
その辺のところを昔から高須4兄弟に興味を持っていたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1、慶勝は尾張藩の支流高須家の生まれ
- 1-1、高須家は尾張徳川家の分家筋
- 1-2、尾張藩は将軍家斉の養子が相次いでいた
- 2、慶勝が29歳のときに、黒船が来航
- 2-1、慶勝、藩政改革を行い、井伊直弼に抗議して安政の大獄で隠居謹慎に
- 2-2、慶勝、写真術に興味を持ち写真オタクに
- 2-3、井伊直弼暗殺後、慶勝、政界に復帰、
- 3、慶勝、度々上洛して中央政治にかかわる
- 3-1、参預会議への参加は辞退、しかし京都の激動の真っただ中に
- 3-2、慶勝、長州征伐で征討軍総督に
- 3-3、慶勝、新政府の議定として小御所会議の決定を慶喜に通告
- 3-4、慶勝、鳥羽伏見の戦い後、慶喜が逃亡した大坂城を新政府軍代表として受け取りに
- 3-5、慶勝、尾張の佐幕派を粛清
- 3-6、慶勝、家臣たちを北海道八雲開拓へ
- 4、明治後の慶勝
- 4-1、慶勝の孫たちは昭和の皇室にも
- 慶勝は明治維新の陰の功労者として注目されるべき存在かも
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。幕末、明治維新にも興味津々。松平容保から始まって高須兄弟について調べまくり、容保兄の尾張藩主徳川慶勝について5分でわかるようにまとめてみた。
1、慶勝は尾張藩の支流高須家の生まれ
By 不明。 – 徳川林政史研究所所蔵品。, パブリック・ドメイン, Link
徳川慶勝は、文政7年3月15日(1824年4月14日)江戸四谷の高須藩邸で誕生。尾張藩支藩の美濃高須藩主松平義建(よしたけ)の次男(長男は夭折)で、母は正室規姫(かねひめ)です。
幼名は秀之助、元服して松平義恕(よしくみ)、尾張藩主13代目の徳川 慶臧(よしつぐ)が亡くなった後に尾張徳川家を相続、13代将軍徳川家慶より偏諱をもらって、徳川慶恕(よしくみ)と名乗り、のちに慶勝と改名。
尚、母の規姫は7代目水戸藩主徳川治紀(はるのり)の娘、8代斉昭の妹なので、徳川慶喜は母方の従弟になります。
1-1、高須家は尾張徳川家の分家筋
尾張徳川家の藩祖は家康の9男義直で、御三家筆頭の家柄。
石高は61万9500石ですが、新田開発などが行われたので実質100万石といわれています。
御三家は宗家に後継ぎがなくなった場合、将軍家を継ぐ存在で、7代将軍家継没後、紀州家から吉宗が8代将軍に。その頃の尾張家はなぜか若死が相次ぎ、また「尾張家は将軍位を争うべからず」という義直以来の家訓があったせいもあって宗家を継げず、そして吉宗が将軍になった後は御三卿が出来たので、尾張家からは将軍はついに出ず仕舞い。
また、高須家は、尾張家3代目綱誠(つななり)のときに創設された分家のひとつ。
綱誠の異母兄松平義昌が陸奥梁川藩3万石の「大久保松平家」、綱誠の同母弟松平義行が美濃高須藩3万石の「四谷松平家」、そして綱誠の異母弟松平友著は尾張藩内での家禄をもらって「川田久保松平家」の、3つの御連枝の分家が。
こちらは尾張家に後継ぎがない場合に継ぐことになっていました。
1-2、尾張藩は将軍家斉の養子が相次いでいた

尾張藩では10代斉朝(なりとも)、11代斉温(なりはる)、12代斉荘(なりたか)、13代慶臧(よしつぐ)と4代続いて将軍家斉の息子や御三卿の田安家などからの養子が続き、どの藩主も長生きせず若死。体が弱かったのか、11代斉温などは、一度も尾張に入国せず江戸暮らしだったせいで、尾張藩士の藩主に対する気持ちが離れそうに。
そして下級藩士が主な金鉄党などで養子反対派が結成され、支藩の連枝である慶勝の藩主継承が強く望まれていたほど。慶勝の擁立は、12代、13代のときも切望されたのに、将軍家からの養子が尾張家継承、そして嘉永2年(1849年)に13代慶臧が若くして死去し、やっと慶勝が14代藩主に。
11代家斉は50数人の子持ちで、幕府はこの子たちの養子先を探すのに大変だったということなので、尾張家も押し付けられていたのでしょうね。
2、慶勝が29歳のときに、黒船が来航
嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され開港を迫られ、翌年、再来航したペリーと幕府は日米和親条約締結、下田と函館の開港、下田にアメリカの領事館をおくことに。そして1858年に日米修好通商条約が締結され、函館、新潟、神奈川(横浜)、兵庫(神戸)、長崎の5港を新たに開き、アメリカの領事裁判権を認め、日本には関税自主権が無く、片務的最恵国待遇という不平等条約だったことで問題に。
2-1、慶勝、藩政改革を行い、井伊直弼に抗議して安政の大獄で隠居謹慎に
慶勝が尾張家を継いだ時は25歳で、藩祖義直の遺命の「王命によって催さるる事」を奉じて尊皇攘夷を主張、内政では倹約政策を主とした藩政改革を決行。また、安政5年(1858年)大老井伊直弼がアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は母の兄で水戸徳川家の徳川斉昭らとともに、江戸城へ不時登城するなどして井伊直弼に抗議。しかし安政の大獄で井伊大老の反対派に対する弾圧が始まって、慶勝も斉昭や松平春嶽らと共に、隠居謹慎の処罰を受けて、尾張家は慶勝の弟の茂徳が15代藩主に。
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