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天下統一を目指した戦国武将「織田信長」を元塾講師がわかりやすく解説!3分で簡単一生と政治政策

織田信長を覚えるには3つの戦いと政治政策がポイントだ!信長は49年の人生の中で幾度となく戦って勝利してきたが、その戦いの中でも重要なのは桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変の3つだ!

また、戦国武将だからと言って戦いばかりに注目していてはいけないぞ。器量の高さを伺える政治政策、残酷な性格な象徴とされる比叡山延暦寺の焼き討ちもしっかりと把握しておこう!

今回、塾講師として歴史を教えてきたライターリュカを招いた。一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から記事をまとめた。

信長の歴史・誕生と国主に至るまで

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厳しい状況下で誕生した信長

信長が誕生したのは1534年、現在の愛知県である尾張にて生まれます。信長の父は織田信秀、信長の生まれた尾張国の守護である斯波氏の力はこの当時既に衰えており、そのため守護代の織田氏も分裂していました。

ちなみに守護とは幕府が置いた職制で、国単位で設置された行政官、守護代とは守護の下に置かれた役職です。信長の誕生時はこのような状況でしたが、父信秀は守護代の織田達勝らの支援を得て那古野城を今川氏豊から奪います。

さらに父信秀は尾張国内における勢力をさらに拡大、信長は早い段階で那古野城の城主となるのです。1546年に元服(男子が成人になったことを示す儀式)した信長は翌年初陣を果たすと、その後は尾張国支配の政務にも関わるようになりました。

大うつけと呼ばれた信長が器量を発揮

父信秀の死後、信長は家督を継ぐことになりますが、その後は決して順調ではありませんでした。父信秀が尾張国内に大きな勢力を築いたものの、引き継いだ時点で信長はまだ若く、そのため勢力を維持するだけの力が不充分だったからです。

しかも外部には清須城の尾張守護代である織田大和守家という対立者、さらに内部には信長の弟である信勝という競争者がいる状況でもあり、家督継承後の信長は困難に直面していました。

しかし信長は清州方の武将と戦って勝利、さらに弟との戦いにおいても勝利して、1558年には織田信賢も撃破して岩倉城を陥落させます。

奇怪な行動などから幼年期に「大うつけ」と呼ばれていた信長でしたが、次々と敵を打ち破った信長はこうして国主となり、1559年に室町幕府13代将軍である足利義輝に諸見も果たしたのです。

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織田信長の幼年期は厳しい状況だった!誕生した尾張国では守護の力が衰え、信長自身も大うつけと呼ばれていたほどだからな。

元服後も勢力維持が困難だった信長だが戦いにおいて器量を発揮、この後歴史的な戦いを繰り返していくことになるんだ。

信長の歴史・桶狭間の戦いと比叡山延暦寺の焼き討ち

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\次のページで「奇襲にて今川義元の大軍を撃破した桶狭間の戦い」を解説!/

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