳川家康、これは順調に進み、徳川軍……つまり東軍に味方する者が多かったからでしょう。このため西軍の武将が構える尾張・美濃の城は次々と陥落、それに加えて石田三成が主力として期待していた軍勢も成果を挙げることができません。

カリスマ性では徳川家康に遠く及ばない石田三成、信頼していた西軍の軍事計画を立てていた増田長盛も実は徳川家康と内通していたなど、予想外の事態の数々に石田三成は苦戦します。石田三成は徳川軍を食い止めるため大垣城に入り、一方の徳川家康率いる東軍も大垣城に進軍、こうして関ヶ原の戦いの始まりは近づいてきたのです

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関ヶ原の戦いの始まり

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前哨戦・杭瀬川の戦い

戦いの場に到着した東軍、この東軍の到着は西軍が想定していたよりも随分と早く、そのため西軍の兵士達は動揺を見せました。そこで、士気を高めようと敵陣に向かったのが島左近です。後退する素振りを見せて敵……つまり東軍をおびき寄せ、背後を兵で遮断して囲い込みに成功、見事な作戦で東軍を壊滅されます。

これが杭瀬川の戦いと呼ばれるもので、関ヶ原の戦いの前哨戦とされているのです。その後は睨み合いが続き、大きな戦闘をすることなく夜が明けます。そして夜明けとともに戦闘開始、島左近が早々に戦線離脱するも、戦いは西軍が有利に展開していました。

さて、この状況を一変させたのは西軍の小早川秀秋です。石田三成は関ヶ原の側面の松尾山に布陣している小早川秀秋に進軍を要請、ただ小早川秀秋はこの戦闘中に東軍から寝返りの要請も受けていました。とは言え、寝返る素振りを見せない小早川秀秋に対して東軍は発砲したのです。

戦況を一変させた小早川秀秋の寝返り

この発砲の意図は徳川家康が小早川秀秋の性格を見抜いてのことだと言われており、小心者の小早川秀秋に対して寝返りの催促を意味していました。東軍に発砲されたことで本来なら小早川秀秋は西軍に就くと予想しますが、小早川秀秋はこれを徳川家康の怒りと判断、このため東軍への寝返りを決意します

こうして寝返って西軍に攻撃を仕掛ける小早川秀秋、しかしそんな小早川秀秋の寝返りを見透かしていた人物がいました。それが大谷吉継であり、彼は石田三成の盟友です。大谷吉継は寝返った小早川秀秋を計算どおりとばかりに迎撃、しかしここで大谷吉継にとって予想外の出来事が起こります。

それは小早川秀秋の周囲の武将まで寝返ったことで、小早川秀秋の部隊を包囲して倒すはずが、逆に自分の部隊が包囲されてしまったのです。集中攻撃を受けた大谷吉継の部隊は壊滅、小早川秀秋はそのまま進軍を開始してこれで関ヶ原の戦いは完全に東軍が有利になりました。

関ヶ原の戦いの決着

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戦いの決着とその後

前線ではまだ一進一退の攻防が続いていたものの、小早川秀秋の軍勢がやってきたことで西軍が崩壊し始めます。西軍の宇喜多秀家の軍、島津軍はともに善戦していたもののやがて退却、最後に残った石田三成の本陣も総攻撃を受けて壊滅、これで戦いに完全に決着がつきました。

ちなみにこれは1600年の9月15日の昼間のことで、つまり夜明けとともに開始された関ヶ原の戦いはわずか半日という短さで決着がついたのです。西軍を率いていた石田三成は戦死こそしませんでしたが、この戦いの後に捕まって処刑されてしまいます。

戦況を一変させた小早川秀秋は多くの褒美と出世を手に入れましたが、寝返りという行為を非難されてしまい、堕落した生活が続いたことで関ヶ原の戦いから2年後に死去したようです。また、生き残った西軍の武将の多くが島流しなどの処分を受けました。

天下統一、江戸幕府を開く徳川家康

こうして関ヶ原の戦いは終わり、豊臣家は以前に比べて大きく縮小されて大名家の1つになります。徳川家康はこの関ヶ原の戦いによって天下を統一、後の1603年には江戸幕府を開き、征夷大将軍としてこの先江戸時代の政治を行っていったのです

また、関ヶ原の戦いが起こる前に徳川家康と対立関係にあった五奉行は、その1人である長束正家が敗戦後に自害しています。ただし他のメンバーは謹慎程度の処分で留まっており、また一定の領地を約束された者もいました。これは、このメンバー達が東軍に協力したことが認められてのことです。

徳川家康と対立していたはずの五奉行が徳川家康に協力しているという点から、五奉行の組織も関ヶ原の戦い前に既に崩壊していたのでしょう。徳川家康によって再び幕府が開かれますが、結果的にこれが日本の最後の幕府となり、武士を中心とした政治はこれが最後のものとなるのでした。

丸暗記するよりも物語感覚で辿って覚えていく

年号、出来事、人物を片っ端から覚えても良いですが、関ヶ原の戦いのような大きな戦いはこうして物語を読み進めるように辿っていくと理解しやすいですよ。

関ヶ原の戦いの場合、戦い自体は非常に短時間で終わりますから、そこまでのいきさつを中心に覚えていくのがベストでしょう。

" /> これは分かりやすい!「関ヶ原の戦い」の流れを物語感覚で元塾講師が5分でわかりやすく解説 – Study-Z
安土桃山時代日本史歴史

これは分かりやすい!「関ヶ原の戦い」の流れを物語感覚で元塾講師が5分でわかりやすく解説

今日は関ヶ原の戦いについて勉強していきます。歴史上の戦いで覚えるべきものは多々ありますが、その代表とも言えるのが「天下の分け目」とも呼ばれた関ヶ原の戦いです。

ただ、関ヶ原の戦いはそこに至る経緯が長く、また複雑なために覚えるのが難しいでしょう。そこで、物語を読み進める感覚で分かりやすく覚えられるよう、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から関ヶ原の戦いをわかりやすくまとめた。

関ヶ原の戦いが起こるまで 豊臣秀吉の死後

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豊臣秀吉の死後・揉める五大老と五奉行

戦国時代の後期、天下統一を果たした豊臣秀吉は1598年にその生涯を終えることになります。病状の悪化で死を悟った豊臣秀吉は、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老と、石田三成・増田長盛・浅野長政・前田玄以・長束正家ら五奉行に遺言書を出しました。

そして豊臣秀吉の死後、豊臣政権の政治体制はこの五大老と五奉行を中心とした集団運営体制へと移行しますが、これがうまくいきません。徳川家康はこれまで豊臣家が禁じていた各地の大名や家臣への婚姻の斡旋などを独断で行うようになり、当然他のメンバーがこれを非難、内部対立が勃発するのです。

実は、豊臣秀吉が生きている頃からこうした内部対立は起こっており、石田三成を中心とした政務活動担当の「文治派」と軍事活動に従事する「武断派」とで対立していました。さて、徳川家康の独断での行動は世間で非難を招くものの、一方でそれを支持する意見もあり、なぜなら婚姻の斡旋を受けた武将にとってはむしろ喜ぶべき事態だったためです。

豊臣秀吉の死後・修復不可となった対立

徳川家康の行動を支持する者と支持しない者、武将達は「徳川派」「三成派」に分かれて対立します。さて、こうした対立を収める上でなくてはならないのが仲裁役となる存在ですが、その仲裁役となっていたのが五大老の前田利家でした。しかし、1599年にこのバランスが崩壊します。

仲裁役であった五大老の前田利家が死去、このため内部対立はより激しくなっていき、ついには石田三成の暗殺まで計画されてしまうのです。最も、これは石田三成が逃げて未遂に終わるものの、この石田三成の暗殺未遂事件によって3つのことが起こりました。

1つ目に徳川家康の影響力が大きくなったことで、これは石田三成の暗殺未遂事件を解決させたのが徳川家康だったからです。2つ目に石田三成が失脚したことで、この事件の影響で石田三成は謹慎処分、一時的ではありますが失脚してしまいます。そして3つ目、豊臣家の「文治派」と「武断派」の対立は完全に修復不可能になりました

関ヶ原の戦いが起こるまで 力をつける徳川家康

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