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明治政府の内閣顧問にも就任!政治家「島津久光」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

国父と称されて藩の政権を掌握

1858年、島津斉興の後を継いだ島津斉彬が死去すると、島津久光の長男である島津忠義が薩摩藩第12代藩主に就任します。これは島津斉彬の遺言に従ったもので、島津久光もまた藩主の父という肩書きによって薩摩藩内に大きな政治的影響力をもたらすようになりました。

これで島津久光は宗家に復帰、国父と呼ばれるようになって藩の政権を握ります。そして勢力拡大の過程で精忠組のメンバーを登用しますが、ただその中心である西郷隆盛とは反りが合わず、島津久光と西郷隆盛は不仲だったようです。西郷隆盛が島流しの処罰を受けたことは有名ですが、この処分を下したのは島津久光でした。

さて、藩の政権を握った島津久光は、今度は中央政局への参加を考えます。そのために精忠組から大久保利通を抜擢すると、1862年には西郷隆盛に先発を命じて兵を率いて上京したのです。西郷隆盛が島流しの処罰を受けたのは、この時に独断で京都を目指そうとしたためでした。

文久の改革、生麦事件、薩英戦争

亡き島津斉彬の後を継いで公武合体を理想とする島津久光、公武合体の「公」とは朝廷、「武」とは幕府を示しており、つまり公武合体とは朝廷と幕府が協力して日本の政治を動かそうという考えです。そのため島津久光は勅使・大原重徳に仕えて江戸に赴き、徳川慶喜の将軍後見職に就任するなどの幕政改革に力を費やしました。

さらに、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の政事総裁職の就任の実現など、江戸幕府において一連の人事・職制・諸制度の改革を率先して行っており、これが1862年の文久の改革です。こうして勅使東下の目的を達成して江戸を出発、帰京しようとする島津久光でしたが、帰京の途中にある大きな事件が起こります。

帰京途中の武蔵国橘樹郡生麦村にて島津久光一行の行列が4名のイギリス人と遭遇、このイギリス人達が通行を妨害したとして島津久光の随伴が攻撃を仕掛けてイギリス人達を殺傷したのです。これが1862年の生麦事件であり、この事件の処理が問題となって翌1863年に薩摩藩とイギリスによる薩英戦争が起こりました。

島津久光 公武合体の理想の挫折

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参預会議で生じた対立

1863年に再び上京する島津久光でしたが、これは成果を得られず、長州藩を後ろ盾につけた尊攘派の好き勝手な振る舞いを制することができずにわずか数日の滞在で帰藩することになりました。ただ、帰藩した後も尊攘派と対立する中川宮や近衛忠煕・忠房父子、さらには孝明天皇からも上京の要請を受けます。

長州藩で暴れる勢力を京都から追放するために薩摩藩は会津藩と画策、天皇の支持を得て決行した八月十八日の政変が成功すると、島津久光は3回目となる上京を果たしました。 そして島津久光の意見が認められ、朝廷会議に有力諸侯が参加することが決定したのです

徳川慶喜や松平春嶽らが朝廷会議への出席を命じられ、ここに薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議(朝廷の任命による数人の有力な大名経験者から構成された合議制会議)が成立しました。島津久光の目指した公武合体は実現間近に思われましたが、この参加者達の間で政治的な対立が生じます。

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