

そこで今回は、武将が大好きなライターwhat_0831と共に紹介していくぞ。
- 苦労して誕生した知略の将
- 困窮した生活
- 興元の死から毛利家中が動揺
- 初陣から毛利家危機
- 猛将熊谷元直を討ち取り勝利への光が差す
- 戦況を見極める目を持っていた
- 毛利家当主
- 大内義興から尼子経久へと主君を変更
- 勝利したものの恩賞などはなかった
- 家督を相続することになる元就
- 小領主から安芸国の中心へ
- 不満を持った家臣
- 譜代家臣の自刃を止めにいくも一足遅く
- 関係の修復
- 領土を広げたことで尼子氏が挙兵
- 尼子氏との激戦
- 討死に危機から毛利軍の確立
- 大内氏の没落により毛利氏が台頭
- 義隆が討たれ大内一族が滅亡
- 陶隆房との対立
- 三大奇襲から元就の最後
- 厳島の戦い緒戦
- 厳島の戦い
- 厳島の戦い後と逸話
- 残す勢力の尼子氏と大友氏
- 長生きをした策略家
- 自分の力で巧みに勢力を広げていった長寿の智将
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/what
戦国時代が大好きで、子供が生まれてきたら武将の名前を付けたいぐらい戦国大好きなサラリーマン。色々な角度から知略毛利家を解説する。
苦労して誕生した知略の将
By 不明 – 毛利博物館所蔵, パブリック・ドメイン, Link
当時の毛利家は、国人と呼ばれた小領主。隣国には、大内氏・尼子氏が強大な力を持ち周りの小領主もいつ滅ぼされるか分からない状況でした。そんな、厳しい情勢に元就は毛利弘元の次男として誕生します。後に中国覇者となる元就の幼き頃から見ていきましょう。
困窮した生活
1497年4月16日に毛利弘元と正室の福原広俊の娘の間に次男として誕生しました。幼名は、松寿丸と名乗り生まれたとされる福原城で過ごします。応仁の乱が終わり約二十年経過するも大内氏の力は衰えておらず、中国の中でも一大勢力となっていました。大内氏と正面切って戦える大名は、尼子氏だけでありこの二人が戦を始めてしまうとどちらかに付かなければ家を滅ぼされてしまう可能性があった時代です。
1500年に、室町幕府と大内義興の勢力争いが始まり嫌気がさした弘元は長男毛利興元に家督を継がせ元就と共に隠居してしました。ところが、元就が九歳の時に弘元がアルコール中毒により亡くなってしまいます。この出来事に追い打ちをかけるようにして、興元家臣の井上盛元に多治比猿掛城を横領され城を追い出されてしまいました。
弘元が亡くなったことで城の生活も奪われ、母も1501年に亡くなってしまい幼くして父と母がいなくなってしまいます。
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興元の死から毛利家中が動揺
困窮した生活の中でも、弘元の側室だった養母の杉大方に育てられていて弘元が亡くなってからも元就のことを養育していきました。杉大方と出会いで元就に与える影響は強く、毎日欠かさず朝日を拝む念仏信仰を教え生涯一日も忘れることなく行っていた元就。1511年杉大方か毛利家当主の興元へ元就の元服について相談し、晴れて元服を迎え松寿丸から多治比元就と名乗り毛利分家として毛利家を支えていくことになります。
ところが1516年に興元が、父と同じくアルコール中毒によって急死してしました。後継ぎはいたものの、二歳という若さで幸松丸が毛利家当主となります。当然のことながら二歳の幸松丸が家を動かすことはできないので、元就が後見人として毛利家を動かしていくことになりました。
いきなり幼い主君となってしまったことで家臣達は動揺してしまい混乱状態となります。そこを見計らった形で、勢力拡大を目論む安芸武田氏の元繁が有田城へ侵攻してきました。
初陣から毛利家危機
有田城へ侵攻してくる武田氏は、室町時代から守護的な立場で安芸を収めていました。侵攻してくる総大将は、知勇名高い武田元繁が率いている部隊の中には猛将で知られる熊谷元直。対する元就は、この戦が初陣でありいきなり家中存続の戦をしていくことなります。
まず、前哨戦として有田城へ元繁と元直が進軍していき周りを取り囲みました。しかし、有田城主の小田信忠は思いのほか奮戦したので落城せず持ちこたえています。陰徳記によれば、信忠側は三百兵ほどで元繁側は約五千兵で圧倒的な不利な状況でした。落とすことができない有田城から元就居城の多治比猿掛城に向けて元直が六百兵を率いて侵攻していきます。到着してからまず、元就を城から引きずり出すために城下を燃やし挑発しました。
この行為を見逃せない元就は、約百五十騎を率いて城から打って出ます。勢いのあった毛利軍は見事、元直を退けることができました。
猛将熊谷元直を討ち取り勝利への光が差す
多治比猿掛城で元直を撃退した元就は、この状況を好機とし隣国小領主の相合元網・桂元澄・福原貞俊を筆頭に七百兵を集結させ宮庄経友と合流し有田城へ向かいます。有田城付近の又打川まで兵を進めていた元就だったが、兵力に差がある状態でした。兵力差で増さる元繁は、元直を毛利・吉川連合軍へ五百兵を率かせて迎撃に向かわせます。
開戦時は、弓矢を射て攻撃していた連合軍だったが元繁と元直に挟撃される恐れがあると思った元就は遠距離から近距離攻撃へと切り替え真っ正面から衝突しました。この様子を見た元直は、兵力で上回っていることで連合軍を侮り前線で指揮を執り始めます。過信していた元直は、前線に出すぎたことで経友の放った弓矢が額に刺さり討ち死にしてしまいました。
この元直討死の知らせ聞くと、元繁は激昂し有田城に少兵だけを残し連合軍へと兵を率いていきます。
戦況を見極める目を持っていた
元繁は元直の兵力を失っても尚、連合軍よりも兵力は増さっているため鶴翼の陣を組み徐々に連合軍の兵力を削ぐことを狙っていました。そんな中、兵を割いたことで好機と見た忠信は、有田城から打って出ることにします。しかし、率いていた兵が三百に対して武田軍は七百と不利である状況に変わりはなくあっという間に敗走を始めてしまいました。
これを見過ごすと勝機が薄くなってしまうと感じた元就は、小田軍を激励し敗走を踏みとどまめます。両軍一進一退を繰り返すも兵の疲れに伴い膠着化していました。優位的な状況で焦り出した元繁は、自ら前線へ立とうと前進してきます。元繁が動いたことを確認した元就は、元繁の前線へ弓矢を一斉に放ちました。この攻撃を受けた元繁は、体に弓矢を射られ又打川の水際に転落してしまい井上光政に討ち取られてしまいます。
この戦で元就が元繁を討ち取ったことがきっかけとなり武田氏は衰退の道を辿っていきました。

応仁の乱直後は、一大勢力を築き上げていた大内氏・尼子氏のどちらかにつくしか家を存続させることが唯一の方法だったようだな。また、父を失ったが杉大方のおかげ逞しく育つことができたようだ。後に自分の子供達に、宛てた手紙でも感謝していることが記されていることから元就自身を大きく変えた存在であったことが分かるな。
元就の初陣だった、有田合戦を後世では西国の桶狭間とも呼ばれているようだ。この戦に関して、大内義興は元就のことを神妙だったと高い評価をしているな。
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