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明治政府の内閣顧問にも就任!政治家「島津久光」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

島津久光 晩年の過ごし方

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隠居生活後も明治政府に反発

鹿児島へと帰郷した島津久光は隠居生活を過ごし、島津家に伝わっていた史書の整理・加筆などをして書物としてまとめていたそうです。また明治政府に対しては依然反対の姿勢を取り続け、例えば廃刀令への反発として帯刀・和装を止めることはありませんでした

1877年には明治政府に反発する士族が西郷隆盛をリーダーとして西南戦争を引き起こしますが、ただ島津久光はこれに一切関わらず、戦地に赴くどころか戦火を避けるために桜島に一時避難を行っています。島津久光の動向を案じた明治政府に対しても、中立の立場にあることを表明しました。

ちなみに西南戦争とは日本国内における最後の内戦として歴史に残っており、明治初期に起こった最大規模の士族反乱です。島津久光と仲が悪かった西郷隆盛はこの西南戦争において死亡、最終的には明治政府が戦争に勝利する結果となりました。

島津久光の死去

国学が好きだった島津久光らしく、史書の整理や加筆などで晩年を過ごしてきましたが、1887年に71歳で死去します。明治維新の功労者である島津久光は国葬で送られましたが、この国葬は東京ではなく故郷の鹿児島で行われ、道路整備など大掛かりなものになりました。

明治政府の政治を最後まで批判し続けた島津久光からは頑固さが伺えますが、「世間では島津公を頑固の人のように云うて居るが、決してそうでない」という伊藤博文の言葉が残されています。島津久光は「己れは攘夷などと云う事はせぬ。それは西郷などが言うことだ」と言ったとのことです。

島津久光の墓所は鹿児島県鹿児島市の島津家墓地であり、鹿児島市照国町鎮座の照国神社には彼の銅像があります。倒幕後は明治政府の政治政策を批判し続けた島津久光でしたが、西南戦争には関わることなく静かにその余生を過ごしたのでした。

ポイントを絞るよりも一生の流れを追っていく

島津久光は政治家ですが、彼が中心となって行った政治政策はほとんどありません。ですから覚える上では漠然としすぎており、ポイントが絞りづらいでしょう。そこで、彼の場合はポイントを絞るよりも一生の流れを覚えた方が良いですね。

例えば文久の改革では、その後に偶然にも生麦事件が起こり、その生麦事件が薩英戦争の原因になっています。このように、一生の流れを追ってその過程で起こった事件や出来事を覚える……この勉強方法がベストでしょう。

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