今日は征夷大将軍について勉強していきます。日本の歴史の中で最も多く登場するのがおそらく武士でしょう。それもそのはず、武士は日本の歴史において700年近くも政権を握っていたからです。

そして、武士の大将たる存在が征夷大将軍であり、鎌倉、室町、江戸の幕府時代において多くの征夷大将軍が歴史にその名を残してしてきたのは知っているでしょう。今回は征夷大将軍をテーマにして日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から征夷大将軍をわかりやすくまとめた。

征夷大将軍の目的と立場

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征夷大将軍の目的は「蝦夷の征伐」

征夷大将軍と聞くと、ほとんどの人は「幕府を開いた武士のトップに立つ人物」とイメージするでしょう。実際、鎌倉幕府が誕生して以降は室町、江戸、どの時代においても幕府のトップに立つのは征夷大将軍でしたからね。しかし元々はそうではなく、そもそも征夷大将軍は朝廷の令外官の1つなのです

そして、その目的は征夷大将軍の「征夷」がポイントになっています。征夷とは「蝦夷を征伐する」の意味、そして蝦夷とは「東北地方にいた人々」の意味……すなわち、征夷大将軍とは朝廷と対立していた蝦夷の征伐を目的とした臨時の官職です

実は蝦夷討伐を目的とした臨時の官職は征夷大将軍のみではなく、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などがあります。つまり「征夷大将軍=幕府のトップ」のイメージどおりになるのは後のことで、初めて征夷大将軍に就いた人物は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、まだ幕府が誕生する前の奈良時代から平安時代にかけての話です。

初代・征夷大将軍は大伴弟麻呂か坂上田村麻呂か

先程、初めて征夷大将軍に就いたのは大伴弟麻呂と解説しました。しかし、一方で坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が初代・征夷大将軍という声もあり、実際に学校でそう習った記憶がある人もいるのではないでしょうか。こうして意見が二つに分かれているのには理由があります。

まず、大伴弟麻呂が初めての征夷大将軍となったのは確かなのですが、ただ就任した当初の官職名は征東大使でした。つまり大伴弟麻呂は征東大使に就任、その途中で征東大使の官職名が征夷大将軍へと変更されたのです。一方、坂上田村麻呂は最初から征夷大将軍の官職を与えられています。

要するに官職名の問題なのですが、大伴弟麻呂は征夷大将軍として命じられたわけではなくその過程で征夷大将軍となったのです。そして坂上田村麻呂は最初から征夷大将軍として命じられています。つまり「征夷大将軍」の系譜だけを数えるなら坂上田村麻呂が初代・征夷大将軍、純粋に征夷大将軍に就いた順で数えるなら大伴弟麻呂が初代・征夷大将軍ということになるのです

鎌倉時代の征夷大将軍

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征夷大将軍の目的に目をつけた源頼朝

鎌倉時代以降、征夷大将軍は「蝦夷の征伐」ではなく、みなさんがイメージしているとおり「幕府のトップ」のイメージが強くなってきます。そして、「征夷大将軍=幕府のトップ」のイメージを作った人物が鎌倉幕府の征夷大将軍・源頼朝です

東の国を完全に支配、朝廷から独立した東国王権を築いた源頼朝は1190年に右近衛大将の官職に任用されました。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官という名誉ある官職への就任でしたが、源頼朝はこれを喜びはしませんでした。と言うのも、宮中の警固という仕事上、自身が京都に居続ける必要があったからです

本拠地・鎌倉にて独立政権を作ることを望む源頼朝にとって、京都に居続ける官職はいくら官位が高くてもマイナスでしかなく、そんな源頼朝が興味を示した菅職が征夷大将軍でした。征夷大将軍なら、蝦夷の征伐を目的としているため京都に居続ける必要がなかったからです。

幕府の誕生と武士を中心とした政治の始まり

最も、征夷大将軍の本来の仕事……すなわち蝦夷の討伐は既にほぼ必要なかったものの、当時東方には源頼朝のライバルである奥州藤原氏の独立政権が存在していました。つまり、源頼朝は征夷大将軍に就任することで奥州藤原氏を討伐する大義名分が生まれると目論んだのです

さらに、征夷大将軍は敵陣においては徴税・徴兵を行う権利を朝廷から認められていたため、源頼朝はこれらの権利を使って国の政治を行うことに相当する規模の力を手に入れました。そして源頼朝は鎌倉に幕府を誕生させ、これをきっかけに武士の時代が始まります。

幕府の名の「幕」とは武士の本陣、「府」とは役所を意味していましたから、幕府とは武士が天皇に代わって政治を行う本拠地と解釈できるでしょう。こうして、源頼朝は天皇に代わり政治を行う武士……それも征夷大将軍として武士のトップに立つ存在となったのです。

政治の実権を握られた朝廷

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朝廷の反発 後鳥羽上皇

源頼朝によって、いつしか幕府が政治の実権を握り、またいつしか蝦夷の征伐を目的とした官職のはずの征夷大将軍が幕府のトップたる存在の証にもなりました。では、この状況を朝廷はどう見ていたのでしょうか?……その答えを示す事件が源頼朝の死後に起こります。

源頼朝が死去した後、源頼朝の嫡男・源頼家が2代目・征夷大将軍に就きますが暗殺、さらに源頼家の弟・源実朝が3代目・征夷大将軍に就きますが彼もまた暗殺されました。ここで権力を握ったのが死去した源頼朝の妻・北条政子とその実家である北条氏です。

北条氏は権力の行使によって朝廷を握り始めましたが、後鳥羽上皇はこの北条氏の台頭を不服としました。元どおり幕府の征夷大将軍ではなく朝廷の天皇に政権を取り戻そうとした後鳥羽上皇は討幕を計画、鎌倉幕府の執権・北条義時を討伐する命令を下したのです

朝廷の反発 後醍醐天皇

朝廷と幕府の対立、そして後鳥羽上皇は鎌倉幕府の執権・北条義時を討伐するために兵を挙げて戦いを挑みます。これが1221年の承久の乱であり、日本史上で初となる朝廷と幕府の武力争いになりました。朝廷はこの戦いにあっさりと敗北、首謀者の後鳥羽上皇が天皇でありながら島流しとなったのは有名ですね。

また、後鳥羽上皇の皇子も同様に島流し、さらに朝廷側に就いた貴族や武士の多くが死罪となりました。これ以降、朝廷は幕府に監視される立場となり、お互いの立場が逆転してしまったのです。ただ、そんな朝廷が権力を取り戻すチャンスがその約100年後に訪れます。

鎌倉幕府の打倒に成功した後醍醐天皇が、1333年に建武の新政を行って天皇自ら行う政治を開始したのです。しかしこれも多くの問題が起こって失敗、後醍醐天皇が目指した政治もわずか3年足らずで崩壊してしまい、またも朝廷は幕府に政治の主導権を握られることになってしまいました。

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室町時代の征夷大将軍

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征夷大将軍の力の弱体化

室町時代では足利尊氏が征夷大将軍となって室町幕府を開き、以降足利家が征夷大将軍を継いできました。何度もキーワードにしたとおり、鎌倉幕府が誕生して以降「征夷大将軍=幕府のトップ」ですが、ただ征夷大将軍が日本の全てを直接治めていたわけではないのです。

室町時代においては各地の支配を守護大名に任せており、そして各地の守護大名の上に立つべき存在が征夷大将軍でした。しかし、室町時代が始まって130年も経過した頃、この権力形式が崩れてきたのです。その原因は征夷大将軍の弱体化でした。

元々力を持つ守護大名に対して征夷大将軍の力が弱くなれば、当然守護大名は征夷大将軍に従わなくなるでしょう。このため各地で守護大名同士が争っても征夷大将軍はそれを止める術がなく、また征夷大将軍を補佐するはずの管領も反発するようになりました。

下剋上の始まりと戦国時代の幕開け

こうした争いが発端となって起こったのが1467年……「ひとよむなしい」の語呂覚えが有名な応仁の乱なのです。応仁の乱によって足利家の征夷大将軍としての力はさらに弱体、抑えられない守護大名は各地で争いを起こし、またその守護大名まで部下に狙われる事態が起こるようになりました。

これが下剋上であり、すなわち戦国時代の幕開けです。とは言え、征夷大将軍の官職そのものではなく足利将軍家の力が弱体化したのが正確な表現でしょう。このため、室町幕府が滅亡した後の戦国時代が終わり、江戸幕府が開かれた時には徳川将軍家……つまり征夷大将軍が再び力を持つことになります。

ちなみに、室町幕府を滅ぼしたのは織田信長です。足利義昭を奉じて入京した織田信長は、足利義昭が征夷大将軍に就任するとやがて対立することになってしまい、征夷大将軍・足利義昭を京都から追放、この時点で室町幕府が滅亡したとされています。

江戸時代の征夷大将軍

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最後の征夷大将軍・徳川慶喜

1603年、徳川家康が征夷大将軍になって江戸幕府を開きます。鎌倉時代から始まった幕府はこの江戸時代で終焉、すなわちそれは征夷大将軍の終わりも意味しており、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が日本における最後の征夷大将軍となったのです

さて、「征夷大将軍と幕府」については「天皇と朝廷」と比較して権力の上下における疑問が挙げられますね。つまり「征夷大将軍と天皇、幕府と朝廷はどちらが偉いのか?」の疑問ですが、実は江戸時代の歴史を知ることでその答えが簡単に分かります。

まず結論を言うと、権力を意味する力なら上になるのは征夷大将軍よりも天皇、幕府よりも朝廷で、なぜなら征夷大将軍は朝廷の令外官の1つであり、つまり天皇の部下なのです。そして幕府は朝廷の部下である征夷大将軍が開いたものであることから、幕府もまた朝廷の下ということになります。

征夷大将軍と幕府の権力

この上下関係が分かるのが、江戸時代に井伊直弼が行った日米修好通商条約の無勅許での調印問題です。井伊直弼は幕府の大老ですが、幕府は外交問題において朝廷・天皇の許可なしでは調印できず、それを許可なし……つまり無勅許で調印したことが問題となりました。

また、最後の征夷大将軍・徳川慶喜は倒幕を察知して大政奉還を行っています。この大政奉還とは「政権を朝廷・天皇に返納する」という意味であり、つまり征夷大将軍は朝廷・天皇の代わりとして一時的に政治を任されている立場であることが分かるでしょう。

もちろんそれは形式上の問題ですが、逆に言えば形式的には征夷大将軍よりも天皇、幕府よりも朝廷が権力は上になります。なお、江戸幕府が滅亡してからは朝廷が政権を握り、幕府や征夷大将軍はもちろん、武士の時代が終わって天皇を中心とした新しい政治が始まるのです。

征夷大将軍を学ぶなら同時に幕府も学ぶべき

征夷大将軍とは、元々は蝦夷の征伐を目的とした臨時の官職でしたが、源頼朝によって「幕府のトップ」のイメージへと変わりました。ですから実際、征夷大将軍は幕府誕生前にも存在しており、初代征夷大将軍は源頼朝ではありません。

とは言え、歴史において幕府と征夷大将軍は深く関係しているため、征夷大将軍を学ぶと同時に幕府も学んでおくと良いでしょう。ある何かを学ぶ時には、それに関わる別の何かもあわせて学ぶ……これは歴史の勉強の鉄則ですよ。

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室町時代日本史歴史江戸時代鎌倉時代

「征夷」に込められた意味!「征夷大将軍」について元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は征夷大将軍について勉強していきます。日本の歴史の中で最も多く登場するのがおそらく武士でしょう。それもそのはず、武士は日本の歴史において700年近くも政権を握っていたからです。

そして、武士の大将たる存在が征夷大将軍であり、鎌倉、室町、江戸の幕府時代において多くの征夷大将軍が歴史にその名を残してしてきたのは知っているでしょう。今回は征夷大将軍をテーマにして日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から征夷大将軍をわかりやすくまとめた。

征夷大将軍の目的と立場

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征夷大将軍の目的は「蝦夷の征伐」

征夷大将軍と聞くと、ほとんどの人は「幕府を開いた武士のトップに立つ人物」とイメージするでしょう。実際、鎌倉幕府が誕生して以降は室町、江戸、どの時代においても幕府のトップに立つのは征夷大将軍でしたからね。しかし元々はそうではなく、そもそも征夷大将軍は朝廷の令外官の1つなのです

そして、その目的は征夷大将軍の「征夷」がポイントになっています。征夷とは「蝦夷を征伐する」の意味、そして蝦夷とは「東北地方にいた人々」の意味……すなわち、征夷大将軍とは朝廷と対立していた蝦夷の征伐を目的とした臨時の官職です

実は蝦夷討伐を目的とした臨時の官職は征夷大将軍のみではなく、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などがあります。つまり「征夷大将軍=幕府のトップ」のイメージどおりになるのは後のことで、初めて征夷大将軍に就いた人物は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、まだ幕府が誕生する前の奈良時代から平安時代にかけての話です。

初代・征夷大将軍は大伴弟麻呂か坂上田村麻呂か

先程、初めて征夷大将軍に就いたのは大伴弟麻呂と解説しました。しかし、一方で坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が初代・征夷大将軍という声もあり、実際に学校でそう習った記憶がある人もいるのではないでしょうか。こうして意見が二つに分かれているのには理由があります。

まず、大伴弟麻呂が初めての征夷大将軍となったのは確かなのですが、ただ就任した当初の官職名は征東大使でした。つまり大伴弟麻呂は征東大使に就任、その途中で征東大使の官職名が征夷大将軍へと変更されたのです。一方、坂上田村麻呂は最初から征夷大将軍の官職を与えられています。

要するに官職名の問題なのですが、大伴弟麻呂は征夷大将軍として命じられたわけではなくその過程で征夷大将軍となったのです。そして坂上田村麻呂は最初から征夷大将軍として命じられています。つまり「征夷大将軍」の系譜だけを数えるなら坂上田村麻呂が初代・征夷大将軍、純粋に征夷大将軍に就いた順で数えるなら大伴弟麻呂が初代・征夷大将軍ということになるのです

鎌倉時代の征夷大将軍

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