今日は、三国志において最大の民衆発起(反乱)『黄巾の乱』。その首謀者といわれた太平道の指導者「張角」(ちょうかく)について勉強していこう。官軍に鎮圧されたその乱は、何故起きたのか。何故最大といわれるほど大きいものとなったのか。それを知るにはこの「張角」を避けては通れない。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は張角について、わかりやすくまとめた。

挫折から始まった人生

清代の書物に描かれた張角
By Unknown author - Taken from Gongjin's Campaign Memorials: a Three Kingdoms Wiki

 三国時代最大の反乱を起こした首謀者「張角」(ちょうかく)の幼少期についての資料は、一切残されていません。反乱軍の長の資料など捨てられてしまったのか、はたまた張角自身が、己に神秘性を持たせるために破棄してしまったということも考えられますね。

 そんな張角ですが、青年時代は世を良くしようと、役人(公務員)の試験を受けます。しかし、当時は役人となるためには、コネか莫大な資金が必要であったため、張角は落ちてしまうのです。

 これには、当時の帝に原因があります。「霊帝」(れいてい)と呼ばれるその帝は、先帝に子がなかったため、王族から選ばれましたが、宦官を重用したため、国庫が空になってしまいました。そこで霊帝は、斬新な資金の調達方法を思いつきます。

 それは、官職をお金で売り払う、というものでした。どのような官職でも値札が張られ、資金さえあれば購入が可能なのです。これを現代に置き換えると、防衛大臣の地位を買い取れるようなもの、正気ではないでしょう。

太平道の経典の元となる、太平清領書を手に入れる

 試験には落ち、それでも世のために働こうとする張角ですが、ある時『太平清領書』というものを手に入れます。これは仙人「于吉」(うきつ)が著作したといわれていますが、張角はこれを目にし、衝撃を受けたそうです。

 この本は一度、于吉の弟子が朝廷に献上したそうですが、信憑性のない胡散臭い妖術の本、だと相手にされませんでした。既に失われており、内容については殆ど残っていませんが、どうやら病気の治療法が記されていたようです。

 張角はこの書を使い人々を救おうと、二人の兄弟と共に『太平道』を興しました。

教祖『張角』は、病を治し、世を救う奇跡の人となった

Woodstrips document ACE98 Niya China.jpg
By HEIBONSHA - Kanda, Kiichiro & Tanaka, Yoshimi. Collection of Calligraphy Vol. 2: China Han, HEIBONSHA,Tokyo, 1965., パブリック・ドメイン, Link

 はじめ張角は、街角に立ち『太平道』の素晴らしさを解いていましたが、まるで相手にされませんでした。そこで経典の細部まで目を通すと、とある一節が目に入ります。それは、病の治し方でした。

 経典の内容としては、プラシーボ効果に近い内容だったようです。プラシーボ効果とは、ただのビタミン剤を酔い止め薬として飲んでも、心から信じ切ることで、似た効果を得られるような、いわゆる『偽薬効果』というもの。張角は病人の元を訪れると、太平道の教えを説きながら、符を燃やし、その灰を溶かせた水を病人に飲ませました。そして、

 「この病は過去の悪事の祟りである、太平道の教えを守り悔い改めれば病は直る」

 人間誰しも人に言えない事の一つや二つはあります。しかし、病気のせいですっかり心が弱っていた病人は、張角の超人的な能力に吃驚しました。そして、安心したことが良かったのか、病は快方に向かい始めます。

 当時、医師に診てもらえるのは地位の高いほんの一部の人のみです。民衆は病に罹ったとしても、身体を休める以外の事は出来ません。そんな世で、奇跡の力で病を治す張角の噂はあっという間に広がっていきました。

次々と増えていく信者たち、その数は数十万人まで膨れ上がる

  張角が興した太平道は、その奇跡の力でどんどん信者を増やしていきました。張角の上手い所は、残念ながら病が治らず、亡くなってしまった人がいた時は、病が治らないのは信心が足りないためである、心を入れ替え太平道の教えに準じなければいけない、と説いていったそうです。これがまた、信者の心をがっちりと掴んでいきました。

 この頃の民衆は、度重なる天変地異や重税により疲弊していました。こういった世の中では、民衆に希望はありません。そんな中奇跡の力を持って現れた張角はまさに英雄だったのでしょう。

 自らを『大賢良師』(たいけんろうし)と名乗った張角は、十数年の年月をかけ、8つの州(しゅう、都道府県のようなもの)で数十万人もの信者を獲得しました。あまりにも大人数に至ったため、『方』と呼ばれる軍団に分け、軍事的に組織していきました。

\次のページで「さらに続く朝廷の腐敗、人々の不満は頂点に達する」を解説!/

さらに続く朝廷の腐敗、人々の不満は頂点に達する

image by iStockphoto

 張角が華北一帯において、信者の獲得に奔走しているころ、中央では朝廷の腐敗が続いていました。

 これの発端となったのは、霊帝による政策です。官職を高額で売り払い、その売り上げで国庫は潤いましたが、道徳は地に落ちてしまいました。それまで、せめて内々に行われていた賄賂が白昼堂々行われるようになり、汚職は当然と、政治どころではなくなってしまったのです。

 また、官職を購入できたのはお金持ちだけであり、その投資金を取り戻す方法として、民衆から税として取り上げていきました。そして総資金を取り戻すと、次の人間に売り払い、またその人間は民衆から搾取を行っていくのです。

 こんな事をされては、民衆の不満は溜まっていく一方でしょう。そんな中現れた奇跡の力を持つ張角、この人ならばこの世の中を変えてくれる。そんな願いが民衆の中に広がり、張角の耳に届くのも時間の問題でした。

いよいよ太平道の挙兵、決戦の日は西暦184年3月

 疲弊し、救いを求める民の声は張角の元へと届きました。この時の張角の脳裏には、役人試験に落ちた時の事が過ったことでしょう。世の救いたいと願う者がいる一方で、世を乱す者もいる、もはや道は一つしかない。

 こうして、売官という腐敗した制度がもたらした汚職、そして搾取は、中国全土で朝廷に対する反発を生んでいきました。

 張角は『方』と呼ばれる、1万人規模の軍団を36組織し、各地で潜伏させました。挙兵を決断した張角がまず初めに行ったことは、宦官の買収です。元々は、金に目がくらんだ宦官、あっさりと大金で買収されてしまいました。都・洛陽(らくよう)の門を開かせ、一気に朝廷を滅ぼそうと考えたのです。

 決行は184年3月と決まり、それまでに張角は各地の門に『甲子』と書きなぐり、反乱を煽っていきました。しかし、ここまで念入りに準備していた発起の計画も、怖気づいた宦官の裏切りで、頓挫してしまいました。

蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉

image by PIXTA / 19911967

 漢の時代は既に死んでしまった、これからは黄天の世になるだろう 
 甲子(干支・184年の事)の年に革命は起こり、天下泰平の世が訪れる

 現代まで残る有名な文句です。各地の門に書き殴った甲子とは、革命の年月を暗示していました。決行は184年3月と決まっていたようですが、宦官の裏切りにより計画を繰り上げ、実際の決行は2月末でした。

 各地で反乱を起こした信者たちは、頭に黄色い布を巻いていたことから『黄巾軍』と呼ばれました。この事から、この乱は『黄巾の乱』と呼ばれます。

 一方各地の反乱を鎮めるため朝廷が出した官軍ですが、宦官同士の反発もあったりと、中々足並みが揃わず次々と敗戦してしまいました。これを見た民衆は、本当に朝廷を滅ぼして世を救う姿が浮かんできたのでしょう、反乱に加わる者も増え、この大反乱は中国全土へと広がっていきました。

方々に散った『黄巾軍』を討伐するため、三国時代の英雄達が立ち上がる

 次々と打ち破られる官軍、増え続ける信者、太平の世のため黄巾族は戦い続けますが、これに乗じて各地の山賊、異民族たちが暴れだしました。これによって人々によって黄巾軍とは正義の味方ではなく、ただの族のように恐れられるようになったのです。

 勢いにのる黄巾軍でしたが、とある男の登場で状況が変わります。宦官同士の反発が続き、黄巾軍討伐の対策が立たない朝廷に『皇甫嵩』(こうほすう)が入廷したのです。皇甫嵩の叔父は異民族討伐で名を上げた英雄であり、皇甫嵩もまた名将と言われていました。

 朝廷に入った皇甫嵩は、霊帝に謁見すると、黄巾軍討伐の軍資金を要請します。売官という制度で富を蓄えていた霊帝ですが、あまりの世の乱れから、頷くほかありませんでした。これにより、皇甫嵩の元に討伐軍が編成されたのです。

 この討伐軍は各地で志願兵を取り込みながら、進軍していきます。その中には『曹操』(そうそう)『劉備』(りゅうび)『孫堅』(そんけん)など、いずれ三国を創る英雄たちの姿もありました。

\次のページで「黄巾軍は勢いに任せ官軍と攻防を繰り広げるも、そのころの張角は…」を解説!/

黄巾軍は勢いに任せ官軍と攻防を繰り広げるも、そのころの張角は…

 各地で奮闘する黄巾軍でしたが、次第に討伐軍の足並みが揃い始めると、そこはやはり素人の集団、徐々に押され始めます。6月には、広宋に押し込まれ、張角は籠城を余儀なくされました。そして10月、討伐軍の奇襲によって広宋の本陣が落とされると、皇甫嵩はいよいよ張角へと迫ります。

 しかし、この時には既に張角は病死していたそうです。

 皇甫嵩は、埋葬されていた張角の遺体を引きずり出すと、都に持ち帰りその首を晒してしまいました。それと前後して、二人の弟も打ち取られ指導者を失った黄巾軍は徐々に瓦解していったのです。

黄巾の乱の終結、張角の死後

image by iStockphoto

 張角の死後、名目上『黄巾の乱』は終結しましたが、朝廷の腐敗は終わることはなく、民衆を苦しめていました。それに続くように各地に残る黄巾軍の残党は、小規模の反乱を起こしは討伐されを、20年余りも続けたそうです。特に河北の青洲地方の黄巾軍は、幾度も戦いを繰り広げ、さらには略奪などを繰り返していたことから、青洲黄巾軍(せいしゅうこうきんぐん)と恐れられ、その規模も100万人を超えていたといいます。

 これらの騒動は山賊の活動を活発にし、中国全土で治安の悪化を招いてしまいました。その被害を免れるため、中央付近にいた大量の知識人は地方へと難を逃れますが、この動きは地方の文化水準の向上と開発に繋がり、以後の三国時代や南北朝時代を支えることとなりました。

 黄巾軍の残党の中で最も恐れられた青洲の黄巾軍ですが、これらは私兵を持たなかった曹操が下し、そのままそっくり青洲兵(せいしゅうへい)という名の曹操軍最強の精鋭部隊にしてしまいました。それまでは、自らの軍を持たなかったために名をあげる事が出来なかった曹操でしたが、この部隊の活躍により、乱世に名乗りを上げることが出来たのです。

世を正そうと立ち上がった張角は、確かに朝廷の崩壊の第一歩となった

頂角の人生は、挫折から始まりました。宗教の立ち上げ、反乱、そして病死。頂角の望みは太平の世であったはずです。それが『黄巾の乱』終結後、他に類を見ないほどに世は荒れてしまいました。もしも頂角が生きていたならば、どんな思いだったのでしょうか。

確かに世は乱れてしまいましたが、黄巾軍の残党の一部は、曹操直属の最強部隊となり中国統一へと繋がっていきました。

しかし、朝廷を青天とし、自らの新しい世として黄天を謳った頂角率いる黄巾軍の残党が、その後『青』州兵と呼ばれたのは何だか皮肉ですね。

" /> 三国志、最大の民衆発起『黄巾の乱』の首謀者「張角」!その一生を中国史マニアがわかやすくわかりやすく解説 – Study-Z
三国時代・三国志世界史中国史歴史

三国志、最大の民衆発起『黄巾の乱』の首謀者「張角」!その一生を中国史マニアがわかやすくわかりやすく解説

今日は、三国志において最大の民衆発起(反乱)『黄巾の乱』。その首謀者といわれた太平道の指導者「張角」(ちょうかく)について勉強していこう。官軍に鎮圧されたその乱は、何故起きたのか。何故最大といわれるほど大きいものとなったのか。それを知るにはこの「張角」を避けては通れない。

年間100冊以上を読む読書家で、中国史マニアのライターKanaと一緒に解説していきます。

ライター/Kana

年間100冊以上を読破する読書家。現在はコーチ業に就いており、わかりやすい説明が得意。中国史マニアでもあり、今回は張角について、わかりやすくまとめた。

挫折から始まった人生

 三国時代最大の反乱を起こした首謀者「張角」(ちょうかく)の幼少期についての資料は、一切残されていません。反乱軍の長の資料など捨てられてしまったのか、はたまた張角自身が、己に神秘性を持たせるために破棄してしまったということも考えられますね。

 そんな張角ですが、青年時代は世を良くしようと、役人(公務員)の試験を受けます。しかし、当時は役人となるためには、コネか莫大な資金が必要であったため、張角は落ちてしまうのです。

 これには、当時の帝に原因があります。「霊帝」(れいてい)と呼ばれるその帝は、先帝に子がなかったため、王族から選ばれましたが、宦官を重用したため、国庫が空になってしまいました。そこで霊帝は、斬新な資金の調達方法を思いつきます。

 それは、官職をお金で売り払う、というものでした。どのような官職でも値札が張られ、資金さえあれば購入が可能なのです。これを現代に置き換えると、防衛大臣の地位を買い取れるようなもの、正気ではないでしょう。

太平道の経典の元となる、太平清領書を手に入れる

 試験には落ち、それでも世のために働こうとする張角ですが、ある時『太平清領書』というものを手に入れます。これは仙人「于吉」(うきつ)が著作したといわれていますが、張角はこれを目にし、衝撃を受けたそうです。

 この本は一度、于吉の弟子が朝廷に献上したそうですが、信憑性のない胡散臭い妖術の本、だと相手にされませんでした。既に失われており、内容については殆ど残っていませんが、どうやら病気の治療法が記されていたようです。

 張角はこの書を使い人々を救おうと、二人の兄弟と共に『太平道』を興しました。

教祖『張角』は、病を治し、世を救う奇跡の人となった

Woodstrips document ACE98 Niya China.jpg
By HEIBONSHA – Kanda, Kiichiro & Tanaka, Yoshimi. Collection of Calligraphy Vol. 2: China Han, HEIBONSHA,Tokyo, 1965., パブリック・ドメイン, Link

 はじめ張角は、街角に立ち『太平道』の素晴らしさを解いていましたが、まるで相手にされませんでした。そこで経典の細部まで目を通すと、とある一節が目に入ります。それは、病の治し方でした。

 経典の内容としては、プラシーボ効果に近い内容だったようです。プラシーボ効果とは、ただのビタミン剤を酔い止め薬として飲んでも、心から信じ切ることで、似た効果を得られるような、いわゆる『偽薬効果』というもの。張角は病人の元を訪れると、太平道の教えを説きながら、符を燃やし、その灰を溶かせた水を病人に飲ませました。そして、

 「この病は過去の悪事の祟りである、太平道の教えを守り悔い改めれば病は直る」

 人間誰しも人に言えない事の一つや二つはあります。しかし、病気のせいですっかり心が弱っていた病人は、張角の超人的な能力に吃驚しました。そして、安心したことが良かったのか、病は快方に向かい始めます。

 当時、医師に診てもらえるのは地位の高いほんの一部の人のみです。民衆は病に罹ったとしても、身体を休める以外の事は出来ません。そんな世で、奇跡の力で病を治す張角の噂はあっという間に広がっていきました。

次々と増えていく信者たち、その数は数十万人まで膨れ上がる

  張角が興した太平道は、その奇跡の力でどんどん信者を増やしていきました。張角の上手い所は、残念ながら病が治らず、亡くなってしまった人がいた時は、病が治らないのは信心が足りないためである、心を入れ替え太平道の教えに準じなければいけない、と説いていったそうです。これがまた、信者の心をがっちりと掴んでいきました。

 この頃の民衆は、度重なる天変地異や重税により疲弊していました。こういった世の中では、民衆に希望はありません。そんな中奇跡の力を持って現れた張角はまさに英雄だったのでしょう。

 自らを『大賢良師』(たいけんろうし)と名乗った張角は、十数年の年月をかけ、8つの州(しゅう、都道府県のようなもの)で数十万人もの信者を獲得しました。あまりにも大人数に至ったため、『方』と呼ばれる軍団に分け、軍事的に組織していきました。

\次のページで「さらに続く朝廷の腐敗、人々の不満は頂点に達する」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: