今回は、幕末の尾張藩主の徳川慶勝を取り上げるぞ。慶勝は徳川家の御三家でありながら、最終的に官軍になったのです。

その辺のところを昔から高須4兄弟に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新にも興味津々。松平容保から始まって高須兄弟について調べまくり、容保兄の尾張藩主徳川慶勝について5分でわかるようにまとめてみた。

1、慶勝は尾張藩の支流高須家の生まれ

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By 不明。 - 徳川林政史研究所所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

徳川慶勝は、文政7年3月15日(1824年4月14日)江戸四谷の高須藩邸で誕生。尾張藩支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたけ)の次男(長男は夭折)で、母は正室規姫(かねひめ)です。
幼名は秀之助、元服して松平義恕(よしくみ)、尾張藩主13代目の徳川 慶臧(よしつぐ)が亡くなった後に尾張徳川家を相続、13代将軍徳川家慶より偏諱をもらって、徳川慶恕(よしくみ)と名乗り、のちに慶勝と改名。
尚、母の規姫は7代目水戸藩主徳川治紀(はるのり)の娘、8代斉昭の妹なので、徳川慶喜は母方の従弟になります。

1-1、高須家は尾張徳川家の分家筋

尾張徳川家の藩祖は家康の9男義直で、御三家筆頭の家柄。
石高は61万9500石ですが、新田開発などが行われたので実質100万石といわれています。
御三家は宗家に後継ぎがなくなった場合、将軍家を継ぐ存在で、7代将軍家継没後、紀州家から吉宗が8代将軍に。その頃の尾張家はなぜか若死が相次ぎ、また「尾張家は将軍位を争うべからず」という義直以来の家訓があったせいもあって宗家を継げず、そして吉宗が将軍になった後は御三卿が出来たので、尾張家からは将軍はついに出ず仕舞い。

また、高須家は、尾張家3代目綱誠(つななり)のときに創設された分家のひとつ。
綱誠の異母兄松平義昌が陸奥梁川藩3万石の「大久保松平家」、綱誠の同母弟松平義行が美濃高須藩3万石の「四谷松平家」、そして綱誠の異母弟松平友著は尾張藩内での家禄をもらって「川田久保松平家」の、3つの御連枝の分家が。
こちらは尾張家に後継ぎがない場合に継ぐことになっていました。

1-2、尾張藩は将軍家斉の養子が相次いでいた

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尾張藩では10代斉朝(なりとも)、11代斉温(なりはる)、12代斉荘(なりたか)、13代慶臧(よしつぐ)と4代続いて将軍家斉の息子や御三卿の田安家などからの養子が続き、どの藩主も長生きせず若死。体が弱かったのか、11代斉温などは、一度も尾張に入国せず江戸暮らしだったせいで、尾張藩士の藩主に対する気持ちが離れそうに。
そして下級藩士が主な金鉄党などで養子反対派が結成され、支藩の連枝である慶勝の藩主継承が強く望まれていたほど。慶勝の擁立は、12代、13代のときも切望されたのに、将軍家からの養子が尾張家継承、そして嘉永2年(1849年)に13代慶臧が若くして死去し、やっと慶勝が14代藩主に。

11代家斉は50数人の子持ちで、幕府はこの子たちの養子先を探すのに大変だったということなので、尾張家も押し付けられていたのでしょうね。

2、慶勝が29歳のときに、黒船が来航

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され開港を迫られ、翌年、再来航したペリーと幕府は日米和親条約締結、下田と函館の開港、下田にアメリカの領事館をおくことに。そして1858年に日米修好通商条約が締結され、函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港を新たに開き、アメリカの領事裁判権を認め、日本には関税自主権が無く、片務的最恵国待遇という不平等条約だったことで問題に。

2-1、慶勝、藩政改革を行い、井伊直弼に抗議して安政の大獄で隠居謹慎に

慶勝が尾張家を継いだ時は25歳で、藩祖義直の遺命の「王命によって催さるる事」を奉じて尊皇攘夷を主張、内政では倹約政策を主とした藩政改革を決行。また、安政5年(1858年)大老井伊直弼がアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は母の兄で水戸徳川家の徳川斉昭らとともに、江戸城へ不時登城するなどして井伊直弼に抗議。しかし安政の大獄で井伊大老の反対派に対する弾圧が始まって、慶勝も斉昭や松平春嶽らと共に、隠居謹慎の処罰を受けて、尾張家は慶勝の弟の茂徳が15代藩主に。

\次のページで「2-2、慶勝、写真術に興味を持ち写真オタクに」を解説!/

安政の大獄(あんせいのたいごく)
安政5年(1858年)翌年にかけて、江戸幕府が行なった弾圧事件のこと。大老井伊直弼や老中間部詮勝らは、天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印、13代家定将軍の後継を徳川家茂に決定したのですが、これらの諸策に反対する者たちを弾圧。投獄、切腹などから大名らも閉門蟄居とされたのは、尊皇攘夷派、一橋慶喜擁立派の大名、公卿で、梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰らの志士は斬刑に。名目上は将軍家定の命令となっていましたが、実際には大老井伊直弼の独断専行でありました。

2-2、慶勝、写真術に興味を持ち写真オタクに

閉門蟄居に処せられた慶勝は屋敷の中で暇を持て余したのか、この頃から、なんと写真術に興味を持ち、たくさんの写真を撮影しているのですね。
この頃は銀板写真というもので、撮影するのに数分、現像なども薬品を調合して自分で行うという手間のかかるものでしたが、その後も写真撮影を続けた慶勝は、明治3年(1870年)に取り壊された名古屋城二の丸御殿や広島城下や、自分の写真、娘の写真、それに家臣、庶民の写真など1000点もの貴重な写真記録を残しています

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高須4兄弟とは
慶勝は尾張支藩の高須家の出身。男兄弟は10人(うち4人夭折)弟たちはすべて大名家に養子に行き、3男が浜田藩越智松平武成(23歳で早世)、5男茂栄、高須藩主時代は義比(よしちか)と名乗り、尾張藩主は茂徳(もちのり)そして一橋徳川家を継いで茂栄(もちはる)と名乗りを変える、7男が会津藩主で京都守護職の松平容保(かたもり)、8男が桑名藩主で京都所司代の久松松平定敬(さだたか)、10男が 高須藩主松平義勇(よしたけ)は病弱で表面に出ず。
慶勝、茂栄、容保、定敬が幕末に活躍したことで、高須4兄弟と呼ばれています。ちなみに慶勝と容保は12歳、定敬とは34歳の年の差兄弟。

\次のページで「2-3、井伊直弼暗殺後、慶勝、政界に復帰、」を解説!/

2-3、井伊直弼暗殺後、慶勝、政界に復帰、

安政7年(1860年)に井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、文久2年(1862年)に許されて政界復帰。その年に上洛して将軍徳川家茂の補佐となりました。文久3年(1863年)、弟の尾張藩主茂徳が隠居して、慶勝の実子元千代(義宜)が16代藩主となったので、慶勝は後見役として尾張藩の実権も握りました。

3、慶勝、度々上洛して中央政治にかかわる

この頃は幕末の動乱真っただ中で、京都が政治の中心地になっていました。
慶勝も弟の会津藩主松平容保が京都守護職に、もう一人の弟桑名藩主松平定敬が京都所司代に任じられていたこともあってか、京都で活動していました。

3-1、参預会議への参加は辞退、しかし京都の激動の真っただ中に

京都では文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変が起こり、京から長州藩及び尊攘派の公卿ら(七卿落ち)が追放。慶勝は翌元治元年(1864年)に雄藩の最高権力者で構成される参預会議への参加を命じられるが辞退。
尚、参預会議は、公武合体派の島津久光(薩摩藩主の父)、松平春嶽(前福井藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)、一橋慶喜、山内容堂(前土佐藩主)、松平容保がメンバーに任命され、長州藩の処分と横浜港の鎖港が議題でしたが、これを機に主導権を握ろうとする薩摩藩と幕府の一橋慶喜の思惑の違いが表面化して対立、1864年(元治元年)2月に山内容堂が帰国し、3月には残ったメンバー全員も辞表を提出し瓦解。
この年の7月には池田屋事件が発生し、新選組の襲撃で多数の藩士を殺されたことに憤慨した長州藩が、京都の軍事的奪回を試みたことで、禁門の変(蛤御門の変)が勃発。

3-2、慶勝、長州征伐で征討軍総督に

長州藩が蛤御門の変(禁門の変)を起こしたあと長州藩は朝敵となり、幕府が第一次長州征討を行うことに。慶勝は征討軍総督に任命されて、薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)を大参謀として出征。この第一次長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取って京へ凱旋。

その後、長州藩は再び勤王派が主導権を握ったので幕府では第二次長州征討が決定。しかし慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否して、上洛して御所警衛の任を務めました。

3-3、慶勝、新政府の議定として小御所会議の決定を慶喜に通告

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慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、土佐藩の勧めで15代将軍徳川慶喜は大政奉還。慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、12月9日(1868年1月3日)の小御所会議で慶喜に辞官納地を催告することが決定し、慶勝が通告役に。

3-4、慶勝、鳥羽伏見の戦い後、慶喜が逃亡した大坂城を新政府軍代表として受け取りに

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翌年の慶応4年1月3日(1月27日)には、京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽・伏見の戦いが勃発。慶喜は明日は決戦と言い置き、夜半に紛れて松平容保、松平定敬、老中板倉勝静、老中酒井忠惇を連れて軍艦開陽丸で大坂から江戸へ逃亡。勝海舟に跡を任せて寛永寺にこもって謹慎。慶勝は新政府を代表し、大坂城を受け取る役に。

\次のページで「3-5、慶勝、尾張の佐幕派を粛清」を解説!/

3-5、慶勝、尾張の佐幕派を粛清

慶勝は、尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、1月20日(2月13日)に尾張へ戻り、藩内の佐幕派を弾圧(青松葉事件)。そして慶勝は、尾張から江戸までの間に所在する大名や寺社仏閣などに、新政府側に付くよう使者を送って説得、500近くの誓約書を取り付けたおかげもあり、青松葉事件が伝わったせいもあってか、官軍は抵抗を受けずに江戸に到達できました。そして江戸城無血開城。

青松葉事件(あおまつばじけん)

慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて起こった尾張藩佐幕派への弾圧事件。慶勝は、京都で大政奉還後の政治的処理を行っていたが、家臣からの知らせを受け、朝廷からは「姦徒誅鋤」の勅命が出たため急遽尾張藩に戻った直後に佐幕派の弾圧を命令。重臣から一般藩士にまで、斬首14名、処罰20名に。勅命が下った背景については諸説あり。

尾張家には付け家老の成瀬家(尊王攘夷派の金鉄組)と竹腰家(佐幕派のふいご組)に分かれていたが、大政奉還後に鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北した一報が名古屋に届くと、京都に派兵するかどうかで、金鉄組とふいご党との対立が深刻化。京都にいた慶勝はこのことを監察吉田知行から情勢を聞いたのですね。

ちょうどこのときは、官軍が将軍慶喜追討令を出して錦の御旗を立てて東海道を江戸へ下る直前、名古屋以東には幕府の譜代大名が多く、江戸での反撃も考慮していた朝廷は、慶勝を呼び出して尾張藩内の佐幕派勢力を粛清したうえで、近隣の大名を朝廷側につくよう説得するようにと帰国を命じたわけです。

慶勝は早くから勤皇派、しかし徳川御三家筆頭として幕府に配慮する立場もあったのですが、勅命には抵抗できず苦悩した末に佐幕派の弾圧を決意したということで、家老の渡辺新左衛門在綱は慶勝を名古屋城内で出迎えたところを逮捕、斬首され、更に大御番頭の榊原勘解由正帰、大御番頭格の石川内蔵允照英ら13名が逮捕、切腹または斬首に。殺害の際には、理由の説明などはなく、また14人の家族は住居・食禄召し上げに。

慶勝は勅命があったことを隠して尾張藩の内紛として事件を処理し藩士に口止めまで。尚、慶勝は日記を書いていましたが、この時期の日記は破棄され、焼却されているそう。

3-6、慶勝、家臣たちを北海道八雲開拓へ

その後、朝廷は青松葉事件の行き過ぎを反省し、明治3年に大赦を発令、渡辺新左衛門ら14人の名誉を回復、家族に食禄を戻し、成瀬家、竹腰家はともに大名として認められたのですが、尾張藩では混乱し「尊い血を流した青松葉事件は何だったのか」との声が高まり、当時京都の慶勝に情報を伝えた吉田監物らに対する批判も再燃したのですね。

そこで慶勝は吉田らに危害が及ぶのを防ぐために、明治4年の廃藩置県で年貢制度で生活してきた士族の授産のために、北海道開拓を提案して、吉田を北海道の現地調査へ赴かせ、明治11年(1878年)、吉田ら先遣隊9人は遊楽部川(八雲町)の河口あたりに入植、八雲開拓に着手することに。八雲の町名は慶勝が、豊かで平和な理想郷建設を願って日本最古の和歌であるスサノオノミコトの「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から命名。

慶勝はその後も毎年八雲に多額の寄付を続け開拓を支援、亡くなった後は八雲神社に祀られています。

4、明治後の慶勝

その後の慶勝は、一橋家当主となっていた弟の茂徳に手紙を送り、会津戦争後の弟容保、定敬の助命嘆願にあたらせました。
閏4月21日(6月11日)に議定を免ぜられ、その後政界とは関わらず、しかし明治8年(1875年)、息子義宜(よしのり)が18歳で病死、慶勝が再び尾張家当主に。明治13年(1880年)家督を養子の義礼(よしあきら)に譲り隠居。
明治16年(1883年)に死去、享年60歳。

4-1、慶勝の孫たちは昭和の皇室にも

慶勝の正室は陸奥二本松藩藩主丹羽長富の娘矩姫(かねひめ)側室は4人で2男4女が成人。

3男徳川義宜(尾張藩16代藩主)、3女道姫(松平義生室)、4女登代姫(徳川義礼室)、5女良姫(徳川義礼後室)、6女富姫毛利元昭室、後戸田康泰と再婚

また、慶勝と同じ名の11男徳川義恕(よしくみ)は、尾張徳川家分家祖となり男爵に、そして津軽藩12代藩主津軽承昭(つぐあきら)の娘・寛子(のりこ)と結婚、4男2女(長女は夭折)が生まれました。

長男は昭和天皇の侍従長徳川義寛

次男は外祖父の養子津軽英麿(ふさまろ)の養子となり津軽義孝(よしたか)で、常陸宮華子妃殿下の父。

2女祥子(さちこ)は北白川宮永久王妃となり、皇籍離脱後1969年から昭和天皇の香淳皇后の女官長・皇太后宮女官長を務め、三島由紀夫の長篇小説「春の雪」の伯爵令嬢綾倉聰子のモデル。

4男徳川義恭(よしやす)は、三島由紀夫の処女作品集「花ざかりの森」の装幀を担当し、三島の親友だったが28歳で死去。

慶勝は明治維新の陰の功労者として注目されるべき存在かも

徳川慶勝は、キラ星のような人材が輩出した幕末明治維新の時代に、あまり目立ってはいないけれど縁の下の力持ちのような仕事をしました。山内容堂や親しかった松平春嶽、伊達宗城、島津斉彬の四賢侯にも入っていないし、弟松平容保のような悲劇の主人公のような派手な存在ではありませんが、長州征伐をゆっくりと行軍し長州の恭順を取り付けたり、錦の御旗を立てた官軍のために、自藩の佐幕派を制圧するという犠牲を出し、東海道沿いの譜代藩に新政府に付くよう説得し誓約書を取り付けたおかげで、無事江戸まで抵抗なく行きつけたのは慶勝の功績でしょう。また慶勝の残した写真が貴重な文化遺産となっているのも見逃せないことです。まさに明治維新の陰の功労者として見直されるべき人だと思います。

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幕末日本史歴史江戸時代

激動の時代の尾張藩主「徳川慶勝」ー江戸城無血開城の陰の立役者を歴女がわかりやすく解説

今回は、幕末の尾張藩主の徳川慶勝を取り上げるぞ。慶勝は徳川家の御三家でありながら、最終的に官軍になったのです。

その辺のところを昔から高須4兄弟に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新にも興味津々。松平容保から始まって高須兄弟について調べまくり、容保兄の尾張藩主徳川慶勝について5分でわかるようにまとめてみた。

1、慶勝は尾張藩の支流高須家の生まれ

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By 不明。 – 徳川林政史研究所所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link

徳川慶勝は、文政7年3月15日(1824年4月14日)江戸四谷の高須藩邸で誕生。尾張藩支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたけ)の次男(長男は夭折)で、母は正室規姫(かねひめ)です。
幼名は秀之助、元服して松平義恕(よしくみ)、尾張藩主13代目の徳川 慶臧(よしつぐ)が亡くなった後に尾張徳川家を相続、13代将軍徳川家慶より偏諱をもらって、徳川慶恕(よしくみ)と名乗り、のちに慶勝と改名。
尚、母の規姫は7代目水戸藩主徳川治紀(はるのり)の娘、8代斉昭の妹なので、徳川慶喜は母方の従弟になります。

1-1、高須家は尾張徳川家の分家筋

尾張徳川家の藩祖は家康の9男義直で、御三家筆頭の家柄。
石高は61万9500石ですが、新田開発などが行われたので実質100万石といわれています。
御三家は宗家に後継ぎがなくなった場合、将軍家を継ぐ存在で、7代将軍家継没後、紀州家から吉宗が8代将軍に。その頃の尾張家はなぜか若死が相次ぎ、また「尾張家は将軍位を争うべからず」という義直以来の家訓があったせいもあって宗家を継げず、そして吉宗が将軍になった後は御三卿が出来たので、尾張家からは将軍はついに出ず仕舞い。

また、高須家は、尾張家3代目綱誠(つななり)のときに創設された分家のひとつ。
綱誠の異母兄松平義昌が陸奥梁川藩3万石の「大久保松平家」、綱誠の同母弟松平義行が美濃高須藩3万石の「四谷松平家」、そして綱誠の異母弟松平友著は尾張藩内での家禄をもらって「川田久保松平家」の、3つの御連枝の分家が。
こちらは尾張家に後継ぎがない場合に継ぐことになっていました。

1-2、尾張藩は将軍家斉の養子が相次いでいた

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尾張藩では10代斉朝(なりとも)、11代斉温(なりはる)、12代斉荘(なりたか)、13代慶臧(よしつぐ)と4代続いて将軍家斉の息子や御三卿の田安家などからの養子が続き、どの藩主も長生きせず若死。体が弱かったのか、11代斉温などは、一度も尾張に入国せず江戸暮らしだったせいで、尾張藩士の藩主に対する気持ちが離れそうに。
そして下級藩士が主な金鉄党などで養子反対派が結成され、支藩の連枝である慶勝の藩主継承が強く望まれていたほど。慶勝の擁立は、12代、13代のときも切望されたのに、将軍家からの養子が尾張家継承、そして嘉永2年(1849年)に13代慶臧が若くして死去し、やっと慶勝が14代藩主に。

11代家斉は50数人の子持ちで、幕府はこの子たちの養子先を探すのに大変だったということなので、尾張家も押し付けられていたのでしょうね。

2、慶勝が29歳のときに、黒船が来航

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され開港を迫られ、翌年、再来航したペリーと幕府は日米和親条約締結、下田と函館の開港、下田にアメリカの領事館をおくことに。そして1858年に日米修好通商条約が締結され、函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港を新たに開き、アメリカの領事裁判権を認め、日本には関税自主権が無く、片務的最恵国待遇という不平等条約だったことで問題に。

2-1、慶勝、藩政改革を行い、井伊直弼に抗議して安政の大獄で隠居謹慎に

慶勝が尾張家を継いだ時は25歳で、藩祖義直の遺命の「王命によって催さるる事」を奉じて尊皇攘夷を主張、内政では倹約政策を主とした藩政改革を決行。また、安政5年(1858年)大老井伊直弼がアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は母の兄で水戸徳川家の徳川斉昭らとともに、江戸城へ不時登城するなどして井伊直弼に抗議。しかし安政の大獄で井伊大老の反対派に対する弾圧が始まって、慶勝も斉昭や松平春嶽らと共に、隠居謹慎の処罰を受けて、尾張家は慶勝の弟の茂徳が15代藩主に。

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