永らく続いた江戸時代が終わり、新たに明治時代が始まった。新政府組織の中には長州(現・山口県)出身の者たちが多くいたんです。一つの時代を終わらせるために彼らの中心となって奔走し続けた『久坂玄瑞』。

師の遺志を継ぎ、時代を駆け抜けた男の生き様を幕末マニアのベロと一緒に解説していきます。

ライター/Study-Z編集部

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は倒幕運動の先駆者となった『久坂玄瑞』について詳しくまとめる。

影響を与えた兄と師

神童だった幼少時代

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1840年(天保11年)5月萩城下の平安古本町(ひやこ)にて、藩医である父の久坂良廸(りょうてき)と母の富子の3男として生まれ、秀三郎(ひでさぶろう)と名付けられます。次男が3歳で亡くなった事も影響していたのでしょう。晩年になって生まれた秀三郎を両親は溺愛し、20歳も年の離れた長男『玄機(げんき)』も弟を可愛がりました。

玄機は家業を継いで医師となるのですが、海外諸国からの侵略に危険を感じ医書よりも兵書の研究に没頭します。さらに翻訳して藩の軍備向上に貢献していました。彼の知人である妙円寺住職の月性和尚(げっしょう)も海防論の持ち主で、よく二人は熱く語り合っていたようです。そんな二人の激論を日常的に聞きながら、秀三郎は育ちました。

秀三郎は吉松松山(よしまつしょうざん)の経営する『吉松塾』で素読を学んでいました。私塾の中では名門であった吉松塾で秀三郎は「開塾以来の秀才」と評されます。素読とは「意味を考えず、文字だけを声に出して読む」事ですが、秀三郎は、吉松が試しに一文を解釈させてみると、ほぼ完璧に読解したそうです。この塾で一歳年上の高杉晋作と出会います。性格は正反対だったようですが何故か二人は気が合ったようで、お互いの家を行き来する仲となりました。

基礎学力を身につけた秀三郎は、医師の道を目指すため兄・玄機の勤める『好生館』に進みます。ここでも成績は群を抜いてい、兄を超える逸材と噂されていました。

1853年(嘉永6年)アメリカのペリー提督が浦賀に現れ日本に開国を迫りました。幼い頃より玄機と月性和尚の議論を聞いて育った秀三郎は、この事態をきっかけに国事に関心を抱くようになります。

不幸の連鎖

ペリー来航から二か月後、14歳になった秀三郎のもとに不幸が続きます。母・富子が亡くなり、更に半年後には兄・玄機が急死。父・良廸は秀三郎の嫡子届を行い家督を継がせました。その数日後、良廸も亡くなってしまいわずか半年で父母兄をすべて失ってしまったのです。

身寄りの無くなった秀三郎は萩を離れ、母の血縁である大谷家に引き取られました。その家で一冊の本に魅了されます。水戸学者の藤田東湖(とうこ)の『回転詩史(かいてん)』は夢にまで現れるほどで、その後の秀三郎にとって尊王攘夷思想(そんのうじょうい)の原点となるのです。

加速する尊王攘夷の想い

大谷家に引き取られてから二か月後、これまでの成績を認められ好生館の寮生とする許可が下り萩へと戻ります。この時、藩医として頭を丸め名を『玄瑞(げんずい)』と改めました。寮生になると寮費は藩負担となるため、学業に専念できる環境でしたが玄瑞の心は国家の行く末ばかり考えて過ごすのです。

「人を治すより国を治したい」そう強く思っていたのでしょう。

玄瑞が17歳の時、九州へ遊学します。九州は地理的にも近く、国内唯一の貿易港・長崎があるからでした。町並みと停泊する巨大な外国船を見た玄瑞は外国の技術力の高さを痛感しました。

松陰への手紙

遊学の最大の目的は肥後藩(現・熊本)の宮部鼎蔵(ていぞう)と会う事でした。肥後勤王党の中心人物で、長州藩士とも交流のあった宮部は吉田松陰(しょういん)との面会を進めました。

月性和尚の知人である土屋蕭海(しょうかい)の紹介状添え、松陰に手紙を送ります。「使者を斬るべき」といった内容ですが、手紙は送り返され、空白には「その議論は浮ついて、思慮浅い」と書かれていました。

これまで秀才として生きてきた玄瑞にとって、これほど屈辱を受けたことはありません。怒りがこみ上げ反論文の作成に取り掛かりました。「宮部が称賛し、私が豪傑だと信じたのは間違いだった」という内容です。

対する松陰「自信の立場を忘れ、空論をもてあそぶと弾劾されるぞ」と、自己陶酔する若者を厳しくたしなめました。

松陰の本心は玄瑞を試していたのです。同じころ蕭海にあてた手紙には「彼は非凡な才能なので大成させたい、反論してくるなら本望。おとなしくなるなら見込み違いだ」と記されていました。そして3通目「異人を斬って断交すべきだ」と結論をだします。「実際に達成出来たら、私は反論できない」との返事。

玄瑞の負けでした。医学生の身である自分にそんな機会も実力もありません。空論だと認めるしかなかった玄瑞は松陰に弟子入りを決意します。

\次のページで「長州藩士の中心として京都で活躍」を解説!/

長州藩士の中心として京都で活躍

松下村塾での松陰の教え

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吉田松陰はペリー来航時、異国の技術力を自分の目で確かめるために黒船に乗り込もうとしますが、失敗し捕らえられてしまいました。その後、自宅幽閉となった松陰は弟子たちに学問を教え始めます。

松陰の教えは、漢文の丸暗記といったものではなく「生きた学問」です。何か疑問が生じると自信も含め全員で意見を述べ合い、納得のいくまで議論しあいました。さらに、遊歴時代に交流を持った人たちと手紙を交わし、各地での最新情報を入手し記入した『飛耳長目(ひじちょうもく)』を弟子たちに読ませ、自由討論させ考察力を磨かせたのです。

『松下村塾(しょうかそんじゅく)』と呼ばれたこの私塾で学ぶ玄瑞は、吉松塾以来の親友である高杉晋作と再会、高杉も松陰に魅力を感じ弟子として入塾しました。秀才型で人望のある玄瑞、異才型で人望のあまりない高杉。やはり正反対の二人は、やがて『松下村塾の双璧』と並び称されるのです。

その後、松陰は自身の妹である『文』に玄瑞との縁談を持ち掛け1857年12月5日婚礼が執り行われました。

見聞を広め、学識を高める

翌年、松陰の勧めもあり諸名士との交流を深めるため江戸への遊学に出ます。道中、京都へ滞在し松陰と交流のあった梅田雲浜(うんぴん)ら有力者と出会い、江戸へ入って同じ長州藩士の桂小五郎を頼りました。その半月後、幕府の大老となった井伊直弼(なおすけ)は天皇の勅許を得ないまま『日米修好通商条約』の調印を許可したのです。

天皇の許可なく調印した幕府に対し、怒りが沸騰した各地の志士たちは朝廷のお膝元である京都へ終結し始め、玄瑞もまた京都へ向かうのでした

暴君の弾圧

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京都で雲浜と再会した玄瑞は、各地の志士達と協力し幕府を倒す事を決意しますが、江戸から帰国命令が出た事、雲浜から時期尚早と諭された事もあり江戸に戻ります。気の強い玄瑞は逃げたと思われるのが嫌だったようで、京都で知り合った西郷吉之助(のちの隆盛)ら同士に事情を説明して回り帰国しました。

その一月後、事態は急展開をみせます。梅田雲浜・橋本左内(さない)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らが次々と捕縛され、捕吏から逃げようとした西郷は入水自殺を図ります(のちに蘇生)。『安政の大獄』とよばれた弾圧です。そして松陰も捕らえられてしまいました。

長州藩直目付(じきめつけ)であった長井雅樂(うた)は幕府から、松陰の江戸召喚令を携えて帰国しました。幕府の取り調べに対して梅田雲浜との会話内容、そして密航計画の真意も語り幕府側は納得し松陰を解放しようとしました。

その時、なんと松陰は『老中間部詮勝(まなべあきかつ)』の暗殺を計画したと自ら話し始めたのです。

1859年(安政6年)10月27日松陰は処刑されました。

中心に陣取るのは長州

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立ち上がる志士!永井雅樂との対決

1860年(安政6年)3月3日、井伊直弼が水戸藩士らに暗殺される『桜田門外の変』が発生、知らせを聞いた玄瑞たちは歓喜に沸きました。同時に何も出来なかった自分への悔しさと、実行に移した水戸藩士らに羨望に似た感情を持ったのです。そして桂小五郎の口利きで水戸・土佐・薩摩などの志士たちと連携し倒幕を目指します。

井伊の後任となった安藤信正は、高まりつつある朝廷の力を利用するため公武合体(こうぶがったい)し、幕藩体制の再編強化を図ろうとしました。この流れに長州藩・永井雅樂は乗り、朝廷と幕府が協力して外交・内政を処理する『航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)』を提唱し、長州藩の藩論として幕府に報告しました。

これに玄瑞は猛反発し「幕府が無勅許で結んだ不平等条約を破棄、天皇主体で国内を統一して軍事力を近代化し、その後に外国と対等の条約を結ぶべき」という『廻瀾条議(かいらんじょうぎ)』を書き、藩に上申します。

長井の政策に幕府は歓迎でしたが朝廷は違いました。「攘夷をとなえるのは浅はか」という内容が、攘夷主義者であった孝明天皇の誹謗にあたるとされたのです。代々尊王思想の厚かった長州藩主・毛利家は天皇の機嫌を損ねたくなかったため長井を帰国させ謹慎、藩主の面目を潰したとして切腹を申し渡されました。これを契機に藩論は攘夷へ転換します。

待ちに待った攘夷決行

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親友・高杉晋作は藩命により上海に向かう幕府勘定方役人に同行し、列強諸国の最新装備と植民地の現状を目の当たりにします。帰国後、玄瑞と合流し各地で攘夷を誘発するためにゲリラ戦法を提案しました。武力行使よりも世論を動かしたい玄瑞は彼と斬り合い寸前まで激しく議論、その場にいた井上聞多(ぶんた)が仲裁に入り玄瑞は受け入れ『イギリス大使館焼き討ち』を実行します。

1863年4月20日、14代将軍家茂(いえもち)は上洛のたびに朝廷より攘夷決行をせまられていたのですが、ついに翌5月10日を攘夷の期日と朝廷に奉答。公家に味方の多かった長州藩は情報をいち早く察知し玄瑞を攘夷のため帰国させ、下関で攘夷に備えさせました。幕府からの指示は「海防を固め、外敵が襲来すれば掃討せよ」ですが、長州勢は掃討だけを忠実に守ります。

下関海峡に陣取った玄瑞は、志願してきた壮士団50名ほどを率いて光明寺に陣取りました。脱藩浪人らがも混じる混成部隊でしたが、正規兵よりも戦意も高く気性も荒い彼らは『光明寺党』と呼ばれ、後の奇兵隊の原型となるのでした。

そして決行の5月10日の午後、田ノ浦沖に泊まる星条旗を掲げた船『ペンブローク』を発見。小舟で接近した見張りの報告によると、神奈川奉行から長崎奉行への書状を託されていました。

公儀の書を運ぶ船への攻撃を躊躇する長州奉行に対し、玄瑞は「奉行と朝命のどちらが大事か」と迫り攻撃を開始しました。これを皮切りに23日にフランス艦「キャンシャン」、26日にオランダ艦「メデューサ」へ砲撃し攘夷を実行します。

失われた権威と止められない想い

一夜にして失脚した8.18の政変

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旧式砲台の射程の短さを補うには対岸の小倉藩の協力が必要でした。朝廷への攘夷報告と小倉藩の協力要請のため、玄瑞は京都へ向かいました。その間にアメリカ艦「ワイオミング」が関門海峡に現れ長州艦に砲撃し2隻が撃沈、1隻が大破されます。さらにはフランス艦「セミラミス」「タンクレード」の2隻が出現し攻撃、上陸したフランス兵は民家を焼き払い砲台を破壊して引き上げました。あてにしていた小倉藩からの協力はありませんでした。

外国艦隊に惨敗した長州藩に対し「暴挙である」と非難の声があがります。当時の孝明天皇は攘夷主義者でしたが、過激な行動を嫌い中川宮(なかがわのみや)に対応を一任。そして会津藩・薩摩藩と協力し長州寄りの公家を追放、さらに長州藩兵の堺町御門の警備任務解き、京都に駐留する権利さえ剥奪しました。、

届かなかった最後の書状

京都藩邸は閉鎖はされず、留守居役人と最小限の要員は認められていました。藩に戻った玄瑞に「京都藩邸勤務」が命じられ、先の攘夷行動について釈明する『奉勅始末書(ほうちょくしまつしょ)』を朝廷に提出する任務を受けます。これは「攘夷決行は勅命を奉じたため」と釈明し、あわせて堺町御門警備の役目回復を嘆願するものでした。

しかし、もはや京都政界に長州の出る幕はありませんでした。書状は黙殺されます。

御所で戦闘!禁門の変

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玄瑞は桂と共に行動しやすい大阪藩邸に移り、今後の対策を練ります。その頃、松平春嶽(しゅんがく)・島津久光・伊達宗城(むねなり)・山内容堂(ようどう)による四候会議が開かれましたが、一橋慶喜の弁舌の前にあえなく解散し諸侯は京都を離れました。さらに将軍家茂(いえもち)も江戸へ帰国し、京都は手薄となりした。

この機会に玄瑞は「兵を率いて東上し、威力を誇示して長州の復権を働きかけるべし」と考え藩の説得に全力を注ぎます。そんな中、京都で『池田屋』に集まっていた志士たちが会津藩『新選組』に襲撃され吉田稔麿・宮部鼎三らが闘死したとの知らせを受けたのです。

復讐に燃える玄瑞たちは、ついに藩主・毛利敬親(たかちか)から出兵の許可を得て、来島又兵衛、真木和泉らと共に進軍します。

道中、玄瑞は嘆願書を作成し「天皇に対する忠誠心は不変である」と強調しました。これに対し一橋慶喜は「大軍で囲み朝廷に冤罪を迫るのは不敬ではないか、まずは兵を引かせるべき。従わなければ討伐も辞さない」と反論。

玄瑞は武力衝突を望んでいたのではなく、京都政界に長州を復帰させたい一心でした。しかし慶喜の圧力に潰されようとしていました。

1864年7月17日、男山八幡宮で軍議が開かれます。「進軍すべき」と口火を切った来島に「こちらから戦闘を仕掛けるのは本意ではない」と返す玄瑞。「身命を惜しむものは残れ、手勢だけで進軍する」と激高する来島に、玄瑞は真木和泉に意見を求めました。

『来島さんと同意見です』

進軍は決定しました。

武士の一分

最後の軍議から2日後、福原越後(ふくはらえちご)隊が戦闘開始、あっさり敗走しますが囮になります。その隙に突撃する来島隊は蛤御門を突破、急を聞いて駆け付けた薩摩軍と激戦を繰り広げる中、一発の銃弾が来島に命中し自害。

天王山に陣取った玄瑞・真木隊は堺御門へ向かいますが、戦意の低い越前兵は敗走します。門内に突入寸前で、またしても薩摩軍が現れ強烈な銃火を浴びせました。真木和泉は17名で天王山に逃れた後、新選組らの追撃を受け全員自害して果てました。

残る玄瑞は『鷹司邸(たかつかさ)』に侵入し銃火を避けます。奥へと侵入し当主・鷹司政通(まさみち)に停戦の勅命を得ようと考えました。最後まで長州を案じ、朝敵の汚名を着せることだけは避けたかったのです。

しかし、鷹司は拒否。ここが死に場所と悟った玄瑞は兵達に手薄な裏門から逃げるよう指示、脱出を図った入江九一は越前兵に見つかり槍で突かれ絶命。残った寺島忠三郎は玄瑞と死ぬことを希望し、お互いに刺し違えて自害し果てました。享年25歳でした。

偉大な人物の死を乗り越えて

倒幕派の若きリーダーとして活躍した久坂玄瑞。失敗することがわかりきっていても、行動に移す「行動哲学」を持った師・松陰の遺志を受け継いだ男は、禁門の変という暴挙に出ました。最後の言葉「大いに勉めてくれよ」を受けとった同志たちは、幕府による長州征伐を退け、幕府の弱体化を露呈させ薩摩と手を組み倒幕は成し遂げられました

明治に入って西郷は桂に対し「お国の久坂先生が生きて居られたら、お互い参議だなどと云って威張っては居られませんな」と言ったそうです。

松陰の魂が乗り移ったとも思える彼の行動は、過激であったことは間違いなく事実でしょう。しかし、倒幕の先駆けとなったことも否定できない事実ではないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

防長一の人物と称された『久坂玄瑞』を幕末マニアが5分で詳しくわかりやすく解説!討幕に全てを注いだ男の短き生涯とは

永らく続いた江戸時代が終わり、新たに明治時代が始まった。新政府組織の中には長州(現・山口県)出身の者たちが多くいたんです。一つの時代を終わらせるために彼らの中心となって奔走し続けた『久坂玄瑞』。

師の遺志を継ぎ、時代を駆け抜けた男の生き様を幕末マニアのベロと一緒に解説していきます。

ライター/Study-Z編集部

歴史が好きなライター志望のサラリーマン。日本史では戦国~明治を得意とする。今回は倒幕運動の先駆者となった『久坂玄瑞』について詳しくまとめる。

影響を与えた兄と師

神童だった幼少時代

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1840年(天保11年)5月萩城下の平安古本町(ひやこ)にて、藩医である父の久坂良廸(りょうてき)と母の富子の3男として生まれ、秀三郎(ひでさぶろう)と名付けられます。次男が3歳で亡くなった事も影響していたのでしょう。晩年になって生まれた秀三郎を両親は溺愛し、20歳も年の離れた長男『玄機(げんき)』も弟を可愛がりました。

玄機は家業を継いで医師となるのですが、海外諸国からの侵略に危険を感じ医書よりも兵書の研究に没頭します。さらに翻訳して藩の軍備向上に貢献していました。彼の知人である妙円寺住職の月性和尚(げっしょう)も海防論の持ち主で、よく二人は熱く語り合っていたようです。そんな二人の激論を日常的に聞きながら、秀三郎は育ちました。

秀三郎は吉松松山(よしまつしょうざん)の経営する『吉松塾』で素読を学んでいました。私塾の中では名門であった吉松塾で秀三郎は「開塾以来の秀才」と評されます。素読とは「意味を考えず、文字だけを声に出して読む」事ですが、秀三郎は、吉松が試しに一文を解釈させてみると、ほぼ完璧に読解したそうです。この塾で一歳年上の高杉晋作と出会います。性格は正反対だったようですが何故か二人は気が合ったようで、お互いの家を行き来する仲となりました。

基礎学力を身につけた秀三郎は、医師の道を目指すため兄・玄機の勤める『好生館』に進みます。ここでも成績は群を抜いてい、兄を超える逸材と噂されていました。

1853年(嘉永6年)アメリカのペリー提督が浦賀に現れ日本に開国を迫りました。幼い頃より玄機と月性和尚の議論を聞いて育った秀三郎は、この事態をきっかけに国事に関心を抱くようになります。

不幸の連鎖

ペリー来航から二か月後、14歳になった秀三郎のもとに不幸が続きます。母・富子が亡くなり、更に半年後には兄・玄機が急死。父・良廸は秀三郎の嫡子届を行い家督を継がせました。その数日後、良廸も亡くなってしまいわずか半年で父母兄をすべて失ってしまったのです。

身寄りの無くなった秀三郎は萩を離れ、母の血縁である大谷家に引き取られました。その家で一冊の本に魅了されます。水戸学者の藤田東湖(とうこ)の『回転詩史(かいてん)』は夢にまで現れるほどで、その後の秀三郎にとって尊王攘夷思想(そんのうじょうい)の原点となるのです。

加速する尊王攘夷の想い

大谷家に引き取られてから二か月後、これまでの成績を認められ好生館の寮生とする許可が下り萩へと戻ります。この時、藩医として頭を丸め名を『玄瑞(げんずい)』と改めました。寮生になると寮費は藩負担となるため、学業に専念できる環境でしたが玄瑞の心は国家の行く末ばかり考えて過ごすのです。

「人を治すより国を治したい」そう強く思っていたのでしょう。

玄瑞が17歳の時、九州へ遊学します。九州は地理的にも近く、国内唯一の貿易港・長崎があるからでした。町並みと停泊する巨大な外国船を見た玄瑞は外国の技術力の高さを痛感しました。

松陰への手紙

遊学の最大の目的は肥後藩(現・熊本)の宮部鼎蔵(ていぞう)と会う事でした。肥後勤王党の中心人物で、長州藩士とも交流のあった宮部は吉田松陰(しょういん)との面会を進めました。

月性和尚の知人である土屋蕭海(しょうかい)の紹介状添え、松陰に手紙を送ります。「使者を斬るべき」といった内容ですが、手紙は送り返され、空白には「その議論は浮ついて、思慮浅い」と書かれていました。

これまで秀才として生きてきた玄瑞にとって、これほど屈辱を受けたことはありません。怒りがこみ上げ反論文の作成に取り掛かりました。「宮部が称賛し、私が豪傑だと信じたのは間違いだった」という内容です。

対する松陰「自信の立場を忘れ、空論をもてあそぶと弾劾されるぞ」と、自己陶酔する若者を厳しくたしなめました。

松陰の本心は玄瑞を試していたのです。同じころ蕭海にあてた手紙には「彼は非凡な才能なので大成させたい、反論してくるなら本望。おとなしくなるなら見込み違いだ」と記されていました。そして3通目「異人を斬って断交すべきだ」と結論をだします。「実際に達成出来たら、私は反論できない」との返事。

玄瑞の負けでした。医学生の身である自分にそんな機会も実力もありません。空論だと認めるしかなかった玄瑞は松陰に弟子入りを決意します。

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