織田信長を覚えるには3つの戦いと政治政策がポイントだ!信長は49年の人生の中で幾度となく戦って勝利してきたが、その戦いの中でも重要なのは桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変の3つだ!

また、戦国武将だからと言って戦いばかりに注目していてはいけないぞ。器量の高さを伺える政治政策、残酷な性格な象徴とされる比叡山延暦寺の焼き討ちもしっかりと把握しておこう!

今回、塾講師として歴史を教えてきたライターリュカを招いた。一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から記事をまとめた。

信長の歴史・誕生と国主に至るまで

image by iStockphoto

厳しい状況下で誕生した信長

信長が誕生したのは1534年、現在の愛知県である尾張にて生まれます。信長の父は織田信秀、信長の生まれた尾張国の守護である斯波氏の力はこの当時既に衰えており、そのため守護代の織田氏も分裂していました。

ちなみに守護とは幕府が置いた職制で、国単位で設置された行政官、守護代とは守護の下に置かれた役職です。信長の誕生時はこのような状況でしたが、父信秀は守護代の織田達勝らの支援を得て那古野城を今川氏豊から奪います。

さらに父信秀は尾張国内における勢力をさらに拡大、信長は早い段階で那古野城の城主となるのです。1546年に元服(男子が成人になったことを示す儀式)した信長は翌年初陣を果たすと、その後は尾張国支配の政務にも関わるようになりました。

大うつけと呼ばれた信長が器量を発揮

父信秀の死後、信長は家督を継ぐことになりますが、その後は決して順調ではありませんでした。父信秀が尾張国内に大きな勢力を築いたものの、引き継いだ時点で信長はまだ若く、そのため勢力を維持するだけの力が不充分だったからです。

しかも外部には清須城の尾張守護代である織田大和守家という対立者、さらに内部には信長の弟である信勝という競争者がいる状況でもあり、家督継承後の信長は困難に直面していました。

しかし信長は清州方の武将と戦って勝利、さらに弟との戦いにおいても勝利して、1558年には織田信賢も撃破して岩倉城を陥落させます。

奇怪な行動などから幼年期に「大うつけ」と呼ばれていた信長でしたが、次々と敵を打ち破った信長はこうして国主となり、1559年に室町幕府13代将軍である足利義輝に諸見も果たしたのです。

信長の歴史・桶狭間の戦いと比叡山延暦寺の焼き討ち

image by iStockphoto

\次のページで「奇襲にて今川義元の大軍を撃破した桶狭間の戦い」を解説!/

奇襲にて今川義元の大軍を撃破した桶狭間の戦い

1560年の「桶狭間の戦い」、信長と今川義元のこの戦いは日本の歴史においても有名な戦いです。駿河の戦国大名である今川義元が尾張に侵攻しますが、この時今川義元は25000と言われる大軍を率いており、一方の信長の軍勢は5000と少数でした。

どう見ても不利な状況で信長が勝利したのは、豪雨によって足止めされていた今川軍への奇襲による成果です。そのため「桶狭間の戦い」は1546年の「河越城の戦い」、1555年の「厳島の戦い」と共に「日本三大奇襲」の一つとして数えられています。

信長が今川義元を打ち破ったことで今川氏の支配下から徳川家康が独立、信長と家康は利害が一致したことで清須同盟を結び、その後に信長は尾張と美濃を治める大名となったのです。

信長の残酷さの象徴となった比叡山延暦寺焼き討ち

信長は1568年に足利義昭を奉じて上洛(京都に入ること)、阻む敵勢を追い払い、足利義昭は朝廷から将軍宣下を受けて15代将軍となります。これで信長は天下の実権を握るほどの力を得たのです。

さらに信長は伊勢攻略に着手してそれを見事成功させますが、一方で離反した浅井氏、命令無視を繰り返す朝倉義景の連合軍との小競り合いを繰り返すことになっていくのでした。

この小競り合いは最終的に信長が30000もの軍勢を率いて出兵することで勝利するのですが、戦いの中で信長は浅井・朝倉を匿って抵抗した比叡山延暦寺を焼き討ちするのです。

この戦略の残酷さこそ、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」が信長を示す強引さ・残忍さの象徴でしょう。この戦い浅井長政・朝倉義景との戦いは「姉川の戦い」と呼ばれており、これについては以下の項目で解説していきます。

信長の歴史・長篠の戦いと本能寺の変

image by PIXTA / 12381597

最強武田軍の騎馬軍団に火縄銃で対抗した長篠の戦い

「長篠の戦い」は1575年に起こった信長と武田勝頼との戦いで、この戦いでは織田軍が大量の火縄銃を使用したのが特徴です。当時武田軍の騎馬軍団は相当に強く、10000以上の大軍を率いて長篠城を包囲しました。

長篠城には守備隊がいたものの、その数は500程度で、それでも200丁の鉄砲を所持していたことで武田軍の攻めを防いでいたのです。しかしそれも限界に達したため密使を放って援軍の要請に成功、信長軍30000、家康軍8000もの援軍を信長は戦略的に布陣させます。

武田軍を追い詰めて「長篠の戦い」に勝利した信長は、石山本願寺との和陸(争いをやめて仲直りすること)によって反信長勢力も抑え、天下人として台頭しました。そして1576年、信長は安土城を築いたのです

天下統一を目指した信長の最期となった本能寺の変

天下統一を目指した信長の最期となる舞台が、1582年の「本能寺の変」です。明智光秀が信長に命じられて家康らをもてなしていた頃、備中高松城攻囲中の羽柴秀吉から援軍の要請が届きました。

ここで信長は光秀と与力(下級武士)衆に援軍の先陣を務めるように指示します。そして信長は安土城を出陣して上洛、京の定宿であった本能寺に入りますが、先に援軍を指示されて丹波亀山城にいた光秀は密かに反逆の準備を進めていたのです。

光秀は13000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣、目的地である本能寺に到達すると完全に包囲します。信長が光秀の謀反に気づいた時には既に遅く、本能寺の御殿には火がかけられており、火の手は信長の近くまで及んでいました。

信長はそこで籠って切腹して自害、天下統一の目の前にした信長の人生はこうして49年で幕を閉じることになったのです

\次のページで「戦いだけでなく信長の政治政策も覚えておこう」を解説!/

戦いだけでなく信長の政治政策も覚えておこう

image by PIXTA / 41381979

政策その1.商工業の発展と貴族や寺社の勢力衰退を同時に実現した「楽市楽座」

「座」とは、平安時代から室町時代にかけてできた商工業の組合のことで、「座」に入っている商工業者は様々な特権を受けていました。「座」には「綿座」、「鍋座」、「鍛冶座」などがあり、貴族や寺社に税を納めることで市場の独占などの保護を受けていたのです。

しかし「座」はそこに入っている商工業者の利益を守る意味合いが強く、そのため商業における自由な発達の妨げにもなっていました。そこで信長は市場税を廃止、「座」の持つ特権、さらには「座」そのものも廃止しました。

特権の廃止を「楽市」、「座」そのものの廃止を「楽座」と呼び、信長のこの政策は「楽市楽座」と呼ばれたのです

その結果、商工業は自由に行われることになって発達の道を進みますが、その一方で「座」からの税が入らなくなった貴族や寺社の勢力が衰えることになりました。

政策その2.経済の発展と公家や寺院の衰退を同時に実現した「関所の廃止」

関所とは道の要所に設置された施設のことで、人が通過する時には徴税や検問を行っていました。

当時は各地で多くの関所が設置されていましたが、その目的の大半は徴税であり、それが物流の妨げや物価上昇などの原因となって一般庶民を困らせていました。移動するたびに徴税が必要になることで、当然気軽な移動ができなくなるからです。

信長はこの関所を全て廃止しており、それだけでなく舗装や橋の設置によって道も整えました。これによって通行と運搬はスムーズになり、経済が発展して国を豊かにする結果となったのです。

また、関所の徴税は公家や寺院や地方の国人の貴重な収入源だったため、これを廃止することで公家や寺院の衰退、地方の武装勢力の資金源を断つ効果ももたらしました。

3つの戦いと政治政策を覚えたら、他の戦いについても覚えよう

姉川の戦い・戦いが起こるまでの経緯

「姉川の戦い」は1570年に起こった、信長と徳川家康の連合軍、浅井長政と朝倉義景の連合軍との戦いです。結果から言うと、この戦いに勝利したのは信長と徳川家康の連合軍で、敗北した浅井氏と朝倉氏は勢力を失うことになり、滅亡に進んでいくことになります。

さて、まずこの戦いのきっかけとなったのは信長の野心です。信長はこの時岐阜を本拠地としており、美濃の斎藤氏の攻略に苦労していました。そこで信長は滋賀県の琵琶湖北部を治めていた浅井長政に同盟を呼びかけ、信長の妹である「お市の方」を浅井長政と結婚させることで同盟関係を結びます

この時、浅井長政は「朝倉への不戦の誓い」を提示、信長もこれに了承するのですが、信長はその約束を破って家康と共に越前の朝倉氏を攻撃したのです。

姉川の戦い・戦いの結末

元々浅井長政が不戦の誓いを提示したのは朝倉氏と縁が深かったため、約束を破って攻撃した信長を無視できず、浅井長政は朝倉氏との同盟関係を重視します。こうして信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の連合軍との戦いが始まることになり、これが「姉川の戦い」です。

この戦いの解説においては「浅井長政の裏切り」と説明されていますが、約束を破った意味で実際に裏切ったのは信長と言えるでしょう。

「姉川の戦い」では背後から襲った浅井長政側の連合軍や当初優勢でしたが、羽柴秀吉の活躍によって窮地を逃れ、最終的には信長と徳川家康の連合軍が圧勝に終わりました。

ちなみに、この時活躍した羽柴秀吉こそ後の豊臣秀吉たる人物であり、この当時は小者として信長に仕えていたのです。

3つの戦いと政治政策をまず覚えよう

織田信長の人生は波乱万丈、それゆえ信長の全て完璧に覚えるのは難しいでしょうが、ポイントは限られます。

日本三大奇襲に数えられている「桶狭間の戦い」、天下人となって安土城を築くことになる「長篠の戦い」、そして信長最期の舞台となる「本能寺の変」、ポイントとなる戦いはこれら3つと言っていいでしょう。また、「楽市楽座」や「関所の廃止」などの政治政策もしっかりと把握してください。

織田信長を覚えるには3つの戦いと政治政策がポイントです。まずこれらをしっかりと覚え、「姉川の戦い」などはそれから覚えていく流れにすると良いでしょう。

" /> 天下統一を目指した戦国武将「織田信長」を元塾講師がわかりやすく解説!3分で簡単一生と政治政策 – Study-Z
安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史

天下統一を目指した戦国武将「織田信長」を元塾講師がわかりやすく解説!3分で簡単一生と政治政策

織田信長を覚えるには3つの戦いと政治政策がポイントだ!信長は49年の人生の中で幾度となく戦って勝利してきたが、その戦いの中でも重要なのは桶狭間の戦い、長篠の戦い、本能寺の変の3つだ!

また、戦国武将だからと言って戦いばかりに注目していてはいけないぞ。器量の高さを伺える政治政策、残酷な性格な象徴とされる比叡山延暦寺の焼き討ちもしっかりと把握しておこう!

今回、塾講師として歴史を教えてきたライターリュカを招いた。一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から記事をまとめた。

信長の歴史・誕生と国主に至るまで

image by iStockphoto

厳しい状況下で誕生した信長

信長が誕生したのは1534年、現在の愛知県である尾張にて生まれます。信長の父は織田信秀、信長の生まれた尾張国の守護である斯波氏の力はこの当時既に衰えており、そのため守護代の織田氏も分裂していました。

ちなみに守護とは幕府が置いた職制で、国単位で設置された行政官、守護代とは守護の下に置かれた役職です。信長の誕生時はこのような状況でしたが、父信秀は守護代の織田達勝らの支援を得て那古野城を今川氏豊から奪います。

さらに父信秀は尾張国内における勢力をさらに拡大、信長は早い段階で那古野城の城主となるのです。1546年に元服(男子が成人になったことを示す儀式)した信長は翌年初陣を果たすと、その後は尾張国支配の政務にも関わるようになりました。

大うつけと呼ばれた信長が器量を発揮

父信秀の死後、信長は家督を継ぐことになりますが、その後は決して順調ではありませんでした。父信秀が尾張国内に大きな勢力を築いたものの、引き継いだ時点で信長はまだ若く、そのため勢力を維持するだけの力が不充分だったからです。

しかも外部には清須城の尾張守護代である織田大和守家という対立者、さらに内部には信長の弟である信勝という競争者がいる状況でもあり、家督継承後の信長は困難に直面していました。

しかし信長は清州方の武将と戦って勝利、さらに弟との戦いにおいても勝利して、1558年には織田信賢も撃破して岩倉城を陥落させます。

奇怪な行動などから幼年期に「大うつけ」と呼ばれていた信長でしたが、次々と敵を打ち破った信長はこうして国主となり、1559年に室町幕府13代将軍である足利義輝に諸見も果たしたのです。

信長の歴史・桶狭間の戦いと比叡山延暦寺の焼き討ち

image by iStockphoto

\次のページで「奇襲にて今川義元の大軍を撃破した桶狭間の戦い」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: