今日は島津久光について勉強していきます。島津久光は日本の政治家であり、幕末から明治時代にかけて活躍した人物です。最も、「島津」と聞くとあの西郷隆盛を育てた島津斉彬を想像する人が多いでしょう。

しかし、島津久光も歴史に名を残した決して無視できない人物です。島津斉彬は島津久光の異母兄にあたる上、彼は公武合体運動を推進して明治政府の内閣顧問まで務めており、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から島津久光をわかりやすくまとめた。

島津久光 誕生とお由羅騒動

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島津久光の誕生

島津久光は1817年、薩摩国鹿児島郡にて薩摩藩第10代藩主・島津斉興(しまづなりおき)の元に生まれます。母は側室のお由羅の方で、島津久光の幼名は普之進(かねのしん)でした。母の身分の低さから、養子となって公子(藩主の子)の待遇を受けますが、後に島津宗家に復帰するとその機会に名を又次郎へと改称しています。

さて、藩主の子である島津久光は父・島津斉興の死後にその後を継いで藩主になることを想像しますが、ここで歴史に残るほどお家騒動が起こり、それがいわゆるお由羅騒動と呼ばれる事件でした。そして、このお由羅騒動において島津久光の異母兄・島津斉彬も関わってきます。

島津久光は藩主の子とは言え、母・お由羅の方は側室です。一方、異母兄となる島津斉彬の母・弥姫は正室ですから、本来なら正室の子である島津斉彬が次期藩主となるのが順当な流れでした。しかし、正室・弥姫の死去によって状況が変わります。

お由羅の方騒動とその結末

正室・弥姫の死後、お由羅の方は正室との子以外で島津斉興の生き残った子を生んだ唯一の母ということもあり、側室でありながら御国御前と呼ばれて正室同様の待遇を受けるようになります。お由羅の方は島津斉彬よりも実の子である島津久光を愛しており、また藩主である島津斉興もお由羅の方を愛している状況です。

さらに、島津斉興も正室の子である島津斉彬よりもお由羅の方との子である島津久光を次期藩主に推していました。そんな島津久光派の動きに気づいた島津斉彬、彼もまた味方は多く、薩摩藩の正当な後継者として知られた彼を推す薩摩藩士は大勢いたとされています。

こうして起こった争い……すなわちお由羅騒動は、結果として島津斉興が隠居、正室の子となる島津斉彬が後を継いで藩主となるという順当な結果で幕を閉じました。騒動を起こしたお由羅の方も処罰されることなく過ごしたとされています。

島津久光 藩政の実権を掌握

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国父と称されて藩の政権を掌握

1858年、島津斉興の後を継いだ島津斉彬が死去すると、島津久光の長男である島津忠義が薩摩藩第12代藩主に就任します。これは島津斉彬の遺言に従ったもので、島津久光もまた藩主の父という肩書きによって薩摩藩内に大きな政治的影響力をもたらすようになりました。

これで島津久光は宗家に復帰、国父と呼ばれるようになって藩の政権を握ります。そして勢力拡大の過程で精忠組のメンバーを登用しますが、ただその中心である西郷隆盛とは反りが合わず、島津久光と西郷隆盛は不仲だったようです。西郷隆盛が島流しの処罰を受けたことは有名ですが、この処分を下したのは島津久光でした。

さて、藩の政権を握った島津久光は、今度は中央政局への参加を考えます。そのために精忠組から大久保利通を抜擢すると、1862年には西郷隆盛に先発を命じて兵を率いて上京したのです。西郷隆盛が島流しの処罰を受けたのは、この時に独断で京都を目指そうとしたためでした。

文久の改革、生麦事件、薩英戦争

亡き島津斉彬の後を継いで公武合体を理想とする島津久光、公武合体の「公」とは朝廷、「武」とは幕府を示しており、つまり公武合体とは朝廷と幕府が協力して日本の政治を動かそうという考えです。そのため島津久光は勅使・大原重徳に仕えて江戸に赴き、徳川慶喜の将軍後見職に就任するなどの幕政改革に力を費やしました。

さらに、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の政事総裁職の就任の実現など、江戸幕府において一連の人事・職制・諸制度の改革を率先して行っており、これが1862年の文久の改革です。こうして勅使東下の目的を達成して江戸を出発、帰京しようとする島津久光でしたが、帰京の途中にある大きな事件が起こります。

帰京途中の武蔵国橘樹郡生麦村にて島津久光一行の行列が4名のイギリス人と遭遇、このイギリス人達が通行を妨害したとして島津久光の随伴が攻撃を仕掛けてイギリス人達を殺傷したのです。これが1862年の生麦事件であり、この事件の処理が問題となって翌1863年に薩摩藩とイギリスによる薩英戦争が起こりました。

島津久光 公武合体の理想の挫折

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参預会議で生じた対立

1863年に再び上京する島津久光でしたが、これは成果を得られず、長州藩を後ろ盾につけた尊攘派の好き勝手な振る舞いを制することができずにわずか数日の滞在で帰藩することになりました。ただ、帰藩した後も尊攘派と対立する中川宮や近衛忠煕・忠房父子、さらには孝明天皇からも上京の要請を受けます。

長州藩で暴れる勢力を京都から追放するために薩摩藩は会津藩と画策、天皇の支持を得て決行した八月十八日の政変が成功すると、島津久光は3回目となる上京を果たしました。 そして島津久光の意見が認められ、朝廷会議に有力諸侯が参加することが決定したのです

徳川慶喜や松平春嶽らが朝廷会議への出席を命じられ、ここに薩摩藩の公武合体論を体現した参預会議(朝廷の任命による数人の有力な大名経験者から構成された合議制会議)が成立しました。島津久光の目指した公武合体は実現間近に思われましたが、この参加者達の間で政治的な対立が生じます。

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公武合体の理想の断念

参与会議における政治的対立の原因は横浜鎖港をめぐる問題で、鎖港を支持する者と支持しない者とで真っ二つに意見が分かれてしまったのです。最終的には幕府の鎖港方針に合意という形で落ち着いたものの、対立によって生まれた不和は解消されず、そのため参預会議は機能不全となった解体する結果となりました

参預会議の解体は公武合体を不可能とするに等しく、島津斉彬の遺志を継ごうとする島津久光にとって痛恨の挫折です。このため島津久光は参預を辞任、小松帯刀や西郷隆盛らに後を託すと京都を去っていきました。そして1867年、島津久光は4回目の上京をすると今度は松平春嶽らとともに四侯会議を開きます。

しかし、様々な問題について四侯連携のもとで将軍・徳川慶喜と協議することを確認するものの、その結果はいずれも徳川慶喜の意向が強く反映されるものになりました。この結果を受けて島津久光は徳川慶喜との政治的妥協を断念、つまり公武合体の考えを完全に捨て去ることにしたのです。

島津久光 明治維新後

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明治政府に対する批判

島津久光の意思により、薩摩藩は公武合体から武力倒幕路線へと考えを変えます。1867年に島津久光へ討幕の密勅……すなわち徳川慶喜討伐の詔書(天皇の命令を伝えた公文書)が下されますが、同日に徳川慶喜が大政奉還を行ったことで武力倒幕は一旦延期となりました。

しかし、その後の王政復古の大号令戊辰戦争の勃発によって江戸幕府は滅亡、明治政府による新政治が始まります。この明治維新後、島津久光は依然薩摩藩において権力を維持していましたが、明治政府が進める政治改革に対しては批判的な立場をとるようになるのです。

明治政府は、全国の大名が持つ土地と人民を天皇に返還するための廃藩置県を西郷隆盛らと行いますが、島津久光はこれに激怒します。そして、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせました。廃藩置県に対して旧大名で反対の意を示したのは、島津久光だけだったとされています。

明治政府の意思決定から排除

明治政府の政治政策に反発する島津久光でしたが、明治政府は彼を敵と考えていたわけではありません。それどころか倒幕の功労者である島津久光に政治政策を理解してもらおうと何度も重ねて上京を依頼するほどでした。実際、上京後の島津久光は内閣顧問に任じられています。

最も、明治政府に反発していたのは島津久光だけではなく、1874年には明治政府に対する士族反乱である佐賀の乱も起こりました。島津久光と仲が悪かった西郷隆盛も征韓論で明治政府と対立、結果西郷隆盛は辞職しており、島津久光は西郷隆盛を慰める目的で鹿児島へと帰郷しています。

その後は左大臣にも就任した島津久光でしたが、新政策ではなく旧習復帰の建白を行うなど、明治政府も手を焼く存在となってしまうのです。このため島津久光は明治政府の意思決定から実質的に排除され、間もなくして左大臣を辞任、鹿児島へと帰郷していきました。

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島津久光 晩年の過ごし方

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隠居生活後も明治政府に反発

鹿児島へと帰郷した島津久光は隠居生活を過ごし、島津家に伝わっていた史書の整理・加筆などをして書物としてまとめていたそうです。また明治政府に対しては依然反対の姿勢を取り続け、例えば廃刀令への反発として帯刀・和装を止めることはありませんでした

1877年には明治政府に反発する士族が西郷隆盛をリーダーとして西南戦争を引き起こしますが、ただ島津久光はこれに一切関わらず、戦地に赴くどころか戦火を避けるために桜島に一時避難を行っています。島津久光の動向を案じた明治政府に対しても、中立の立場にあることを表明しました。

ちなみに西南戦争とは日本国内における最後の内戦として歴史に残っており、明治初期に起こった最大規模の士族反乱です。島津久光と仲が悪かった西郷隆盛はこの西南戦争において死亡、最終的には明治政府が戦争に勝利する結果となりました。

島津久光の死去

国学が好きだった島津久光らしく、史書の整理や加筆などで晩年を過ごしてきましたが、1887年に71歳で死去します。明治維新の功労者である島津久光は国葬で送られましたが、この国葬は東京ではなく故郷の鹿児島で行われ、道路整備など大掛かりなものになりました。

明治政府の政治を最後まで批判し続けた島津久光からは頑固さが伺えますが、「世間では島津公を頑固の人のように云うて居るが、決してそうでない」という伊藤博文の言葉が残されています。島津久光は「己れは攘夷などと云う事はせぬ。それは西郷などが言うことだ」と言ったとのことです。

島津久光の墓所は鹿児島県鹿児島市の島津家墓地であり、鹿児島市照国町鎮座の照国神社には彼の銅像があります。倒幕後は明治政府の政治政策を批判し続けた島津久光でしたが、西南戦争には関わることなく静かにその余生を過ごしたのでした。

ポイントを絞るよりも一生の流れを追っていく

島津久光は政治家ですが、彼が中心となって行った政治政策はほとんどありません。ですから覚える上では漠然としすぎており、ポイントが絞りづらいでしょう。そこで、彼の場合はポイントを絞るよりも一生の流れを覚えた方が良いですね。

例えば文久の改革では、その後に偶然にも生麦事件が起こり、その生麦事件が薩英戦争の原因になっています。このように、一生の流れを追ってその過程で起こった事件や出来事を覚える……この勉強方法がベストでしょう。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

明治政府の内閣顧問にも就任!政治家「島津久光」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は島津久光について勉強していきます。島津久光は日本の政治家であり、幕末から明治時代にかけて活躍した人物です。最も、「島津」と聞くとあの西郷隆盛を育てた島津斉彬を想像する人が多いでしょう。

しかし、島津久光も歴史に名を残した決して無視できない人物です。島津斉彬は島津久光の異母兄にあたる上、彼は公武合体運動を推進して明治政府の内閣顧問まで務めており、今回日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から島津久光をわかりやすくまとめた。

島津久光 誕生とお由羅騒動

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島津久光の誕生

島津久光は1817年、薩摩国鹿児島郡にて薩摩藩第10代藩主・島津斉興(しまづなりおき)の元に生まれます。母は側室のお由羅の方で、島津久光の幼名は普之進(かねのしん)でした。母の身分の低さから、養子となって公子(藩主の子)の待遇を受けますが、後に島津宗家に復帰するとその機会に名を又次郎へと改称しています。

さて、藩主の子である島津久光は父・島津斉興の死後にその後を継いで藩主になることを想像しますが、ここで歴史に残るほどお家騒動が起こり、それがいわゆるお由羅騒動と呼ばれる事件でした。そして、このお由羅騒動において島津久光の異母兄・島津斉彬も関わってきます。

島津久光は藩主の子とは言え、母・お由羅の方は側室です。一方、異母兄となる島津斉彬の母・弥姫は正室ですから、本来なら正室の子である島津斉彬が次期藩主となるのが順当な流れでした。しかし、正室・弥姫の死去によって状況が変わります。

お由羅の方騒動とその結末

正室・弥姫の死後、お由羅の方は正室との子以外で島津斉興の生き残った子を生んだ唯一の母ということもあり、側室でありながら御国御前と呼ばれて正室同様の待遇を受けるようになります。お由羅の方は島津斉彬よりも実の子である島津久光を愛しており、また藩主である島津斉興もお由羅の方を愛している状況です。

さらに、島津斉興も正室の子である島津斉彬よりもお由羅の方との子である島津久光を次期藩主に推していました。そんな島津久光派の動きに気づいた島津斉彬、彼もまた味方は多く、薩摩藩の正当な後継者として知られた彼を推す薩摩藩士は大勢いたとされています。

こうして起こった争い……すなわちお由羅騒動は、結果として島津斉興が隠居、正室の子となる島津斉彬が後を継いで藩主となるという順当な結果で幕を閉じました。騒動を起こしたお由羅の方も処罰されることなく過ごしたとされています。

島津久光 藩政の実権を掌握

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