平安時代の終わりを告げる源平合戦の序章「保元の乱」。朝廷内での政治的紛糾がこじれにこじれた末に起こった武力による衝突です。親族が敵味方に入り乱れた争いで、参戦する武士の中には清盛や、頼朝の父親が含まれている。

源平マニアのリリー・リリコと一緒に「保元の乱」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経をテーマに卒業論文を書いた。

平安時代末期の政治情勢

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藤原摂関家を外戚に持たない天皇の誕生

鎌倉幕府が開かれる前、平安時代の政治と言えば藤原摂関家のイメージが強いですね。この摂関家というのは、摂政と関白を排出する家柄を指します。少し摂政と関白についておさらいすると、「摂政」は幼い天皇や女帝の代わりに政治を行う人のことで、古くは聖徳太子も推古天皇の摂政でした。「関白」は大人の天皇の代わりに政治を執る人のことです。初めての関白となった藤原北家出身の藤原基経も平安時代前期の政治家でした。彼から続く摂関家は平安末期までの間、緩急はあれど常に権勢を振るっています。

さて、そんな摂関家にも栄華の切れ目となる時期が訪れました。11世紀の中盤に即位した第71代後三条天皇は藤原摂関家を外戚に持たない天皇です。藤原氏が外戚でないことで冷遇されますが、父である後冷泉天皇にとうとう藤原氏の血を引く子どもに恵まれなかったために即位することになりました。そうして、即位するや否や反摂関家を掲げる公卿や臣籍降下した源氏の面々を政治の中心に据え、摂関家が独占状態だった朝廷を取り戻します。

さらに、後三条天皇は「延久の荘園整理令」で国務の妨げとなっていた藤原摂関家の違法荘園を整理して経済的ダメージを与えました。続いて、絹や布の品質を統一する「絹布の制」、物価を統制するための「估価法」などを制定し、天皇家の財政を整えていきます。

白河院による摂関家の冷遇

後三条天皇の後を継いだ息子・白河天皇は一応の形で関白は置きますが、彼もまた天皇自ら政治の舵を取る親政を敷き、着々と摂関家の力を削いでいきました。そして、八歳の息子・堀川天皇に譲位すると幼い帝の後見として引き続き政治を引っ張っていきます。これまでの摂政や関白に対して、上皇(引退した天皇)が現役の天皇に代わって政治を執ることを「院政」と呼びました。

白河上皇の権力がさらに増大したのは彼の引退後、孫である鳥羽天皇が四歳で天皇に即位したときです。ちょうどそのころ、摂関家の当主だった藤原師通が亡くなり、跡継ぎの忠実は若く関白になれる資格もありません。息子・堀川天皇もすでに亡く、邪魔者のいなくなった朝廷で白河上皇の院政が続くことになったのです。こうなると白河上皇の独断場で、息子・堀川天皇、孫・鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の三代に渡って院政を敷き、摂関家を退けたのでした。

徹底的に実権を持たせてもらえなかった崇徳天皇

白河上皇の崩御時、天皇の座に就いていたのは十歳の崇徳天皇です。幼い彼に代わって政治を執り、院政を行ったのは父である鳥羽上皇でした。崇徳天皇が子どもであるうちはそれでよかったのですが、大人になれば自ら親政を敷きたいと思うのは当たり前ですよね。しかし、院政は引退した上皇が行うものですから、現役のままでは政に触れさせてもらえません。まったく手を出せないうちに退位を迫られ、天皇の座は異母弟の近衛天皇へと譲位させられてしまいます。院政は普通、天皇の親である上皇が行うものでしたから、弟の近衛天皇が相手では崇徳上皇に院政は行えません。鳥羽上皇が院政を続け、崇徳上皇は一切の実権を与えられませんでした。

体の弱かった近衛天皇が崩御した後も次代の天皇は崇徳上皇の息子ではなく、29歳の後白河天皇が即位します。後白河天皇もまた崇徳上皇の弟です。しかも、後白河天皇の次はその息子・守仁親王と決まっていたので、これで崇徳上皇の院政は決定的に不可能となりました

本当に我が子か?亡き白河上皇の女性問題

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どうして鳥羽上皇はここまで崇徳上皇を政治の場から排除したのか?その背景には白河法皇の女性問題がありました。

白河上皇の皇后は藤原賢子で、夫婦中はとても仲睦まじかったといいます。ところが、皇后・賢子が若いうちに亡くなってしまうと、その反動からでしょうか、白河上皇は誰彼構わず関係を持つようになってしまいました。

そんな状況下にもかかわらず、白河上皇はひとりの少女を養育していました。それが後に鳥羽上皇の中宮となる藤原璋子です。鳥羽上皇と璋子の間には崇徳上皇をはじめ後白河法皇など七人の子どもに恵まれていますが、鳥羽上皇は長子だった崇徳上皇は璋子と白河上皇の子ではないかと疑っていました。メロドラマかとつっこみを入れたいところですが、それを肯定するように、白河上皇の死後、璋子は宮中での権勢を失い、崇徳上皇も退位させられてしまうのでした。

\次のページで「権勢を盛り返したい藤原家だったが」を解説!/

権勢を盛り返したい藤原家だったが

宮中がゴタゴタしていたころ、藤原摂関家もただ手をこまねいていたわけではありません。白河上皇の院政下で冷遇され続けた藤原忠実でしたが、鳥羽上皇の院政下で朝廷に返り咲きます。ただ、このとき形ばかりとはいえ関白についていたのは忠実の長男・忠通。朝廷に戻った父が実質関白と同じ役職に就いたものですから、ふたりは次第に対立するようになっていきます。そこへ更に次男の頼長が忠実派として加わり、彼を藤原摂関家の跡継ぎとしたから家庭内はもうぐちゃぐちゃ。朝廷で復権し、藤原家の栄誉を取り戻すはずだったのに、家族内の内部分裂でそれどころの騒ぎではなくなってしまったのです。

「保元の乱」の引き金と武士たちの思惑

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近衛天皇崩御と後白河天皇の即位

鳥羽上皇の崇徳上皇冷遇に藤原家の家族内紛糾。朝廷が熱くなってきましたね。ちょっとでもパワーバランスが崩れたらもう武力闘争とまで発展しそうなこのタイミングで、近衛天皇が崩御してしまいます。そこへ後白河天皇即位で崇徳上皇の鳥羽上皇へのヘイトが高まり、一方、藤原摂関家でも頼長が近衛天皇を呪ったと疑われて朝廷を追われてしまいました(現代と違い、この時代の呪いは立派な犯罪行為にあたります)。

情勢は鳥羽上皇と忠通の優勢にありましたが、近衛天皇崩御から一年後に鳥羽上皇が病気で崩御してしまったのです。すると、宮中で「崇徳上皇が頼長と結託して謀反を企てている」という噂が流れ始めました。崇徳上皇と頼長がそうつもりはなくとも、まことしやかにささやかれるようになった噂にふたりは本当に手を取り合って対抗するしかなくなってしまったのです。

親子で命運を分けた河内源氏

後の源平合戦で主役となる河内源氏。もともとは大阪東部周辺の河内国に拠点を置いていた武士団ですが、「後三年の役」で割を食らった上に一族内の争いで衰退していました。最後に残った源為義は一族復興のため、白河上皇の警護役の北面武士となります。ただし、本人及び郎党の不祥事が相次いだせいで信用を無くし、ついには罷免されました。そこで為義の再雇用先となったのが、藤原忠実と頼長親子です。次男の義賢(木曽義仲の父)と共によく仕え、高評価を得ています。

さて、このとき本来なら長男で為義の後継者となるはずだった義朝(源頼朝の父)が何をしていたのか。彼は為義のいる京都ではなく、単独で関東へ行っていました。そこで独自の支配権を得て、満を持して京都へ帰ってきたのです。そして、鳥羽上皇に接近していきます。けれど、この時父・為義は藤原頼長方。為義と義朝親子の対立は深まり、敵同士になってしまったのでした。

伊勢平氏の台頭と清盛の誕生

伊勢平氏の棟梁・平忠盛もまた北面武士に籍を置いていました。こちらは為義と違って仕事ぶりが白河上皇に評価され、出世街道まっしぐら。その信頼は厚く、白河上皇晩年の寵妃・祇園女御の妹(あるいは祇園女御本人)を下賜されて側室としています。このふたりの間に生まれたのが清盛です。……はい、ここで「アッ」と思い出した方もいるかもしれませんね、白河上皇の女性問題。そういうわけで、清盛もまた白河上皇のご落胤ではないかという噂があったのです。ただし、清盛は噂をものともせず平家の武士として成長します。

忠盛は鳥羽上皇の院政が始まると御所に昇殿を許された殿上人にまで上り詰めました。その息子である清盛も鳥羽上皇から信頼されていましたから、鳥羽上皇崩御後には後白河天皇側についたのです。

しかし、平家一丸になって後白河天皇についたわけではありません。清盛の叔父にあたる平忠正は鳥羽上皇に仕えていましたが、クビにされて以降は官吏の仕事には就けずにいました。そこへ手を差し伸べたのが、やっぱり藤原摂関家の頼長です。兄弟である忠盛とはかなりの差がありますよね。そういうわけで、忠正と忠盛、清盛は早いうちから不仲でしたから、保元の乱で平忠正は頼長側として参戦します。

\次のページで「「保元の乱」開戦とその推移」を解説!/

「保元の乱」開戦とその推移

保元・平治の乱合戦図屏風絵
By ? - 『保元・平治の乱合戦図屏風』 メトロポリタン美術館所蔵(The Battles of Hogen and Heiji), パブリック・ドメイン, Link

陣地の展開と前哨戦の始まり

先述した通り、都ではすでに崇徳上皇と藤原道長が手を組んで謀反を企てているとの噂が囁かれていました。そこへ後白河天皇が先手として「頼長は自分の荘園から兵士を集めてはならない」と勅命を発します。さらに摂関家代々の邸宅である東三条殿を没収。そこに天皇側の兵を置いて本拠地としました。対する崇徳上皇は御所を脱出して妹のいる白河北殿に押し入り、頼長と共に陣を構えます。

現在だと東三条殿は二条城から東の押小路通に入ってしばらく行ったあたり、白河北殿は東丸太町にありました。現在の地図でも徒歩30分とそう遠く離れているわけではありません。

武士の意見を汲むかが戦いを左右する

こうして陣地と人事が互いに揃ったわけですが、崇徳上皇・頼長側は摂関家の私兵がほとんど。片や後白河天皇側は国家を背負っているので兵は潤沢に揃っていました。崇徳上皇側は数の優位が取れていないわけですから、ここは上手く作戦を立てて逆転したいところです。そこで為義の息子・為朝が、夜襲はどうですか?と献策するのですが、頼長が却下してしまいます。というのも、頼長は他人に厳しく、一切の妥協を許さない性格でした。それで「夜襲なんて野蛮だし、若気の至りだ。興福寺から援軍を待って持久戦に持ち込む」と自分の作戦を採用したのです。

一方で、後白河天皇側もこういう状況なら夜襲が有利だと清盛や義朝たちに献策されます。夜襲が採用されると、武士たちはそれぞれ大軍を率いて仕掛けたのです。しかし、為朝の奮戦によって清盛・義朝は攻めあぐね、その結果、白河北殿へ火を放つことになるのでした。

敗者たちへの判決

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守るべき屋敷が焼かれては逃げるほかありません。頼長は脱出しますが、このとき首に矢を受ける重傷を負い、逃げ延びた先で父・忠実に拒絶されて自害します。同じく白川北殿を脱出した崇徳上皇も知足院で出家したあと、仁和寺にいる弟を頼りますが、こちらも断られて捕らえられました。しかし、皇族で元は天皇だった崇徳上皇を処刑することはできませんので、讃岐(現在の香川県)に流罪となります。

崇徳上皇側に与していた貴族や頼長の子どもたちも続々と逮捕され流罪が決まる中、敗軍の武士たちには死罪が与えられたのです。この時代、不殺生を説く仏教が主流で、しかも貴人が非業の死を遂げると怨霊になると固く信じられていましたから、朝廷が死刑判決を下すのは久しぶりでした。そもそも、朝廷内の紛糾を武力闘争で解決しなければならない事態に陥るのが810年の藤原薬子の変(平城太上天皇の変)以来の約350年ぶりなのです。

清盛は不仲だった叔父の忠正を自ら処刑します。そうすると、義朝もまた自らの手で父を処刑せざるを得ません。しかも義朝が助命を訴えた父だけでなく、まだ幼かった弟たちまで手にかけさせられたのでした。ちなみに、この時代の処刑場は六条河原、現在だと五条大橋のあたりになります。

勝者への報酬の差が禍根を残す

さて、戦に勝った後白河天皇サイドですが、まず本拠地としていた東三条殿が藤原忠通に返還されます。同時に彼の関白としての地位は守られました。ですが、頼長が持っていた藤原摂関家の荘園は没収され、それが摂関家を大きく衰退させます。

そして、源義朝は左馬頭に任じられました。簡単に説明すると、朝廷の馬の管理、調教をする左馬寮の長官のことです。一方で、清盛は播磨国(兵庫県南西)の長官につきます。朝廷のものとはいえ馬屋の管理と一国の長官の差は大きく、家族を手にかけてまで後白河天皇に尽くした義朝に大きな禍根を残したのでした。

\次のページで「乱は終結。しかし、新たな火種が」を解説!/

乱は終結。しかし、新たな火種が

敗者は都から去りましたが、後白河天皇はここから清盛を優遇していき、彼はどんどん出世を重ねていきます。しかし、「保元の乱」報酬の差やその後の冷遇がきっかけとなり、やがて清盛対義朝の「平治の乱」へとつながっていくのです。

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平安時代日本史歴史

源平合戦への序章「保元の乱」を源平マニアが5分でわかりやすく解説!

平安時代の終わりを告げる源平合戦の序章「保元の乱」。朝廷内での政治的紛糾がこじれにこじれた末に起こった武力による衝突です。親族が敵味方に入り乱れた争いで、参戦する武士の中には清盛や、頼朝の父親が含まれている。

源平マニアのリリー・リリコと一緒に「保元の乱」について解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。義経をテーマに卒業論文を書いた。

平安時代末期の政治情勢

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藤原摂関家を外戚に持たない天皇の誕生

鎌倉幕府が開かれる前、平安時代の政治と言えば藤原摂関家のイメージが強いですね。この摂関家というのは、摂政と関白を排出する家柄を指します。少し摂政と関白についておさらいすると、「摂政」は幼い天皇や女帝の代わりに政治を行う人のことで、古くは聖徳太子も推古天皇の摂政でした。「関白」は大人の天皇の代わりに政治を執る人のことです。初めての関白となった藤原北家出身の藤原基経も平安時代前期の政治家でした。彼から続く摂関家は平安末期までの間、緩急はあれど常に権勢を振るっています。

さて、そんな摂関家にも栄華の切れ目となる時期が訪れました。11世紀の中盤に即位した第71代後三条天皇は藤原摂関家を外戚に持たない天皇です。藤原氏が外戚でないことで冷遇されますが、父である後冷泉天皇にとうとう藤原氏の血を引く子どもに恵まれなかったために即位することになりました。そうして、即位するや否や反摂関家を掲げる公卿や臣籍降下した源氏の面々を政治の中心に据え、摂関家が独占状態だった朝廷を取り戻します。

さらに、後三条天皇は「延久の荘園整理令」で国務の妨げとなっていた藤原摂関家の違法荘園を整理して経済的ダメージを与えました。続いて、絹や布の品質を統一する「絹布の制」、物価を統制するための「估価法」などを制定し、天皇家の財政を整えていきます。

白河院による摂関家の冷遇

後三条天皇の後を継いだ息子・白河天皇は一応の形で関白は置きますが、彼もまた天皇自ら政治の舵を取る親政を敷き、着々と摂関家の力を削いでいきました。そして、八歳の息子・堀川天皇に譲位すると幼い帝の後見として引き続き政治を引っ張っていきます。これまでの摂政や関白に対して、上皇(引退した天皇)が現役の天皇に代わって政治を執ることを「院政」と呼びました。

白河上皇の権力がさらに増大したのは彼の引退後、孫である鳥羽天皇が四歳で天皇に即位したときです。ちょうどそのころ、摂関家の当主だった藤原師通が亡くなり、跡継ぎの忠実は若く関白になれる資格もありません。息子・堀川天皇もすでに亡く、邪魔者のいなくなった朝廷で白河上皇の院政が続くことになったのです。こうなると白河上皇の独断場で、息子・堀川天皇、孫・鳥羽天皇、ひ孫の崇徳天皇の三代に渡って院政を敷き、摂関家を退けたのでした。

徹底的に実権を持たせてもらえなかった崇徳天皇

白河上皇の崩御時、天皇の座に就いていたのは十歳の崇徳天皇です。幼い彼に代わって政治を執り、院政を行ったのは父である鳥羽上皇でした。崇徳天皇が子どもであるうちはそれでよかったのですが、大人になれば自ら親政を敷きたいと思うのは当たり前ですよね。しかし、院政は引退した上皇が行うものですから、現役のままでは政に触れさせてもらえません。まったく手を出せないうちに退位を迫られ、天皇の座は異母弟の近衛天皇へと譲位させられてしまいます。院政は普通、天皇の親である上皇が行うものでしたから、弟の近衛天皇が相手では崇徳上皇に院政は行えません。鳥羽上皇が院政を続け、崇徳上皇は一切の実権を与えられませんでした。

体の弱かった近衛天皇が崩御した後も次代の天皇は崇徳上皇の息子ではなく、29歳の後白河天皇が即位します。後白河天皇もまた崇徳上皇の弟です。しかも、後白河天皇の次はその息子・守仁親王と決まっていたので、これで崇徳上皇の院政は決定的に不可能となりました

本当に我が子か?亡き白河上皇の女性問題

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どうして鳥羽上皇はここまで崇徳上皇を政治の場から排除したのか?その背景には白河法皇の女性問題がありました。

白河上皇の皇后は藤原賢子で、夫婦中はとても仲睦まじかったといいます。ところが、皇后・賢子が若いうちに亡くなってしまうと、その反動からでしょうか、白河上皇は誰彼構わず関係を持つようになってしまいました。

そんな状況下にもかかわらず、白河上皇はひとりの少女を養育していました。それが後に鳥羽上皇の中宮となる藤原璋子です。鳥羽上皇と璋子の間には崇徳上皇をはじめ後白河法皇など七人の子どもに恵まれていますが、鳥羽上皇は長子だった崇徳上皇は璋子と白河上皇の子ではないかと疑っていました。メロドラマかとつっこみを入れたいところですが、それを肯定するように、白河上皇の死後、璋子は宮中での権勢を失い、崇徳上皇も退位させられてしまうのでした。

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