日本史

たった一代で中国地方を収めた「毛利元就」を戦国通サラリーマンが徹底解説!

よぉ、桜木建二だ。今回は、中国地方で名を轟かせた名家を一代で発展させた毛利元就について勉強していこう。大国を築き上げた政策などもあるが、元就が一番評価されている点は、自軍に犠牲が出ないように用意周到に戦い勝利を収めた策略家であるところだ。

そこで今回は、武将が大好きなライターwhat_0831と共に紹介していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/what

戦国時代が大好きで、子供が生まれてきたら武将の名前を付けたいぐらい戦国大好きなサラリーマン。色々な角度から知略毛利家を解説する。

苦労して誕生した知略の将

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By 不明 – 毛利博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link

当時の毛利家は、国人と呼ばれた小領主。隣国には、大内氏・尼子氏が強大な力を持ち周りの小領主もいつ滅ぼされるか分からない状況でした。そんな、厳しい情勢に元就は毛利弘元の次男として誕生します。後に中国覇者となる元就の幼き頃から見ていきましょう。

困窮した生活

1497年4月16日に毛利弘元と正室の福原広俊の娘の間に次男として誕生しました。幼名は、松寿丸と名乗り生まれたとされる福原城で過ごします。応仁の乱が終わり約二十年経過するも大内氏の力は衰えておらず、中国の中でも一大勢力となっていました。大内氏と正面切って戦える大名は、尼子氏だけでありこの二人が戦を始めてしまうとどちらかに付かなければ家を滅ぼされてしまう可能性があった時代です。

1500年に、室町幕府と大内義興の勢力争いが始まり嫌気がさした弘元は長男毛利興元に家督を継がせ元就と共に隠居してしました。ところが、元就が九歳の時に弘元がアルコール中毒により亡くなってしまいます。この出来事に追い打ちをかけるようにして、興元家臣の井上盛元に多治比猿掛城を横領され城を追い出されてしまいました。

弘元が亡くなったことで城の生活も奪われ、母も1501年に亡くなってしまい幼くして父と母がいなくなってしまいます。

興元の死から毛利家中が動揺

困窮した生活の中でも、弘元の側室だった養母の杉大方に育てられていて弘元が亡くなってからも元就のことを養育していきました。杉大方と出会いで元就に与える影響は強く、毎日欠かさず朝日を拝む念仏信仰を教え生涯一日も忘れることなく行っていた元就。1511年杉大方か毛利家当主の興元へ元就の元服について相談し、晴れて元服を迎え松寿丸から多治比元就と名乗り毛利分家として毛利家を支えていくことになります。

ところが1516年に興元が、父と同じくアルコール中毒によって急死してしました。後継ぎはいたものの、二歳という若さで幸松丸が毛利家当主となります。当然のことながら二歳の幸松丸が家を動かすことはできないので、元就が後見人として毛利家を動かしていくことになりました。

いきなり幼い主君となってしまったことで家臣達は動揺してしまい混乱状態となります。そこを見計らった形で、勢力拡大を目論む安芸武田氏の元繁が有田城へ侵攻してきました。

初陣から毛利家危機

有田城へ侵攻してくる武田氏は、室町時代から守護的な立場で安芸を収めていました。侵攻してくる総大将は、知勇名高い武田元繁が率いている部隊の中には猛将で知られる熊谷元直。対する元就は、この戦が初陣でありいきなり家中存続の戦をしていくことなります。

まず、前哨戦として有田城へ元繁と元直が進軍していき周りを取り囲みました。しかし、有田城主の小田信忠は思いのほか奮戦したので落城せず持ちこたえています。陰徳記によれば、信忠側は三百兵ほどで元繁側は約五千兵で圧倒的な不利な状況でした。落とすことができない有田城から元就居城の多治比猿掛城に向けて元直が六百兵を率いて侵攻していきます。到着してからまず、元就を城から引きずり出すために城下を燃やし挑発しました。

この行為を見逃せない元就は、約百五十騎を率いて城から打って出ます。勢いのあった毛利軍は見事、元直を退けることができました。

猛将熊谷元直を討ち取り勝利への光が差す

多治比猿掛城で元直を撃退した元就は、この状況を好機とし隣国小領主の相合元網・桂元澄・福原貞俊を筆頭に七百兵を集結させ宮庄経友と合流し有田城へ向かいます。有田城付近の又打川まで兵を進めていた元就だったが、兵力に差がある状態でした。兵力差で増さる元繁は、元直を毛利・吉川連合軍へ五百兵を率かせて迎撃に向かわせます。

開戦時は、弓矢を射て攻撃していた連合軍だったが元繁と元直に挟撃される恐れがあると思った元就は遠距離から近距離攻撃へと切り替え真っ正面から衝突しました。この様子を見た元直は、兵力で上回っていることで連合軍を侮り前線で指揮を執り始めます。過信していた元直は、前線に出すぎたことで経友の放った弓矢が額に刺さり討ち死にしてしまいました。

この元直討死の知らせ聞くと、元繁は激昂し有田城に少兵だけを残し連合軍へと兵を率いていきます。

戦況を見極める目を持っていた

元繁は元直の兵力を失っても尚、連合軍よりも兵力は増さっているため鶴翼の陣を組み徐々に連合軍の兵力を削ぐことを狙っていました。そんな中、兵を割いたことで好機と見た忠信は、有田城から打って出ることにします。しかし、率いていた兵が三百に対して武田軍は七百と不利である状況に変わりはなくあっという間に敗走を始めてしまいました。

これを見過ごすと勝機が薄くなってしまうと感じた元就は、小田軍を激励し敗走を踏みとどまめます。両軍一進一退を繰り返すも兵の疲れに伴い膠着化していました。優位的な状況で焦り出した元繁は、自ら前線へ立とうと前進してきます。元繁が動いたことを確認した元就は、元繁の前線へ弓矢を一斉に放ちました。この攻撃を受けた元繁は、体に弓矢を射られ又打川の水際に転落してしまい井上光政に討ち取られてしまいます。

この戦で元就が元繁を討ち取ったことがきっかけとなり武田氏は衰退の道を辿っていきました。

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応仁の乱直後は、一大勢力を築き上げていた大内氏・尼子氏のどちらかにつくしか家を存続させることが唯一の方法だったようだな。また、父を失ったが杉大方のおかげ逞しく育つことができたようだ。後に自分の子供達に、宛てた手紙でも感謝していることが記されていることから元就自身を大きく変えた存在であったことが分かるな。

元就の初陣だった、有田合戦を後世では西国の桶狭間とも呼ばれているようだ。この戦に関して、大内義興は元就のことを神妙だったと高い評価をしているな。

毛利家当主

有田合戦で勝利した元就は、義興からも信頼されるも尼子氏へと主君を鞍替えしていきました。更に家督を継いでいた雪松丸が幼くして亡くなります。元就が家督を継ぎ、徐々に拡大していくところを見ていきましょう。

大内義興から尼子経久へと主君を変更

有田中井出の戦いで一躍有名となった元就は、戦の一年後に吉川氏が方針転換をしたことに伴い尼子氏を主君とし義興から主君を鞍替えしました。一方の義興は、長年争いあっている大友氏の領土を攻めるべく筑前国へと兵を進めていました。この隙をつくために尼子経久が挙兵し、元就も経久に従い兵を集めます。

1523年6月に幸松丸を大将として、吉川国経と共に約四千の兵牽き鏡山城へ侵攻していきました。当初は、蔵田房信の奮戦したため鏡山城へ近づけず戦が膠着状態となってしまいます。更に叔父の直信も城へ入り守りが固くなってしまいました。

そこで元就は一計を考えます。まず、鏡山城に間者を紛れ込ませ直信の情報を集め利欲に走りやすい性格と房信の下に就いていることに不満を持っていることが分かりました。情報を手にした元就は、直信宛に手紙を送り領土を安堵する代わりに房信から離反してくれないかと持ち掛けます。

勝利したものの恩賞などはなかった

手紙によって直信を調略し、味方へとひきいれ房信に刃を向けさせます。この時、直信は本丸にいたとされ二の丸を守備していた房信と入れ替わり元就の兵を二の丸から入城させていきました。直信の行動に驚いた房信は、大慌てで防戦します。一昼夜戦い続けた房信も次々と家臣を失い、遂に元就に対して白旗を振りました。

房信は、妻子と城兵の命を安堵することと引き換えに自害します。その後、経久は房信の要求を受け入れたが直信に関しては利欲のために自らの大将を討ち取るとは犬猫の振る舞いといい切腹させてしまいました。

これにより、元就が策を弄したにも関わらず経久から反故され恩賞一つ頂けず。更に嫌がらせ行為として、幸松丸を房信の首実検に無理やり参加させました。こういった行為を受けた元就は、経久に不信感を覚え始め経久は元就のことを危険視するようになります。

 

家督を相続することになる元就

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時期は、不明ではあるが吉川国経の娘だった妙玖と政略結婚していました。1523年には、長男の隆元を出産します。隆元が生まれたと同年に当主だった幸松丸が亡くなってしまいました。鏡山城の戦いで一段落したと思われましたが、当主を失ってしまった毛利家は混乱してしまいます。

若年の幸松丸には、後継ぎなどいるはずもなく時期当主候補は次男元就か側室の合相元網どちらかを当主にするか重臣と話し合いへ。大半の重臣は、年齢と正室から生まれたため元就を当主に押す形をとりましたが中には元網を推薦する家臣もいました。

分家の人間だった元就でしたが、志道広良らが推挙してくれたおかげで当主となります。元就が当主となっても揉め事が続いたため、広良が連署状を作成し家臣団をまとめ挙げました。これにより、多治比元就から毛利元就と名を変え毛利家拠点の吉田郡山城へ入城。

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中国地方では、大内氏か尼子氏の君主を元就だけでなく変えていたようだな。吉川氏と婚姻関係があった理由で尼子氏についたことを考えると、この頃に妙玖と婚約したと考えるのが自然のような気がするな。一生涯、元就は妙玖を愛したとされ側室も愛する妻を失った後に迎えているようだ。この時代に、正室がいなくなった後に側室を迎えたのは元就だけであったかも知れないな。

鏡山の戦いで、元就の腕が発揮された戦を見た尼子経久は小領主でありながら並みの人間ではないと気付いたから嫌がらせを働いたとされている。真意は不明だが毛利家の家督争いにも、元網を裏で操っていたなど元就を追いやろうとした記録が残されているようだな。

小領主から安芸国の中心へ

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家督が混乱した最中に、広良らのおかげで当主となり毛利家を背負うことになった元就。これを脅威と感じた経久は、家臣の亀井秀剛を使い元就を陥れようと企ていきます。1523年以降から、戦の激しさが増していきながらも持ち前の知略で各国から一目置かれる存在となっていく元就を見ていきましょう。

不満を持った家臣

家督を継いで、連署状よって元就が当主となりましたがこ不満を持った家臣達がいました。1524年に元網一派の渡辺勝と坂広秀らが元就へと刃を向けます。連署状には、この二名の名前も記載され元就に対して忠義を示していました。ところが、尼子氏家臣の亀井秀綱が勝と広秀を支援し元網を担がせ謀反の準備を着々と進めていきます。

この謀反の準備を一早く見抜くことできる能力を持っていた元就。謀反を起こさせる前に、主要核となっている三名を粛清しようと動き出していきました。三名は、密かに動いてたつもりが元就には筒ぬけ状態であったため謀反を起こしましたが直ぐに鎮静化します。広良が鎮静化へ多方面へ動いてくれたことで謀反の対処ができました。元網は、広良が船山城を攻めて討ち取り広秀と勝は元就の誅伐されました。

譜代家臣の自刃を止めにいくも一足遅く

この直後に、叔父にあたる桂広澄は責任を取り自刃しようとしている情報が入った元就は急いで止めに桂城へと向かいます。しかし、間に合わず広澄は自刃してしまい嫡男の元澄も父同様に自刃するつもりだったが元就の説得により一命を取り留め毛利家に生涯忠誠を誓いました。

こうしたことで、責任を感じて命が散ってしまう将を見て自分のしていることを改めて重く受け止めた元就だったでしょう。本来は家臣など斬りたくはないが、生き残るためには仕方ないことで辛さを感じながら実行したのだと思います。

関係の修復

謀反を未然に防いで一致団結した毛利家。隣国とも結束していくために宍戸氏と関係を修復していきます。弘元が亡くなった遺言で宍戸氏と仲を深めるように書かれていたが、興元が亡くなったなくなるなどで友好関係を築くのに遅くなってしまいました。隆家の父だった宍戸元源は、元就のことを気にかけてくれ親しく接してくれ領土を一部譲ってくれるなど良心的に働いてくれたようです。

元源とのお酒を交えた時に、元就の娘五龍と隆家を結婚させることを決定。宍戸氏縁の者達と親交を深めていき、幕府とのパイプまで築き上げることができました。さらに、一時的に反乱を起こして大内氏から攻撃を受けていましたが、元就の弁明により味方へと引き入れることになります。また、安芸武田氏から離反していた熊谷信直とも通じて家臣の一員とするなど国人として確立させることができました。

領土を広げたことで尼子氏が挙兵

隣国と協力体制を築いていきながらも勢力を更に拡大していくには、官職が必要だと思い隣国と協力する数年前に、大内義隆からの推薦と官位を授かりたいと朝廷に願いでて従五位下を授かっています。また、義隆へ忠義の証として長男隆元を人質として義隆へと預けていました。

徐々に地固めを行い勢力を拡大させていくが、元は小領主の元就。力をつけていく様子に、危機感を表していた尼子氏は元就に対して挙兵します。

尼子氏との激戦

大内家への傘下を明確にした元就のことをと思った尼子詮久は、元就居城の吉田郡山城を攻めるべく兵を集めます。集めた兵力はなんと三万の大軍を率いて侵攻していきました。対する元就は自国の兵をなんとか集めて三千と尼子軍の十分の一で籠城します。兵力勝っていた詮久は、吉田郡山城を囲うように攻めていこうとするも援軍の宍戸氏や福原氏らが近隣の城で籠城し詮久の攻撃を凌いでいました。

詮久も負けじと戦略を練り実行していくも、元就の方が一枚上手でどれも失敗で終わってしまいます。元就が、攻撃を防いでいると遂に大内氏の援軍が到着し尼子軍を攻め勝利を収めることができた元就。この時に戦内容を記した郡山籠城日記を幕府へと提出し賞賛を受けました。

討死に危機から毛利軍の確立

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敗走した詮久は、積雪の影響などで討ち取られずには済んだものの同年に父経久が亡くなったことと傘下の国人衆が大内氏側へと主君を変えてしまい衰退してしまいます。弱体化している詮久へと義隆は侵攻を決意。元就も大内軍へと加わり、詮久へ攻撃をしていくも戦が長期化した影響で主君替えをしたばかりの国人衆が詮久元へ寝返り義隆らは窮地に立たされます。

義隆と嫡男大内晴持は、自国へ退却するべく別々のルートで撤退していくも海路で船に乗船するも転覆してしまい溺死してしまいました。同じく退却していた元就も迫りくる尼子軍から逃げるのがやっとの状況。隆元と共に自刃しようと考えるも殿を買って出た、渡辺通が元就の甲冑をまとい七騎で退却への時間稼ぎを行い討死にしました。通のおかげで、安芸へと帰ることができた元就でした。

戦後に、大内氏が勢力を弱めてしまいながらも自国の強化をしていく元就。まず、次男元春を吉川家へ三男隆景を小早川家を継がせ勢力を拡大させる地固めをしていきました。

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不幸が重なりながらも、毛利家当主となることができた元就だが謀反の疑いで何人も粛清しているようだ。このことに対して元就は、家臣を切ることは自分の手足を切っているぐらい辛いと長男隆元に語っていたようだな。策略家といえども家のためと思い、苦渋の選択をしたのだろう。

1530年ぐらいからは、先を見据えた形で国人と協力関係を結んでいくなど毛利家の未来をよく考えての行動をしているな。また、第一次月山富田城の戦いの一年後に妙玖が亡くなり更に養だった大杉の方まで亡くなり元就はさぞ悲しんだそうだ。特に妙玖のことは、隆元に宛てた手紙にしばしば登場して妙玖の存在は元就にとって妻でもあり良きパートナーだったことが伺えるな。

大内氏の没落により毛利氏が台頭

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第一次月山富田城の戦いで、尼子氏に大敗してしまった大内氏。大敗しただけでなく嫡男の晴持を失い勢いのあった義隆は、次第に戦に関心が無くなり大内氏の力が弱まっていきました。これに不満を持ち始めたのが、重臣だった陶隆房です。陶氏の行動が元就にどんな影響を与えたのか見ていきましょう。

義隆が討たれ大内一族が滅亡

第一次月山富田城の戦いで武功派と文治派の関係が悪化していたことと、義隆が尼子氏に大敗したことで積極的に領土拡大するための戦を行わなくなりました。これにより武功派の陶隆房と内藤興盛らを国政から遠ざけます。このことに不満をいただいていた隆房は、元就に密書を宛ており義隆のことが不満であると記されていました。1550年には、相良武任と隆房が対立しより一層深刻化します。

この時、元就は隆房に協力する見返りとして大内領をもらうことを条件としました。国政も機能しない状態で、義隆は居城の若山城に塞いでいたことで隆房挙兵の動きに鈍感だったため注進が届いてから動き出します。防戦に有利な場所として法泉寺まで公家衆と共に移動。義隆派としての兵は二千ほどしかおらず、対する隆房は一万とされ組織的に動くこともできないので興盛に和睦を懇願するも受け入れてもらえませんでした。

そして、隆房によって1551年西国随一までのし上がった義隆は自刃して事実上の大内家滅亡まで追い込みます。

陶隆房との対立

元就は義隆と隆房が争っている間に、隆房と協力する流れで備後と中心に領土を掌握していきます。そして、隆房は元就に安芸と備後の国人を纏めること権限を与えてもらい次々と城を攻略していき毛利勢力を拡大していきました。毛利領土が徐々に拡大するにつれ、尼子氏と大内氏とも渡り合える勢力となり危機感を覚えた隆房は元就に領土返還を訴えるも元就は拒否。

これ以外にも隆房が独自で安芸の国人衆に出陣の督促を出したことで、隆房との約束に反していることを知った隆元は元就と共に隆房と対決を表明しました。このまま正面衝突をしては勝ち目のないことを知っていた元就は、得意の謀略で大内氏を内部から弱体化させようと考えます。

まず、隆房の重臣だった江良房栄は元就により調略され三百貫と毛利家重臣と同様の破格待遇で一度は味方にするも更なる加増を迫ってきたので謀反の疑いがあると隆房に流言され暗殺されてしまいました。その他に、村上水軍や少弐氏らと共闘するように働きかけています。

三大奇襲から元就の最後

隆房の主君裏切りにより中国の勢力図が大きく変わり、その隙をつき領土を拡大していく元就。このことに危機を感じた隆房は次第に元就と対立していきます。それでは、厳島の戦いの緒戦から本戦までと長生きしていく元就を見ていきましょう。

厳島の戦い緒戦

吉見氏との戦に手間取っている間に元就は、隆房に対して挙兵します。このことに腹を立てた隆房は、重臣宮川房長に三千の兵を牽かせて元就の元へ迎撃に向かわせました。桜尾城に本陣を敷き迎え撃つ準備をしますが、房長の兵は一揆衆が加わり七千まで増加。これに、宍戸隆家と福原貞俊らを偵察に向かわせると隆房が本隊を率いてると誤認しこの一報を聞く元就は奇襲を選択します。

1554年6月5日に奇襲を選択して朝駆けを狙っていたが、房長も同様に奇襲を仕掛けていることをした元就は兵を下がらせ翌日午前中に攻撃を仕掛けました。包囲した形で攻め込んだ毛利軍は房長を追い込み討ち取ります。この間に、陶軍から宮尾城を攻められるも全て撃退しておりました。

厳島の戦い

数では圧倒的に不利だった元就は、三男の隆景経由で村上水軍に協力を求めていました。また、水上で大軍を相手にするには分が悪いので陸地に上がらせ宮尾城を攻めようと嘘の情報を陶軍へ流言させます。この知らせを聞いた隆房は、宮尾城に向け進軍。小さい砦でしかない宮尾城は、堀も埋められ陥落寸前状態でこのままで負けると思った元就は宮尾城へ向けて進軍すると隆景に宛てています。

地御前まで進んでいたところで、遂に村上水軍が到着し共闘。厳島に向けて隊を三つに分けて渡海の準備をするも海を大荒れしていました。ところが元就は、今日は吉日であるといい暴風雨の中渡りきり厳島へと密かに潜り込みます。そして、翌日の六時ごろに陶軍の後方を突いた元就は鬨の声を上げて攻撃を仕掛け隆景も呼応するように陶軍の本陣まで駆け上がっていきました。

村上水軍は、陸地での戦闘が始まったことを確認して陶軍の船を焼き払います。これにより大混乱に陥った隆房は、軍を立て直そうとするもどうにも出来ず自刃しました。

厳島の戦い後と逸話

隆房が自刃し、重臣だった弘中隆包は最後まで交戦するも討ち取られてしまい陶軍は壊滅しました。この戦で、陶軍の死者が約四千にまで登り捕虜は三千にとされています。また、島全体が厳島神社の信仰対象だったため、血で汚れた場所を削り万部経会を行い死者を弔いました。

逸話として残されているのが、弘中隆包が逃げる最中に民家に火を放ち燃え上っているところを見ると「敵は逃がしてもいいが厳島神殿を燃やしてしまっては末代までの恥」であるといい消火活動をしたという逸話があります。

残す勢力の尼子氏と大友氏

初めに尼子氏から攻めるため侵攻しました。尼子氏の当主は、義久が継いでおり父晴久が亡くなり尼子側は動揺していたので幕府に仲介を頼むも元就により破棄されてしまい一戦交える形に。

前回の戦いで尼子氏大敗を期した元就は、焦らず近隣の城から攻略していき月山富田城を取り囲みます。その最中に豊前の大友宗麟が、毛利領を脅かしていたので隆元は幕府の仲介を得て和睦を交わしましたが元就の軍と合流する矢先に突然死してしまいました。隆元の死で兵の指揮が下がらないように、尼子氏を討つことが追善であるといい兵を鼓舞します。

兵糧攻めを行い、投降してきた兵は全て討ち取り尼子側への見せしめに。兵糧攻めをしている間に策略を展開していた元就は、城内にありもしない噂を立て義久を不安にさせた元就。これにより疑心暗鬼となった義久は、宇山久兼を殺害し尼子側の兵は離反していきます。その結果、戦える兵がほぼいなくなり義久は降伏しました。

長生きをした策略家

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尼子氏を攻め落とすも、尼子残党兵や大友宗麟の攻撃に頭を悩ませながらも自身の力でねじ伏せ中国地方を統一することができました。しかし、尼子氏を滅ぼしたあたりから体調が優れないことが多くなり幕府御用達の曲直瀬道三を足利義輝が派遣。持ち直し時期もあったが、1571年6月14日に食道癌で亡くなったとされています。年齢は七十一歳。

元就、亡き後はいれば隆元が当主だったが早死してしまっているため子の輝元が当主となりました。そして、輝元の代となり元春と隆景の補佐により元就の意志を継ぎ隣国を次々と収めていきます。その後、尾張出身の国人だった織田家と対立していきました。

自分の力で巧みに勢力を広げていった長寿の智将

誕生した時から、不運に見舞われ困窮した生活を送りながらも養母のおかげで非凡な将になることができたようにも思えます。そんな厳しい時代を過ごしながらも、元就の才能を見抜いていた毛利譜代の家臣おかげで当主になることができたことが元就の一番の転機だったのでしょう。

本来であれば当主になることが難しい立ち位置でした。それでも色々なことが重なった結果、自身の力を最大限に発揮し中国制覇まで成し遂げることが可能だったのでしょう。また、この時代ですと家督争いが度々発生して家の力を弱めてしまうことが多かったと思います。こういったことを起こさせないように、事が起こる前に処理できていたのは元就と毛利譜代家臣だからこそ対処できたのではないかと思いました。

そして、誰よりも健康には気を使いお酒はほぼ飲まずバランスの良い食事を心掛けていたことで長生きをして毛利家存続に力を注ぐことができたのでしょう。

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