今回はヨーロッパの名門中の名門ブルボン家について学んでいきます。ブルボン家は、フランスを治めた王朝で有名な人物だとルイ14世やルイ16世がいるぞ。他にも多くの有名な人物たちがいるから、ヨーロッパの歴史について詳しいまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこがフランス文化を築き上げたブルボン家について紹介していく。

ブルボン家とは?

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ブルボン家とは、ヨーロッパの名門中の名門の一族です。16世紀にブルボン家のアンリ4世によって開かれたブルボン朝。そんなブルボン家には歴史を彩る人物が大勢います。例えばフランスの絶対王政の絶頂期を築いたルイ14世やフランス革命で倒れることになったルイ16世など。ここでは、そんなブルボン家のルーツやブルボン家出身の人々をピックアップして紹介していきます。

ブルボン家のルーツと王家の紋章

ブルボン家のルーツはカペー朝の傍流でした。アンリ4世の父はブルボン家の当主であったため、アンリ4世はヴァロワ朝に世継ぎがいない場合は王位継承権を得られるポジション。ちなみにアンリ4世がプロテスタントを信仰していたのは、彼の母の影響です。そしてブルボン家の多くの人物の名前にはルイがついている者が多く、ルイ王朝とも呼ばれています。そしてブルボン家はルイ14世によってスペインにも誕生することに。

またブルボン家の紋章は百合です。よく歴代の君主は、白い衣装と青いビロードに金糸の百合の刺繍が入った衣装で描かれていますね。ちなみに白はブルボン家のシンボルカラーです。

ブルボン朝を開いた「宙返りのアンリ」

Francois Dubois 001.jpg
By François Dubois - [1], パブリック・ドメイン, Link

ブルボン朝の始祖であるアンリ4世。彼には「宙返りのアンリ」というあだ名があります。このあだ名は、アンリ4世が自身の信仰する宗教をコロコロと変えたことからついたもの。ではなぜ彼は宗教を変えたのでしょうか。

当時のフランスは宗教戦争で大混乱!

アンリ4世が即位する直前のフランスはユグノー戦争で混乱していました。ユグノー戦争は、カトリックとプロテスタントの宗教戦争であり、ユグノーとはカトリック側から見たプロテスタントの呼び名。フランスはもともとカトリックの信仰国でしたが、ドイツから始まった宗教改革運動の波がフランスにも波及しました。国王シャルル9世カトリーヌ・ド・メディシスはユグノーを弾圧しますが、次第にユグノー信者は増加することに。

ユグノー戦争はカトリックとユグノーの対立でもあり、貴族の対立でもありました。そして、カトリックのスペインとプロテスタントのイギリスの代理戦争という面も。

3アンリの戦い

ユグノー戦争は次第に、貴族たちの争いに発展することに。ヴァロワ朝のアンリ3世、名門貴族ギーズ家出身アンリ、ブルボン家のアンリら三人の争いは3アンリの戦いと呼ばれています。最終的にヴァロワ朝とギーズ家のアンリは暗殺されたため、ブルボン家のアンリが冠を手にすることに。

しかし国内は混乱していたため、武力で治めていきます。国内を制圧しても問題はまだありました。ブルボン家のアンリはプロテスタントだったため、フェリペ2世が納得しなかったのです。そこでアンリはプロテスタントからカトリックへ改宗することに。1594年にカトリック教徒としてアンリ4世はフランスに迎えられました。

アンリ4世、「ナントの王令」を出す

アンリ4世は1598年にナントの王令を出し、ユグノー戦争を終結させます。ナントの王令はユグノーたちに制限はありますが、信仰の自由を保障。そしてアンリ4世自身もカトリックからユグノーへと改宗しました。

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フランスをヨーロッパ1にした「太陽王」

Louis XIII, Anne of Austria, and their son Louis XIV, flanked by Cardinal Richelieu and the Duchesse de Chevreuse.jpg
By unidentified painter from France, パブリック・ドメイン, Link

アンリ4世の治世後、ルイ13世が即位します。そして次に即位したのは、「太陽王」と呼ばれるルイ14世。彼は絶対王政の最盛期に君臨しました。ルイ14世はフランスを軍事面、文化面ともにヨーロッパ1にします。さて、そんなルイ14世は一体どんな人物だったのでしょうか。

5歳で即位したルイ14世

ルイ14世は5歳で即位します。宰相マザランから、帝王学や実践的な政治を学んだルイ14世。マザランの死後、ルイ14世は宰相を廃止して親政を始めます。親政とは国王自ら政治を行うこと。また大臣が権力を持ちすぎないように行政官に引き下げて王の権力を強め、徴兵制によって軍備を強化し絶対王政の絶頂期を築きました。経済面ではコルベールを登用。コルベールは重商主義を取り、フランスに多くの冨をもたらすことに。そしてルイ14世はこれを元にヴェルサイユ宮殿の建設費や戦費に当てました。

しかし晩年にナントの王令を廃止したことで、20万ものユグノー教徒が亡命する事態に。ユグノー教徒は裕福な商人らが多く、結果としてフランス経済の停滞を招くことに。

戦争好きなルイ

戦争好きとしても知られるルイ14世。彼は親政54年間の内32年も戦争に明け暮れました。ルイ14世が起こした大きな戦争は、ネーデルラント戦争やスペイン継承戦争などがあります。しかし戦争のしすぎで治世の晩年には財政が悪化。さすがに戦争しすぎたことを後悔したそうです。

何もなかった沼地を壮大な宮殿に

ルイ14世は1661年からヴェルサイユ宮殿を建設します。もともとヴェルサイユは沼地でした。宮殿建設は30年以上も続き、多くの農民が命を落とすことに。

ルイ14世は貴族らを宮殿に呼び住まわせました。貴族にとっては没落を防ぎ特権を維持したい思惑があり、ルイ14世にとっては監視することが目的でした。

完成したヴェルサイユ宮殿は、他国の君主をも魅了します。プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのマリア・テレジアなどはヴェルサイユをイメージした宮殿を造り、フランス語を話しフランス語で手紙を書くほどでした。

フランス文化のパトロン

ヴェルサイユ宮殿内では行事や行動などが儀式化されていました。また宮廷内ではダンスや音楽が必須ででした。ルイ14世はフランス文化にも力を注ぎ、多くの芸術や化学アカデミーが誕生しました。彼が保護した有名な文学者や芸術家には、コルネイユやシャルル・ルブタンらがいます。

スペイン・ハプスブルクからのプリンセス

ルイ14世が22歳の時、スペインからハプスブルク家出身のマリア・テレサが嫁いできました。この結婚はピレネー条約によって決まったことでした。条約ではフランスはスペインから賠償金を求めない代わりに持参金を持ったスペイン王女をもらうというもの。そして2人の間に生まれた子どもはスペインの継承権を持たないという内容でした。

かつては栄華を誇ったスペインも、今や没落しつつあり持参金を持たせることができませんでした。マリア・テレサは既に時代遅れとなったドレスで嫁いできたため、宮廷人に影で笑われてしまいます。彼女はもともとフランスへ嫁ぐ予定ではなかったため、フランス語の教育は十分とは言えず、嫁いだ後苦労することに。

ヴェルサイユに移って1年後に、王妃は44歳でこの世を去ります。彼女の死を知ったルイ14世は、「彼女が余に迷惑をかけるのはこれが初めてだ。」と言ったそう。

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マリア・テレサがもたらしたもの

マリア・テレサがフランスにもたらしたものはココアとスペインでした。

彼女が亡くなって17年後にスペインは継承者問題に直面。カルロス2世が世継ぎなく亡くなったのです。

ルイ14世はマリア・テレサが結婚時に持参金を持ってこなかったことを理由に条約は無効とし、継承問題に口を挟みました。ここからスペイン継承戦争が起こりフランスが勝利。ルイ14世は孫をフェリペ5世にすることを承認させました。こうしてブルボン家はスペインにも広がることになりました。

フランス革命の激動を生きたルイ16世とアントワネット

フランス革命の時に治めていた悲劇の王、ルイ16世とその王妃マリー・アントワネット。彼らは絶対王政が揺らぎ、貴族、民衆が王政を否定し革命を起こしたことで、革命の波に飲み込まれました。ここではそんなルイ16世とマリー・アントワネットについて紹介していきます。

政略結婚だった2人

ルイ16世とマリー・アントワネットは政略結婚でした。当時のフランスとオーストリアは長い間対立してましたが、イギリスがプロイセンに接近したため、両国は関係を改善させることに。こうしてマリー・アントワネットは、かつての敵国フランスへと嫁ぐことになりました。

しかし2人の結婚式では3つの不吉な出来事が起こりました。1つは結婚式場に用意された布に描かれた絵がギリシャ神話のメディアだったのです。メディアは、夫が裏切ったため自分たちの子どもを殺してしまう異国の王女の話。とても結婚式に使える絵ではありません。2つ目は、ヴェルサイユでの結婚式で急に天気は崩れ大嵐になったことです。日を改めて式を行うと群集が押し寄せたため100人以上の死傷者が出ることに。3つ目は、結婚契約書での署名でアントワネットがサインした時にインクを落としたことです。紙に落ちた大きなシミはこれからの2人の不幸を暗示しているよう。またアントワネットのサインは右肩下がりでした。まるでゆっくりと不幸がやってくるように。

赤字婦人と呼ばれた王妃

結婚式の不吉な予兆とは裏腹にアントワネットはフランス国民から歓迎されます。彼女は平和の象徴とされたのです。しかしアントワネットは7年経っても子どもを授かることはできません。この原因はルイ16世にあり、その後ルイ16世が手術をしたことで子どもを授かりますが、既に国民からの人気は落ちていました。

アントワネットは次第に宝石や衣装にと浪費し、芝居や舞踏会と遊び惚けます。フランス国民の間では彼女のことを赤字婦人と呼ぶように。

公式寵姫を持たなかったルイ16世

またルイ16世は当時の王としては珍しく、公式寵姫を持ちませんでした。本来公式寵姫は王妃のスケープゴート。王政の政策で失敗や財政難となった場合、公式寵姫が政治に口を出した、あるいは贅沢をしたから財政難になったとされ、国民から非難される存在でした。つまり、王妃は世間から守られていたのです。しかしルイ16世には寵姫がいなかったため、贅沢三昧をするアントワネットに国民の怒りが向かうことに。

フランス革命勃発

バスティーユ牢獄襲撃を皮切りにフランスは革命に突入しました。革命政府が主導し、ルイ16世とマリー・アントワネットはギロチンにかけられることに。ちなみにギロチンはルイ16世の提案で改良が加えられ、以前よりもよく切れるように。まさか自分がかけられるとは思わなかったでしょうね。

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フランス革命の意義

フランス革命は、これまでの絶対王政を築いてきた王政に変化を生じさせました。また単なる国王処刑にとどまらず、絶対王政を行っている他国の君主たちにも危機感をもたらせます。そして革命議会が採択した人権宣言は自由や平等などの理念を世界に広めました。革命後のナポレオンによるヨーロッパへの侵攻によってこれらの理念は浸透し、各国の自由主義ナショナリズムへと繋がることに。

ブルボン朝の最期

フランスではルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されていた頃、スペイン・ブルボン家ではカルロス4世の治世でした。フランス革命の余波は隣国スペインへも波及することに。ここではスペイン、フランスのブルボン家の最期の君主を紹介していきます。

スペイン・ブルボン家の終焉

La familia de Carlos IV, Francisco de Goya.jpg
By フランシスコ・デ・ゴヤ - Museo Nacional del Prado, パブリック・ドメイン, Link

スペイン・ブルボン家は当時カルロス4世の時代でした。しかし実際に政治の実権を握っていたのは、王妃マリア・ルイサとその愛人ゴドイ

この絵は、宮廷画家ゴヤの「カルロス4世とその家族像」です。通常の肖像画なら、本人たちよりも3割ほど粉飾しますが、この絵は違いました。ゴヤは王家の腐敗を見抜いていたのです。

 この絵が完成された後、フランスではナポレオンがフランス皇帝として即位。そして1808年にフランス軍がスペインに攻め込んできました。なんと息子のフェルナンド7世がナポレオンを引き入れたのです。フェルナンド7世は両親とゴドイに不満を抱いていたのでした。その結果カルロス4世らはスペインから亡命。

両親を追放し即位したフェルナンド7世でしたが、ナポレオンが実の兄をホセ1世としてスペインへ送り込みました。これによってフェルナンド7世は王位を奪われることに。ナポレオンの失脚後に再び王位に就いたフェルナンド7世でしたが、異端審問を再開させ絶対王政の反対者を次々処刑しました。

フェルナンド7世は男児に恵まれなかったため、ここで直系は途絶えることになりました。

王政復古を遂げたブルボン朝

次にフランスです。フランスではナポレオンがエルバ島に流刑となり失脚した際に、ウィーン体制でルイ16世の弟ルイ18世が王位へ。ブルボン家が王政復古を遂げたのです。ルイ18世の政策は、亡命貴族の優遇などを行ったため国民から非難されることに。

そんな中ナポレオンが再びパリに足を踏み入れました。ルイ18世はロンドンへ亡命。ナポレオンの百日天下が終わるとまた王位に就いた18世は、依然として亡命貴族の優遇をします。そんな中メデュース号事件が起きました。この事件では元亡命貴族の船長が船を座礁させて乗客を避難させずに逃げた事件。この事件を題材にジェリコー「メデュース号の筏」が発表されると、人々はブルボン家への憎しみを募らせました。この事件をきっかけに自由主義者がブルボン家の断絶を狙い、後継者のベリー公が暗殺されました。

最期の王、シャルル10世

Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpg
By ウジェーヌ・ドラクロワ - This page from 1st-art-gallery.com, パブリック・ドメイン, Link

ルイ18世が死去すると、シャルル10世が即位。シャルル10世は兄と同じく亡命貴族を優遇し絶対王政を目指します。そして7月革命が起こったのです。7月革命によってシャルル10世はイギリスへ亡命することとなり、ついに250年続いた王朝は幕を閉じることに。

華やかなフランス文化を築き上げた名門

今回はブルボン家のルーツや歴代の有名な人物たちを何人かピックアップして紹介しました。250年余りフランスを治めた一族、ブルボン家。何もなかった沼地が今では世界遺産となったヴェルサイユ宮殿をはじめ、フランスの宮廷文化は世界中の憧れの的となりました。華やかな時代を彩った者もいれば、時代の激動の波に翻弄される者も。

フランスとスペインの歴史を振り返った時に、魅力的な登場人物たちを多く出したブルボン家は今でも多くの人々に人気を博しています。

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フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史世界史歴史

ヨーロッパの名門「ブルボン家」出身者たちを世界史大好き歴女が5分でわかりやすく解説!

今回はヨーロッパの名門中の名門ブルボン家について学んでいきます。ブルボン家は、フランスを治めた王朝で有名な人物だとルイ14世やルイ16世がいるぞ。他にも多くの有名な人物たちがいるから、ヨーロッパの歴史について詳しいまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回はまぁこがフランス文化を築き上げたブルボン家について紹介していく。

ブルボン家とは?

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ブルボン家とは、ヨーロッパの名門中の名門の一族です。16世紀にブルボン家のアンリ4世によって開かれたブルボン朝。そんなブルボン家には歴史を彩る人物が大勢います。例えばフランスの絶対王政の絶頂期を築いたルイ14世やフランス革命で倒れることになったルイ16世など。ここでは、そんなブルボン家のルーツやブルボン家出身の人々をピックアップして紹介していきます。

ブルボン家のルーツと王家の紋章

ブルボン家のルーツはカペー朝の傍流でした。アンリ4世の父はブルボン家の当主であったため、アンリ4世はヴァロワ朝に世継ぎがいない場合は王位継承権を得られるポジション。ちなみにアンリ4世がプロテスタントを信仰していたのは、彼の母の影響です。そしてブルボン家の多くの人物の名前にはルイがついている者が多く、ルイ王朝とも呼ばれています。そしてブルボン家はルイ14世によってスペインにも誕生することに。

またブルボン家の紋章は百合です。よく歴代の君主は、白い衣装と青いビロードに金糸の百合の刺繍が入った衣装で描かれていますね。ちなみに白はブルボン家のシンボルカラーです。

ブルボン朝を開いた「宙返りのアンリ」

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By François Dubois[1], パブリック・ドメイン, Link

ブルボン朝の始祖であるアンリ4世。彼には「宙返りのアンリ」というあだ名があります。このあだ名は、アンリ4世が自身の信仰する宗教をコロコロと変えたことからついたもの。ではなぜ彼は宗教を変えたのでしょうか。

当時のフランスは宗教戦争で大混乱!

アンリ4世が即位する直前のフランスはユグノー戦争で混乱していました。ユグノー戦争は、カトリックとプロテスタントの宗教戦争であり、ユグノーとはカトリック側から見たプロテスタントの呼び名。フランスはもともとカトリックの信仰国でしたが、ドイツから始まった宗教改革運動の波がフランスにも波及しました。国王シャルル9世カトリーヌ・ド・メディシスはユグノーを弾圧しますが、次第にユグノー信者は増加することに。

ユグノー戦争はカトリックとユグノーの対立でもあり、貴族の対立でもありました。そして、カトリックのスペインとプロテスタントのイギリスの代理戦争という面も。

3アンリの戦い

ユグノー戦争は次第に、貴族たちの争いに発展することに。ヴァロワ朝のアンリ3世、名門貴族ギーズ家出身アンリ、ブルボン家のアンリら三人の争いは3アンリの戦いと呼ばれています。最終的にヴァロワ朝とギーズ家のアンリは暗殺されたため、ブルボン家のアンリが冠を手にすることに。

しかし国内は混乱していたため、武力で治めていきます。国内を制圧しても問題はまだありました。ブルボン家のアンリはプロテスタントだったため、フェリペ2世が納得しなかったのです。そこでアンリはプロテスタントからカトリックへ改宗することに。1594年にカトリック教徒としてアンリ4世はフランスに迎えられました。

アンリ4世、「ナントの王令」を出す

アンリ4世は1598年にナントの王令を出し、ユグノー戦争を終結させます。ナントの王令はユグノーたちに制限はありますが、信仰の自由を保障。そしてアンリ4世自身もカトリックからユグノーへと改宗しました。

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