鎖国が続いていた江戸時代、日本人が海外に行くことは禁止されていたんです。しかし、事情によりアメリカに住むことになった男がいた。日本と違う文化に触れ、日本の海外からの評判を聞いた彼はこの国の危機を感じた。命がけで帰国した男は、日本の未来を変えようとしたんです。

そんな『万次郎』の生涯を、幕末マニアのベロと一緒に解説していきます。

ライター/Study-Z編集部

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は幕末期において、海外情勢に最も詳しかった『ジョン万次郎』について詳しくまとめる。

厳しい土佐の身分制度

image by PIXTA / 5906599

使用人だった極貧時代

ジョン万次郎こと万次郎少年は1827年(文政10年)1月1日、土佐の中ノ浜村で漁師の次男として生まれました。

9歳で父を亡くした万次郎は、病弱であった母や兄の代わりに働いて家族を養う事となります。実家が漁師といっても船は無く他人の漁を手伝う事しかできなかったため、わずかな金と魚をもらう程度だったようです。同世代の子供たちが遊んでいるのを横目に、万次郎は毎日働き続けました。

1841年(天保12年)1月5日、全長8メートルほどの船に、船長の筆之丞(ふでのじょう)・その弟重助(じゅうすけ)・その下の弟五右衛門(ごえもん)・ほかに雇われていた寅右衛門(とらえもん)と万次郎の計5人で漁に向かいます。船の事は何も出来なかったので雑用係だったようです。

そして漁から3日目、足摺岬の沖合で突然の嵐が船をおそいました。転覆は免れましたが船はそのまま潮流に乗り、南へと流されてしまいます。もはや潮の流れに任せるしかなかった5人は、嵐の前に取っていたアジを食べて飢えをしのいだそうです。

漂流から5日後、ようやく島が見えました。

壮絶なサバイバル生活

image by PIXTA / 53283405

万次郎たちがたどり着いた場所は『鳥島(とりしま)』でした。当時、日本には『遠島(えんとう)』といって罪人を島流しにする刑罰がありましたが、せいぜい八丈島ぐらい(東京から280キロメートルほど)までだったようで、こんなにも遠くの島(倍以上の580キロメートルほど)まで流れることはあまりなかったのです。

ほら穴で生活を始めた5人は魚や海藻、そしてアホウドリを捕まえたりして食料としていました。嵐にあった時、火打ち石をなくしてしまった彼らは刺身で食べていたため、壊血病にはかからなかったようです。

助かった命は異国へ

漂流から143日目。目の前に、今まで見たことのない大きさの船が島に向かってきました。

アメリカの捕鯨船『ジョン・ハウランド号』は万次郎たちに気づいた訳ではなく、ウミガメの肉と新鮮な野菜が食べたくて島に探しに来たみたいで、救助されたのは偶然だったのです。

船長のホイットフィールドは、とても親切に彼らを迎えてくれましたが当時の日本は鎖国体制をとっていた為、外国船にはとても冷たく近づくだけで砲撃される状態でした。

日本に向かうことが不可能と判断したホイットフィールドは、捕鯨を行いつつハワイへ向かうことを決めます。

\次のページで「自由の国に上陸」を解説!/

自由の国に上陸

image by PIXTA / 33702775

仲間と別れ単身メリケン(アメリカ)へ

ハワイへ向かう道中、万次郎は漁を手伝いました。頭のいい万次郎にジョン・ハウランド号の乗組員たちは万次郎を「ジョン・マン」と呼んで可愛がりました。そして万次郎も魚のとり方、船の作り方と操作の仕方など知っているものよりはるかに優れていたため、異国の文化に興味を持つようになります。

1842年12月ホノルルに到着。このまま日本に帰ると厳しい追及を受けると思ったホイットフィールドは、島の知事に万次郎以外の4人がハワイで暮らせるように話しをつけてくれました。そして、彼は万次郎をアメリカに連れていき養子にしたいと言い出します。すっかりアメリカに魅了されていた万次郎は快諾し、筆之丞らと別れアメリカへと向かうのでした。

差別を乗り越えて

1843年5月7日。万次郎を乗せたジョン・ハウランド号はマサチューセッツ州のフェアヘイブン港に到着。ホイットフィールドは万次郎を教会学校に通わせようとしますが、当時のアメリカは黒人に対する差別があった為、肌の色が違う万次郎も同様の扱いを受け多くの学校から拒否されたようです。

いくつもの学校をまわり、ようやくユニテリアン派教会の学校にはいることができました。人を差別せず、平等に勉強できる学校で万次郎は猛勉強します。優秀な成績を残す万次郎に対し、町の人たちの見る目も次第に変わっていき、ついにオックスフォード校へ入学し、そこで航海術や天文学といった、船乗りとしての専門知識を学びました。

1844年。さらに上のバートレット高等学校に移り寝る間を惜しんで勉強し、全ての教程を抜群の成績で終了したのです。

再び海へ

卒業後、ホイットフィールドの農場を手伝っていた万次郎は、彼の奥さんの勧めもあり捕鯨船に乗ることを決意します。

1846年。ジョン・ハウランド号の乗組員だったアイラ・デイビスが船長を務める『フランクリン号』に乗った万次郎は再び海へ。途中、小笠原諸島に立ち寄ると欧米人が農園を開いていました。海外の船乗りたちは太平洋に中継基地を欲しがっていた為、ここに移り住んでいたのです。彼らと交流を深め再び出港します。

長い航海の末、低い山をあちこちに置いた陸地が長く横に連なっているのが見えました。日本でした。

デイビス船長が万次郎のために船を日本に近づけてくれたのです。その時、漁師の乗った船と遭遇した万次郎は着物を着て鉢巻をし、自分が日本人であることを伝えようとしますが、驚いた漁師たちは逃げて行ってしまいました。未だ鎖国体制の日本には上陸は不可能だったと悟り、船は180度回転しハワイへと進路をとるのでした。

再開した仲間たち

ハワイについた万次郎は昔の仲間である寅右衛門・五右衛門。そして改名して伝蔵(でんぞう)となった筆之丞の3人とは再会できましたが、残念ながら重助は亡くなっていました。

そこで伝蔵と五右衛門の二人も、日本に上陸しようとして諦めた事を聞いた万次郎は、彼らと共に日本に帰国する事を決意し「準備をするから待っていてください」と伝え、フェアヘイブンへと向かいました。

帰ってきた捕鯨の街の雰囲気は以前と変わっていました。アメリカに『』が出たからです。

\次のページで「帰国へ向けて」を解説!/

帰国へ向けて

目指せ!ゴールドラッシュ

image by PIXTA / 28926593

金が発見されたのはカリフォルニアでした。自身の経験を生かすため、海路からカリフォルニアへ向かうことを決めた万次郎は木材を運ぶ貨物船に乗り、ホイットフィールド夫妻に見送られ1849年10月に出港します。

当時のサンフランシスコはゴールドラッシュの影響で、突然姿を現した街だった為、道も舗装されない適当な造りだったようです。しかも物価は目が飛び出るほど高く『ぼったくりの街』でもありました。それでも万次郎は移動に便利な馬を買い、ある川に辿り着き砂金を狙うことにします。大きな金は得られませんが確実で、なおかつ一人でも出来たからです。

そして3か月後、目標としていた500ドルを上回る600ドル以上を手に入れました。

仲間と共に祖国の地を

目標以上の金を手にした万次郎は、日に日に治安が悪化していくカリフォルニアから一日でも早く離れたくなります。そこでハワイからジャガイモを積んできていた船に頼み込み、帰りに乗せて行ってもらう事となりました。

ハワイで再び3人と会った万次郎に問題が起こりました。寅右衛門が「日本に帰らない」と言い出します。帰って生まれた時から決まった人生を送るより、この島で得た『人間としての自由』を選んだのです。

寅右衛門の意思を尊重し、万次郎たちは別れを告げ上海行の船『サラ・ボイド号』に乗せてもらいます。ハワイ政府からパスポートを貰い、上陸用の船である『アドベンチャラー号(アドベンチャー)』を購入し出航。

1851年、沖縄に上陸しました。

母との再会

万次郎たちは、沖縄の奉行所で厳しい取り調べを受けます。海の向こうから来た彼らを信用してくれず、アメリカのスパイだと疑われてしまったのです。

薩摩に移された彼らは、藩主『島津斉彬(なりあきら)』の前に連れていかれます。この時の斉彬は「外国の技術を取り入れるべき」と考えていた為、万次郎の持つアメリカの知識を歓迎してくれました。

その後、長崎の奉行所に送られます。ここでアメリカで買ってきた本、計器。母へのお土産さえも没収されてしまったのです。

1852年。帰国してから1年半、漂流から11年目、25歳になった万次郎は故郷、土佐に帰ってきました。母と再会した万次郎は、自分の墓が作られていたことを知ります。日付は11年前のあの日。

再会を祝していた万次郎のもとに、土佐藩政『吉田東洋(とうよう)』からの迎えが来ます。彼もまた、海外諸国に興味を持っていたのです。蘭学の素養があった絵師・河田小龍(かわだしょうりょう)は万次郎と同居し、彼の話を聞き取り4冊の本『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)』にまとめました。

さらに、藩校である『教授館』の講師に任命され、後の明治時代の中枢を担う『後藤象二郎(しょうじろう)』、三菱財閥を創立する『岩崎弥太郎(やたろう)』などを生徒に持ちました。

時代は激流へ

image by PIXTA / 42314992

\次のページで「アメリカからの脅迫」を解説!/

アメリカからの脅迫

万次郎が土佐に戻ってから1年後の1853年、浦賀沖にアメリカ艦隊が出現しました。提督であるペリーは和平交渉するつもりは初めから無く、砲門を開き脅しに近い交渉で開国を迫りました。

当時、まともに英語がはなせるのは万次郎だけだった為、交渉時の通訳として江戸にむかいます。江戸に着いた万次郎は、幕府直参となり生まれ故郷の地名を取って『中浜』の姓を授けられました。その後、江川太郎左衛門(英龍・ひでたつ)の配下として、軍艦教授所で造船や測量などの航海術や、英語の指導にあたっていました。そして翌年、返事を聞くために再来したペリーとの通訳として正式に任命されるのです。

しかし交渉当日、万次郎の姿はありませんでした。「アメリカで教育を受けたスパイではないか」と疑惑を持つ幕府の老中に、嘘の時間を教えられていたからです。

1854年3月『日米和親条約(にちべいわしん)』は結ばれ、港は開かれました。

条約締結の後

日本が開港したことにより、大きな船の製造、使用が許可されました。ロシアから幕府に送られていたスクーネル船(マストを2本以上持つ縦帆船)を手に入れた万次郎は捕鯨船として使用。品川から出港し小笠原へ向かいます。しかし、嵐により船は損壊し失敗に終わりました。

1860年。日本の使節団は、二年前に新たに結んだ『日米修好通商条約』の正式な調印書の交換のため、アメリカのワシントンへと向かいます

同行するため幕府がオランダに造らせた『咸臨丸(かんりんまる)』に乗った万次郎は、船酔いが酷く動けない船長・勝海舟に代わって指揮を執り3月18日にサンフランシスコに到着。日本の船が初めて太平洋を横断したのです。しかも、同時に出港したアメリカ船『ポーハタン号』より10日早い到着でした。

損傷の酷かった咸臨丸はサンフランシスコで一ヶ月間の修理を受けます。その間、万次郎は同行した福沢諭吉と共にウェブスター辞典を購入し、後の日本における英語教育にかけがえのない役割を果たしたのです。

晩年の万次郎

帰国後、咸臨丸を含む艦隊で小笠原諸島の調査へ向かい、フランクリン号で立ち寄った時の知り合いたちと再会しました。

1866年には土佐藩の藩命で『開成館』設立にあたり、藩士たちに英語や航海術を教えます。その後、後藤象二郎と共に長崎・上海に渡り『夕顔丸』を購入。この船の中で坂本龍馬は『船中八策』を起草したのです。そして明治維新後は、新政府より『開成学校(現・東京大学)』の英語教授になったのでした。暇を見つけては捕鯨や、小笠原の調査に行っていたようです。

1870年、普仏戦争(ふふつせんそう)視察団として大山巌(いわお・西郷隆盛の従兄弟)と共に欧州へ。帰国の際、アメリカに立ち寄った万次郎はホイットフィールドと20年ぶりに再会しました。黙って別れたことを詫び、自身の日本刀を贈ります。さらにハワイへも立ち寄り懐かしい再会を喜びました。帰国後、軽い脳溢血を患い、それ以降は静かに暮らすようになります。

1989年、71歳で万次郎はその生涯を終えました。

漂流からの帰国は運命だった

欧米諸国がアジアへ進出し、植民地支配を広げていた時代。清(現・中国)やインド、カンボジアなどは侵略されていました。万次郎の漂流から帰国までのタイミングは、まるで日本を守るために神様が導いたようですね。海外の知識を持つ彼が帰国していなければ…。

新時代、明治を迎えた日本ですが実力社会となるのは、まだまだ先の昭和になってからとなります。現在の日本の姿を最初に理想像にしていたのは『中浜万次郎』だったのです。

" /> 幕末に生きたもう一人の英雄『ジョン万次郎』について幕末マニアが5分で詳しくわかりやすく解説 – Study-Z
幕末日本史歴史江戸時代

幕末に生きたもう一人の英雄『ジョン万次郎』について幕末マニアが5分で詳しくわかりやすく解説

鎖国が続いていた江戸時代、日本人が海外に行くことは禁止されていたんです。しかし、事情によりアメリカに住むことになった男がいた。日本と違う文化に触れ、日本の海外からの評判を聞いた彼はこの国の危機を感じた。命がけで帰国した男は、日本の未来を変えようとしたんです。

そんな『万次郎』の生涯を、幕末マニアのベロと一緒に解説していきます。

ライター/Study-Z編集部

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は幕末期において、海外情勢に最も詳しかった『ジョン万次郎』について詳しくまとめる。

厳しい土佐の身分制度

image by PIXTA / 5906599

使用人だった極貧時代

ジョン万次郎こと万次郎少年は1827年(文政10年)1月1日、土佐の中ノ浜村で漁師の次男として生まれました。

9歳で父を亡くした万次郎は、病弱であった母や兄の代わりに働いて家族を養う事となります。実家が漁師といっても船は無く他人の漁を手伝う事しかできなかったため、わずかな金と魚をもらう程度だったようです。同世代の子供たちが遊んでいるのを横目に、万次郎は毎日働き続けました。

1841年(天保12年)1月5日、全長8メートルほどの船に、船長の筆之丞(ふでのじょう)・その弟重助(じゅうすけ)・その下の弟五右衛門(ごえもん)・ほかに雇われていた寅右衛門(とらえもん)と万次郎の計5人で漁に向かいます。船の事は何も出来なかったので雑用係だったようです。

そして漁から3日目、足摺岬の沖合で突然の嵐が船をおそいました。転覆は免れましたが船はそのまま潮流に乗り、南へと流されてしまいます。もはや潮の流れに任せるしかなかった5人は、嵐の前に取っていたアジを食べて飢えをしのいだそうです。

漂流から5日後、ようやく島が見えました。

壮絶なサバイバル生活

image by PIXTA / 53283405

万次郎たちがたどり着いた場所は『鳥島(とりしま)』でした。当時、日本には『遠島(えんとう)』といって罪人を島流しにする刑罰がありましたが、せいぜい八丈島ぐらい(東京から280キロメートルほど)までだったようで、こんなにも遠くの島(倍以上の580キロメートルほど)まで流れることはあまりなかったのです。

ほら穴で生活を始めた5人は魚や海藻、そしてアホウドリを捕まえたりして食料としていました。嵐にあった時、火打ち石をなくしてしまった彼らは刺身で食べていたため、壊血病にはかからなかったようです。

助かった命は異国へ

漂流から143日目。目の前に、今まで見たことのない大きさの船が島に向かってきました。

アメリカの捕鯨船『ジョン・ハウランド号』は万次郎たちに気づいた訳ではなく、ウミガメの肉と新鮮な野菜が食べたくて島に探しに来たみたいで、救助されたのは偶然だったのです。

船長のホイットフィールドは、とても親切に彼らを迎えてくれましたが当時の日本は鎖国体制をとっていた為、外国船にはとても冷たく近づくだけで砲撃される状態でした。

日本に向かうことが不可能と判断したホイットフィールドは、捕鯨を行いつつハワイへ向かうことを決めます。

\次のページで「自由の国に上陸」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: