
公武合体の理想の断念
参与会議における政治的対立の原因は横浜鎖港をめぐる問題で、鎖港を支持する者と支持しない者とで真っ二つに意見が分かれてしまったのです。最終的には幕府の鎖港方針に合意という形で落ち着いたものの、対立によって生まれた不和は解消されず、そのため参預会議は機能不全となった解体する結果となりました。
参預会議の解体は公武合体を不可能とするに等しく、島津斉彬の遺志を継ごうとする島津久光にとって痛恨の挫折です。このため島津久光は参預を辞任、小松帯刀や西郷隆盛らに後を託すと京都を去っていきました。そして1867年、島津久光は4回目の上京をすると今度は松平春嶽らとともに四侯会議を開きます。
しかし、様々な問題について四侯連携のもとで将軍・徳川慶喜と協議することを確認するものの、その結果はいずれも徳川慶喜の意向が強く反映されるものになりました。この結果を受けて島津久光は徳川慶喜との政治的妥協を断念、つまり公武合体の考えを完全に捨て去ることにしたのです。
明治政府に対する批判
島津久光の意思により、薩摩藩は公武合体から武力倒幕路線へと考えを変えます。1867年に島津久光へ討幕の密勅……すなわち徳川慶喜討伐の詔書(天皇の命令を伝えた公文書)が下されますが、同日に徳川慶喜が大政奉還を行ったことで武力倒幕は一旦延期となりました。
しかし、その後の王政復古の大号令や戊辰戦争の勃発によって江戸幕府は滅亡、明治政府による新政治が始まります。この明治維新後、島津久光は依然薩摩藩において権力を維持していましたが、明治政府が進める政治改革に対しては批判的な立場をとるようになるのです。
明治政府は、全国の大名が持つ土地と人民を天皇に返還するための廃藩置県を西郷隆盛らと行いますが、島津久光はこれに激怒します。そして、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせました。廃藩置県に対して旧大名で反対の意を示したのは、島津久光だけだったとされています。
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明治政府の意思決定から排除
明治政府の政治政策に反発する島津久光でしたが、明治政府は彼を敵と考えていたわけではありません。それどころか倒幕の功労者である島津久光に政治政策を理解してもらおうと何度も重ねて上京を依頼するほどでした。実際、上京後の島津久光は内閣顧問に任じられています。
最も、明治政府に反発していたのは島津久光だけではなく、1874年には明治政府に対する士族反乱である佐賀の乱も起こりました。島津久光と仲が悪かった西郷隆盛も征韓論で明治政府と対立、結果西郷隆盛は辞職しており、島津久光は西郷隆盛を慰める目的で鹿児島へと帰郷しています。
その後は左大臣にも就任した島津久光でしたが、新政策ではなく旧習復帰の建白を行うなど、明治政府も手を焼く存在となってしまうのです。このため島津久光は明治政府の意思決定から実質的に排除され、間もなくして左大臣を辞任、鹿児島へと帰郷していきました。
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