今回はあの有名な真田丸で名を馳せた真田幸村の登場だ!大坂の陣での活躍が華々しい幸村ですが、波乱万丈な人生を歩んでいる武将とも言える。

実力、人気ともにナンバー1とも言える真田幸村について、戦国武将に目がないライター、すのうと一緒に解説していきます。

ライター/すのう

大河ドラマ大好き!特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。今回の真田幸村は戦国武将にはまったきっかけになったとも言える人物。そんな幸村を戦国武将大好きなライターすのうが解説していく。

真田昌幸の次男として誕生

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真田幸村は、真田昌幸の次男として誕生しました。幼名は源次郎、兄に真田信之がいます。幸村の名前の方が定着していますが、実際は真田信繁と呼ばれることの方が多かったようです。ここでは、幸村で統一させていただきますね。生誕は、永禄10年(1567年)または、元亀元年(1570年)などの諸説があり、定かではありません。幸村が活躍するのは、もう少し先のことですが、まずは、その生い立ちを見ていきましょう。

主君を次々と代えた真田家

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武田家に臣従していた真田家ですが、武田滅亡後はお家存続のために主君を転々とし、戦国の世を生きることとなります。昌幸が武田の次に選んだのが、当時一番天下人に近かった織田信長でした。しかし、天正10年(1582年)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、また新たに主君探しが始まります。その間、上杉北条徳川などを転々とし、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭してくると、秀吉に臣従しました

そして、後に関ヶ原の戦い大阪の陣へと発展していくわけです。真田家は戦国を生き抜くため、強い大名に従順していきました。幸村も上杉景勝豊臣秀吉の元で人質の役目を果たしています。いつ何が起こるか分からない乱世ですから、真田家も主君を替えながら戦国を生きるのは、大変ですよね。

幸村の初陣は小田原征伐(北条征伐)

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豊臣秀吉の上洛要請に中々応じようとしなかった北条氏政。そんな時、北条家の家臣であった猪俣邦憲(いのまたくにのり)が真田の所領であった名胡桃城(なぐるみじょう)を奪ってしまうと言う事件が発生します。この行いは「惣無事令」に違反していると秀吉が激怒。惣無事令と言うのは、秀吉の許可なく大名同士が争うことを禁止する掟です。これが発端となり天正18年(1590年)、小田原征伐(北条征伐)が行われることになりました。
幸村の初陣が、この小田原征伐と言われています。昌幸の軍に加わった幸村は、信濃の上野国境にある確氷峠で、北条方の家臣、大道寺政繁相手に適中突破。相手を混乱させるなど大活躍しました。猛攻を続ける真田軍は、松井田城、箕輪城、八王子城、鉢形城を奪い、小田原城包囲にも加わります。この戦いで真田の武勇を高め、秀吉からの信頼も得るようになりました。

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天下分け目の大戦…関ヶ原の戦いが始まる

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慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いがスタートしました。東軍、西軍、どちらに味方するのかで真田家の存続が左右されるのですから一大事です。真田親子は徳川、豊臣と別れて戦う事になりました。家の存続を賭けた昌幸の判断でありましたが、真田家の行く末が気になります。

真田親子は、東西に分かれて戦う

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By 落合芳幾 - 旧[1][2] 東京都立図書館, パブリック・ドメイン, Link

真田幸村は、大谷吉継の娘竹林院(ちくりんいん)を正室に迎えます。小田原征伐が行われる前後に結婚したようですが、豊臣秀吉の命による政略結婚だったそうです。兄、信之の正室は本多忠勝の娘、小松姫。この頃から真田兄弟も東西に分かれて戦う運命だったのかもしれませんね。
吉継は石田三成とは「唯一無二の友」と言う信頼関係を築いており、忠勝は、徳川家康の重臣でもあります。お互いの義父が、この先起こる関ヶ原の戦いでは、東西、敵味方の関係でもあるのですから、どちらに付くかを判断するのは容易ではないでしょう。そして、昌幸の判断は、自分と幸村は西軍。信之は東軍に付くと言うものでした。どちらが勝っても真田を存続できる、昌幸は苦渋の決断を下します。
そして、これを機に幸村の波乱万丈な人生の幕開けとなりました。

第二次上田合戦で兄弟対決?

慶長5年(1600年)石田三成vs徳川家康による関ヶ原の戦いが始まりました。※ちなみに西軍総大将は毛利輝元です。個人的に思うのは名ばかりの大将ですが‥肝心な幸村、昌幸親子は上田城に籠って徳川秀忠軍と応戦していました。
この戦いは、第二次上田合戦と呼ばれ、15年前の一次合戦では、家康が昌幸に敗北しています。父の代わりにリベンジ戦を勝つ!そんな思いがあったのかもしれません。秀忠は信之に、戸石城に籠る幸村を攻撃するよう指示を出します。
兄弟対決?になると思われましたが、信之の開城要求に幸村はあっさりと応じ、戦うことはありませんでした。幸村も信之とは戦いたくありませんよね。そして直接上田城での合戦となったのです。ところが策略家の昌幸は、降伏を了承したものの、中々城から出てこようとせず、秀忠は足止めをくらいます。そのため、大事な関ヶ原の戦いに遅刻をしてしまい、家康からは大目玉をくらってしまいました。結局秀忠は、昌幸に一杯食わされてしまったわけですね。しかし、結果は東軍勝利で終わり、西軍に味方した幸村、昌幸親子は処分が下されることになります。

九度山に幽閉される

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関ヶ原の戦いは東軍勝利に終わり、西軍についていた昌幸、幸村親子は九度山(現在の和歌山県)に幽閉されます。家康からしてみれば、特に昌幸には手痛い目にあっていますので、幽閉で済んだのが不思議な気もしますが、これには周囲の信之や、本多忠勝らの尽力もありました。家臣たちを引き連れて、僅かな支給でやりくりするのは、かなり大変だったようです。信之の仕送りに頼り、昌幸が送金をせがむやり取りが残されていたそうですよ。

昌幸は、蟄居生活の赦免を家康に願い出ていましたが叶うことなく、慶長16年(1611年)65歳で亡くなります。
昌幸死後は、家臣たちの半分以上は上田に帰参。支給も減り、かなり厳しい生活を強いられます。幸村の妻、竹林院が真田紐を考案し、家臣たちに作らせて、生活の足しにしていました。15年の間に家族も増え、食料確保も大変でしたが、周囲の農民たちは、幸村たちに好意的だったと言います。幸村も長い幽閉生活で、風貌もかなり変化したと記していることから、九度山での生活がかなり厳しかったことが分かりますね。

方広寺鐘銘事件が起きる

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関ヶ原の戦いで勝利した徳川家は、ますます勢力を拡大していきます。しかし、家康にとって豊臣秀頼と母である淀殿の存在は、疎ましかったのです。そんな時に起こったのが、方広寺鐘銘事件でした。
方広寺鐘銘事件とは、慶長19年(1614年)京都にある方広寺が完成。方広寺とは、豊臣秀吉が発願した大仏を安置するために作られた、天台宗の寺院です。この鐘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれていました。これに対し家康は、国家安康の文字は、家康の名前を二つに引き離しているので縁起が悪いとクレームをつけます。家康は、秀頼と淀殿に謝罪を求めますが、淀殿の乳母、大蔵卿局が代理で謝罪。
家康は豊臣方に3つの条件を出します。この3つのうち、どれかの条件をのめば許すと言うものでした。
1…淀殿が人質となり、江戸に降る。
2…秀頼が大阪城を明け渡し、一大名となる。
3…秀頼が江戸に住む。
しかし、プライドの高い淀殿はすべて却下。これが引き金となり、大阪の陣へと発展していくのです。

大坂の陣で豊臣軍は敗北する

真田幸村も活躍する、大坂の陣がスタートします。いよいよ、豊臣と徳川の争いも終止符を迎えようとしていました。二度に渡って行われた大坂の陣ですが、最後は豊臣軍の敗北で終結。そして、徳川の時代へと突入していきます。

豊臣vs徳川…大坂冬の陣が始まる

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方広寺鐘銘事件は、徳川と豊臣の間に溝を作り、ほぼ修復不可能な状況にありました。これ以前から両軍は戦に備え準備を始めています。幸村の元にも、大坂城に登城するようにと秀頼からの使者が訪れ、幸村は密かに九度山を抜け出し大坂城に入城。豊臣側も浪人などを集め、大坂城には10万もの軍勢が揃いました。こうして、慶長19年(1614年)豊臣軍対徳川幕府軍による大坂冬の陣が幕を開けます。
幸村はもちろん、豊臣方で参戦。大坂城の出城として築かれた真田丸は有名ですよね。
大きさは推定で、南北270メートル、東西280メートルと言う莫大な大きさ。幸村は、城外の篠山に陣を構え、徳川軍を真田丸におびき寄せる作戦を決行。これにまんまと引っかかった徳川軍に大打撃を与えました。しかし、大坂城は大砲を打ち込まれ、これが淀殿たちの恐怖心を仰ぎ、徳川との和睦を受け入れてしまいます。こうして大坂冬の陣は、幸村の応戦も虚しく終結してしまいました。

大坂夏の陣の始まり

大阪冬の陣は、徳川との和睦と言う形で決着がつきました。和睦の条件として大坂城の外堀を埋めること。もちろん真田丸も取り壊されてしまいます。こうして大坂城の外堀や塀は、ほぼ埋められてしまいました。鉄壁の要塞と言われた大坂城は丸裸となってしまいます。豊臣側も、浪人を雇い外堀の修復を決行しますが、家康の知るところとなり、「今すぐ浪人を追い出す」もしくは、「秀頼が大坂城を退城する」どちらかの選択を要求しました。ところが、秀頼はこれを拒否。こうして大坂夏の陣が勃発します。

幸村を始めとする真田軍は、3500の兵で茶臼山に陣を構えました。丸裸にされ、防御態勢を失った大坂城では籠城することもできません。こうして大坂夏の陣は、豊臣vs徳川の野戦での争いとなりました。徳川の先鋒隊が大坂城周辺に近づいていることを知った幸村は、道明寺で徳川軍と戦うことを決意します。一足先に到着した後藤又兵衛は、伊達政宗らの軍勢と戦い討死。こうして仲間の兵が次々と討ち取られていき、幸村も追いつめられていきます。最後の手段は徳川家康の首!幸村たち豊臣軍は、一か八かの家康の本陣目がけて奇襲作戦を決行。果たして豊臣vs徳川、幸村の追い打ちは功を奏すのでしょうか。

豊臣軍が敗北…真田幸村も死す

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幸村は再三、総大将である豊臣秀頼の出陣を要請しますが、淀殿と家臣たちがこれを拒否。大事な跡取りである秀頼の身に何があるか分からないと、幸村の意見を却下してしまいます。幸村は総大将である秀頼が出陣することによって、軍の士気が上がると考えていました。しかし淀殿からの了承を得られず、徳川家康と直接対決を決意。家康の本陣目がけ戦いを挑むことになります。

大坂夏の陣最後の決戦地に選ばれた場所は天王寺。幸村率いる真田軍も茶臼山に兵を構えました。こうして戦いの火蓋がきられると、真田軍は茶臼山を駆け下り、松平忠直(徳川家康の孫)の兵に突撃。かなりの死傷者を出しながらも突破に成功。家康の本陣に突入します。赤備えで揃えた真田軍はさぞかしカッコ良かったことでしょう。幸村率いる真田軍に押し潰されそうになった徳川軍。家康は切腹を覚悟したと言いますから、どれだけ真田の勢いが凄かったのか予想がつきますね。しかし圧倒的な兵力差で徐々に徳川軍に押され、ついに敗走。疲労した幸村は、少し離れた安居神社で休んでいました。その時、徳川軍の兵士、西尾仁左衛門(にしおにざえもん)に見つかり討ち取られてしまいます。享年49歳でした。

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日本一の兵(ひのもといちのつわもの)真田幸村

大坂夏の陣で敗北した豊臣秀頼と淀殿は自害。徳川幕府の勝利で幕を閉じました。西軍のほとんどは、浪人たちの寄せ集めでもあり、団結力にかけていたのかもしれません。真田も東西に分かれての参戦であったことから、幸村の寝返りを疑う声も多かったとか。戦で「一致団結」は必須。浪人衆たちがまとまって戦う事は、大変だったことでしょう。

そんな中、「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と薩摩藩初代藩主の島津忠恒が称しています。真田昌幸の次男として誕生し、若い頃の詳細などがあまり残っていない幸村ですが、大坂の陣での活躍は人々の心を掴んだことでしょう。徳川軍は三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗北時、徳川家の馬印が倒されたことがありました。そして、それ以来倒されることのなかった馬印が幸村によって倒され、家康は、首を取られるくらいならと、切腹を決意し家臣に止められたそうです。家康に切腹を覚悟させた戦上手の幸村には、英雄と言う言葉が似合いますね。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史江戸時代

大坂の陣「真田丸」で名を馳せた真田幸村…人気実力共にスター武将を歴女がわかりやすく解説

今回はあの有名な真田丸で名を馳せた真田幸村の登場だ!大坂の陣での活躍が華々しい幸村ですが、波乱万丈な人生を歩んでいる武将とも言える。

実力、人気ともにナンバー1とも言える真田幸村について、戦国武将に目がないライター、すのうと一緒に解説していきます。

ライター/すのう

大河ドラマ大好き!特に戦国時代の武将に興味津々なライター。有名、無名を問わず気になる武将は納得いくまで調べ尽くす性格。今回の真田幸村は戦国武将にはまったきっかけになったとも言える人物。そんな幸村を戦国武将大好きなライターすのうが解説していく。

真田昌幸の次男として誕生

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真田幸村は、真田昌幸の次男として誕生しました。幼名は源次郎、兄に真田信之がいます。幸村の名前の方が定着していますが、実際は真田信繁と呼ばれることの方が多かったようです。ここでは、幸村で統一させていただきますね。生誕は、永禄10年(1567年)または、元亀元年(1570年)などの諸説があり、定かではありません。幸村が活躍するのは、もう少し先のことですが、まずは、その生い立ちを見ていきましょう。

主君を次々と代えた真田家

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武田家に臣従していた真田家ですが、武田滅亡後はお家存続のために主君を転々とし、戦国の世を生きることとなります。昌幸が武田の次に選んだのが、当時一番天下人に近かった織田信長でした。しかし、天正10年(1582年)本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、また新たに主君探しが始まります。その間、上杉北条徳川などを転々とし、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭してくると、秀吉に臣従しました

そして、後に関ヶ原の戦い大阪の陣へと発展していくわけです。真田家は戦国を生き抜くため、強い大名に従順していきました。幸村も上杉景勝豊臣秀吉の元で人質の役目を果たしています。いつ何が起こるか分からない乱世ですから、真田家も主君を替えながら戦国を生きるのは、大変ですよね。

幸村の初陣は小田原征伐(北条征伐)

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豊臣秀吉の上洛要請に中々応じようとしなかった北条氏政。そんな時、北条家の家臣であった猪俣邦憲(いのまたくにのり)が真田の所領であった名胡桃城(なぐるみじょう)を奪ってしまうと言う事件が発生します。この行いは「惣無事令」に違反していると秀吉が激怒。惣無事令と言うのは、秀吉の許可なく大名同士が争うことを禁止する掟です。これが発端となり天正18年(1590年)、小田原征伐(北条征伐)が行われることになりました。
幸村の初陣が、この小田原征伐と言われています。昌幸の軍に加わった幸村は、信濃の上野国境にある確氷峠で、北条方の家臣、大道寺政繁相手に適中突破。相手を混乱させるなど大活躍しました。猛攻を続ける真田軍は、松井田城、箕輪城、八王子城、鉢形城を奪い、小田原城包囲にも加わります。この戦いで真田の武勇を高め、秀吉からの信頼も得るようになりました。

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