今回は十字軍についてです。十字軍は中世の時代に、キリスト教徒が当時イスラム教徒が支配していた聖地エルサレムの奪還を目指して行った出来事です。第一回目の十字軍の遠征では、時の教皇ウルバヌス2世が諸侯や騎士、民衆などに呼び掛けて実現したらしいのです。しかし聖地をイスラム教徒から奪還する以外にも数々の思惑があったとか。その思惑は何だったのか。

そこで今回は歴史に詳しい博識のまぁこと一緒に十字軍の遠征について見ていきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回は中世に起こったイスラム教とキリスト教の戦い、十字軍について紹介していく。

1 十字軍とは? 

image by iStockphoto

十字軍とは、中世のヨーロッパで教皇の呼びかけに応じたキリスト教徒らがイスラム教国から聖地エルサレムを奪還するために派遣された遠征軍たちのことを指します。しかしなぜ十字軍は組織されるに至ったのでしょうか。そこで今回は十字軍が派遣されるに至ったきっかけや十字軍の行った出来事、十字軍の遠征のその後の出来事について紹介していきます。

1-1 十字軍の背景

十字軍が派遣されることになったきっかけは何だったのでしょうか。それは1095年にイスラム教徒のセルジューク朝が侵攻してきたこと。これに対し危機感を募らせたビザンツ皇帝がローマ教皇ウルバヌス2世に助けを求めたことがきっかけでした。

1-2 ウルバヌス2世、十字軍を呼びかける

ウルバヌス2世は、1095年の教会会議で集まった者たちに聖地エルサレムの奪還をするように呼びかけました。これをクレルモン公会議と言います。ウルバヌス2世は教会会議後にも各地を回って聖地へ遠征するように説いて回りました。この呼びかけに諸侯や騎士らが応じます。この時点の遠征では国王は直接指揮を取っていませんでした。

1-3 それぞれの思惑

ウルバヌス2世の呼びかけによって始まった十字軍のエルサレムへの遠征。しかし参加した者たちの思惑は別々でした。

まず呼びかけたウルバヌス2世ですが、彼は教会統一問題を抱えていました。ここでビザンツ帝国を助けて交渉を有利にしておきたいと考えていました。また諸侯らは領土の拡大を目指します。騎士らは贖罪を得るために遠征に参加。当時の騎士は殺生をしていたため、来世の自分がどうなるのか心配だったのです。そこへウルバヌス2世が遠征すれば贖罪が得られるとしたため、参加する者が大勢いました。

1-4 十字軍、聖地エルサレムを奪還!

1096年に巡礼者も含めた約10万人もの大軍が出発しました。十字軍は地中海の沿岸を征服しながらエルサレムへ向かいました。同年6月にエルサレムを包囲すると十字軍はエルサレムの城壁に火を付け、その混乱に乗じ城内へ侵入。そして城内のムスリムやユダヤ教徒を虐殺していったのです。当初イスラム側は十字軍を巡礼者と思い、警戒していなかったため敗れたのでした。その後十字軍は、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国を建国することに。

1-5 エルサレムを陥落させた十字軍

Counquest of Jeusalem (1099).jpg
By Émile Signol - http://nobility.org/wp-content/uploads/2012/05/Jerusalem.jpg, パブリック・ドメイン, Link

画面の左に見えるのは岩のドーム。これはイスラム教において、ムハンマドが天馬で空を飛び、降り立ったとされる岩を祀るために作られたドーム。このドームは691年に建てられた現存する最古のモスクです。このモスクによってここが聖地エルサレムであることが分かりますね。

絵画では赤い十字が描かれた服をまとい、馬の上から天を仰ぎ勝利を喜ぶ者や十字軍の歓声がこちらにも聞こえてきそう。しかし彼らの足元にはムスリムやユダヤ教徒の死体が転がっています。キリスト教徒から見れば聖戦。しかし襲われた側からはただの侵略でしかありませんでした。

\次のページで「1-6 十字軍の熱狂的な信者たち」を解説!/

1-6 十字軍の熱狂的な信者たち

ここで少し余談を。十字軍として聖地エルサレムへ向かったのは大人ばかりではありません。各地で少年らが聖地エルサレムへ向かったのです。

フランスやドイツから少年たちが十字を掲げて行進しました。フランスからの集団の先頭に立ったのは12歳の少年エティンヌ。彼は夢でイエスが聖地を奪還するよう訴えたと言います。少年エティンヌを信じ、同行した少年らは3万人とも。しかし飢餓や盗賊などの危険により死者や諦める者が後を絶ちませんでした。やがて港町マルセイユへ到着。しかしモーセのように海は割れず、エティンヌに失望した人々は離れていくことに。そんな中、一行の元に2人の商人が現れ、聖地まで無償で送ると持ち掛けられます。この商人たちに騙されているとも知らずに。この時船に乗った少年たちは商人に騙され奴隷として売られてしまいました。ドイツからの一行も結局エルサレムへ辿りつくこともできず、悲劇的な結末を迎えることに。

2 獅子王リチャードとイスラムの聖将サラディンの対決

第一回目の十字軍でエルサレムを奪回し、シリアなどに十字軍国家を築いたキリスト教徒たち。その後第二回十字軍ではうまくいきませんでした。そして3回目の呼びかけで行われた十字軍はイスラム側の武将サラディンと、獅子王と呼ばれるイングランドのリチャードの激しい戦いが繰り広げられることに。

2-1 イスラム世界をまとめたサラディン

サラディンはもともとシリアのザンギーに仕える武将。彼はファーティマ朝の要請でエジプトへ赴き宰相となりました。そしてここでファーティマ朝のカリフを追放し、アイユーブ朝を樹立することに。サラディンは自らをスルタンと名乗り、十字軍に対する聖戦を呼びかけます。第一回十字軍で建国された十字軍国家と戦い、ヒッティーンの戦いでエルサレム国王を捕らえました。そして次々と十字軍の都市を奪回していくことに。

2-2 無用な殺生を避けたイスラムの聖将

Saladin and Guy.jpg
By Said Tahsine (1904-1985 Syria) - http://www.discover-syria.com/photo/11177/من%20أعمال%20سعيد%20تحسين, パブリック・ドメイン, Link

この絵画は12世紀ごろに描かれた「ヒッティーンの戦いののち、ギイの降伏を受けるサラディン」。屋根のついたイスラム側の陣営の中では右側の男性がエルサレム王国の国王ギイが囚われている様子が描かれています。そしてその隣で顎髭を生やしゆったりと座っている人物がサラディン。この場面はこれから会見を開く直前で、会見前にサラディンがギイにバラ水を振舞っている様子。イスラム社会では捕虜に対して飲食を振舞うことは、命の保障することを示しています。サラディンはエルサレムを奪還した時に、キリスト教徒に対する報復行動は取りませんでした。この行動によって、敵側のキリスト教徒側からは称賛されることに。そして画面手前左側に立っている兵士たちはマムルーク。マムルークとは、軍事奴隷のことでアイユーブ朝では専門的な軍事訓練や教育を施し精鋭集団を作り上げていました。

2-3 第3回十字軍遠征のきっかけ クルド人武将サラディンが立ちはだかる!

第3回十字軍では有名な君主らが登場しました。きっかけとなったのは、クルド人武将サラディンの征服。これによって十字軍の領土はティルス、アンティオキア、トリポリという状況に。そして都市ティルスが陥落寸前でしたが、コルラードの活躍で回避。しかしヨーロッパからの援助が必要と考えたティルス大司教はローマ教皇に助けを求めます。これに応じたのが教皇グレゴリウス8世。そしてイギリスからは獅子心王と呼ばれたリチャード1世、フランスからは尊厳王フィリップ2世が、そしてドイツからは赤髭帝とあだ名されるフリードリヒ帝が参加しました。

\次のページで「2-4 獅子心王、イスラム勢力へ立ち向かう!」を解説!/

2-4 獅子心王、イスラム勢力へ立ち向かう!

第3回十字軍の遠征によってアッコンを陥落させることができました。しかし十字軍遠征の途中でフリードリヒ帝が没することに。これによって一部の兵がドイツへ帰国。リチャード1世とフィリップ2世はフリードリヒ帝よりも出発が遅れますが、1191年6月に全軍がアッコンに揃うことに。そしてアッコンは1月で陥落。これによりフィリップ2世とドイツ兵は帰還します。ここからイギリスの獅子心王リチャードと武将サラディンの戦いへ。

激しく戦った両者は1192年9月に休戦協定を結びます。十字軍側は海岸地帯に、イスラム側は内陸部に留まることに。結果として今回の遠征ではエルサレムを回復させることはできませんでした。しかし行き来は自由にできたので、聖地への巡礼することは許されました。

2-5 フィリップとリチャードの因縁

ここで余談を。第3回十字軍の呼びかけに応じたイングランドのリチャードとフランスのフィリップですが、彼らには因縁がありました。リチャード1世の母はフランス人のアリエノールダキテーヌ。彼女はダキテーヌ家の相続人であったため、フランスの西半分がイングランドの領土となることに。そして驚くべきことに、彼女の元夫はフィリップ2世の父、ルイ7世でした。フィリップ2世は、アリエノールとリチャードの父ヘンリ2世が仲たがいしている状況を利用し、リチャードにヘンリ2世の失脚に加担。そして同時にリチャードの弟、ジョンに対しリチャードの失脚をそそのかしていました。こうして二人には第三回十字軍の参加前にこのような蜜月関係となりましたが、リチャードがフィリップの異母姉との婚約を解消しナバラ王女と婚約したことで敵対するように。

2-6 第4回十字軍

第4回十字軍では、宗教的な動機ではなく経済目的で行われるように。1202年、教皇インノケンティウス3世の呼びかけで十字軍は遠征することになりました。しかしヴェネツィア商人の要請でエルサレムではなく、ビザンツ帝国コンスタンティノープルへ。これは地中海貿易を巡り、ヴェネツィア商人らとビザンツ帝国が争っていたため。この遠征によってコンスタンティノープルは占領され略奪される事態へ。ラテン帝国を建設したことで、一時ビザンツ帝国は崩壊。

3 十字軍の終焉

5回、6回、7回と回数を重ねた十字軍。しかしなかなかエルサレム奪回は果たすことができません。6回目の十字軍の遠征ではフランス王ルイ9世がイスラム側の捕虜となる事態へ。ここでは十字軍の終焉について詳しく解説していきます。

3-1 アッコン陥落 

サラディンの死後、マムルーク朝が主体となって十字軍と戦いが行われるように。そこで活躍したのがバイバルス。彼はもともとアイユーブ朝の軍人でした。第6回十字軍においてフランスのルイ9世を捕虜とするなど功績を残します。そしてマムルーク朝の基礎を固めた後に、シリア方面にある十字軍国家の掃討作戦を展開。バイバルスの死後、彼の後継者たちが十字軍国家を追い詰め、ついに最後の砦となるアッコンだけを残すことになりました。アッコンにいる十字軍は700。これに対し、イスラム側は20万もの兵でアッコンを包囲。こうしてキリスト教側の抵抗空しくアッコンは陥落しました。

3-2 ついに最後の領土アッコン、陥落

SiegeOfAcre1291.jpg
By ドミニク・パプティ - Chateau de Versailles, reproduced in "Brieve histoire des Ordres Religieux", Editions Fragile., パブリック・ドメイン, Link

絵画ではマムルーク軍と三大騎士団との戦いの一場面。上からマムルーク軍を待ち構えているのは、聖ヨハネ騎士団たち。斧を振り上げているのは、聖ヨハネ騎士団メンバー。赤い服や赤いタバートに白い十字が描かれているのは聖ヨハネ騎士団の特徴。そして斧の人物の隣で槍を持っている人物は、テンプル騎士団です。マムルーク軍は城壁を壊すため投石機を使いました。対する三大騎士団らは下からやってくるマムルーク軍を切り伏せて対抗。しかしながら奮闘空しく陥落することに。この時マムルーク側から撤退の提案がなされたが、テンプル騎士団のみこれを拒否。このためテンプル騎士団は全滅することに。

4 十字軍の失敗

7回(一説では8回とも)行われた十字軍は失敗に終わりました。しかしいくどもの遠征によって3つの変化が生じることに。この章では詳しく見ていきましょう。

\次のページで「4-1 十字軍の遠征でヨーロッパに与えた影響」を解説!/

4-1 十字軍の遠征でヨーロッパに与えた影響

1つは交通網が整備されたことです。十字軍の遠征で多くの人々が移動したことで、交通網が整えられ、交易が盛んに。2つ目はイスラム社会の城壁都市を取り入れるようになったこと。もともとイスラム社会は交易が盛んで商業都市が発展していました。商業都市には敵の侵入に備え城壁を築くようになります。十字軍は遠征によって、その都市を目の当たりにし自らの都市も模倣して作るようになることに。3つ目は教皇の権威が失墜したことです。これまでローマ教会の教皇の呼びかけで行われてきた十字軍でしたが、度重なる失敗で教皇の権威が失墜。代わりに遠征で指揮を執っていた王の権威が強まることになり、中央集権化が進みました。

4-2 アナーニ事件 

ローマカトリック教会の権威が失墜したことで、教会は下からの圧力と上からの圧力を受けるように。下からの圧力とは、教会の権威失墜や腐敗から「カタリ派」と呼ばれる独自の教団が誕生することに。これに対してローマ教会は弾圧を加えます。この弾圧が後の魔女狩りが行われる所以となることに。

上からの圧力は、王権からの圧力のことでした。フランスのフィリップ4世は聖職者に対して課税をしようとし、教皇ボニファティウス8世が彼を批判。ボニファティウスはフィリップを破門しましたが、諸侯からのバックアップを受けたフィリップにアナーニで囚われることに。アナーニ事件では、ボニファティウスはフランスの宰相に殴られ装束や冠を奪われるなど屈辱的な扱いを受けました。彼は世俗にまみれた聖職者でしたが、彼を崇拝する民衆らによって助け出されたことで、すぐに釈放。しかしその後すぐに亡くなることになったのです。

4-3 教皇のバビロン捕囚

image by iStockphoto

フランスのフィリップ4世は教皇クレメンス5世とも対立しました。フィリップはクレメンスを南フランスのアヴィニヨンへ移し監視することに。これをユダヤ人がバビロンへ強制的に移住させられたことになぞり、「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれました。これは70年ほど続き、グレゴリウス11世の時に解放されることに。ところが別の教皇が擁立されていたため、教会内は分裂。1417年にコンスタンツ公会議で教会は統一されることになりましたが、世俗の権力が教皇の権威よりも上であることが示されました。

十字軍の出来事は2つの視点から見ることが大事

ウルバヌス2世の呼びかけから始まった十字軍。十字軍に参加した人々はもちろん信仰心から参加した人物も大勢いました。しかし、それ以外の思惑を持った人々が大勢いたことも事実。教皇は教会の統一を目論み、諸侯らは新たな領土を求めるなど。彼ら十字軍は行く先々で略奪を行い、エルサレムでは多くの異教徒を殺害。なんという卑劣な行為でしょう。これに対し、イスラムの聖将サラディンらムスリム兵はキリスト教徒に対しむやみな殺害を行いませんでした。この結果からみれば、十字軍とはただの侵略行為だったのではないでしょうか。キリスト教徒側とイスラム側から十字軍の歴史を知ることはとても大切。1つの情報だけでなく、いくつかの情報をもとに判断していかなければならないと思わせる歴史的な出来事だったと思います。

しかし十字軍によってヨーロッパ社会が大きく変化することに。十字軍の遠征でイスラム文化に触れ、東方交易が活発になったことで冨を貯めた北イタリア諸都市。そして教皇の権威が失墜したことで、王権が強化されていくように。これらの新たな変化により、次の新しいヨーロッパ社会の歩みがなされたのでした。

" /> 5分で分かる「十字軍」!聖地エルサレム奪還を目指した「十字軍」を歴女がわかりやすく解説! – Study-Z
ヨーロッパの歴史世界史歴史

5分で分かる「十字軍」!聖地エルサレム奪還を目指した「十字軍」を歴女がわかりやすく解説!

今回は十字軍についてです。十字軍は中世の時代に、キリスト教徒が当時イスラム教徒が支配していた聖地エルサレムの奪還を目指して行った出来事です。第一回目の十字軍の遠征では、時の教皇ウルバヌス2世が諸侯や騎士、民衆などに呼び掛けて実現したらしいのです。しかし聖地をイスラム教徒から奪還する以外にも数々の思惑があったとか。その思惑は何だったのか。

そこで今回は歴史に詳しい博識のまぁこと一緒に十字軍の遠征について見ていきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー女子。ヨーロッパの絵画も好きで、関連した歴史の本を読み漁っている。今回は中世に起こったイスラム教とキリスト教の戦い、十字軍について紹介していく。

1 十字軍とは? 

image by iStockphoto

十字軍とは、中世のヨーロッパで教皇の呼びかけに応じたキリスト教徒らがイスラム教国から聖地エルサレムを奪還するために派遣された遠征軍たちのことを指します。しかしなぜ十字軍は組織されるに至ったのでしょうか。そこで今回は十字軍が派遣されるに至ったきっかけや十字軍の行った出来事、十字軍の遠征のその後の出来事について紹介していきます。

1-1 十字軍の背景

十字軍が派遣されることになったきっかけは何だったのでしょうか。それは1095年にイスラム教徒のセルジューク朝が侵攻してきたこと。これに対し危機感を募らせたビザンツ皇帝がローマ教皇ウルバヌス2世に助けを求めたことがきっかけでした。

1-2 ウルバヌス2世、十字軍を呼びかける

ウルバヌス2世は、1095年の教会会議で集まった者たちに聖地エルサレムの奪還をするように呼びかけました。これをクレルモン公会議と言います。ウルバヌス2世は教会会議後にも各地を回って聖地へ遠征するように説いて回りました。この呼びかけに諸侯や騎士らが応じます。この時点の遠征では国王は直接指揮を取っていませんでした。

1-3 それぞれの思惑

ウルバヌス2世の呼びかけによって始まった十字軍のエルサレムへの遠征。しかし参加した者たちの思惑は別々でした。

まず呼びかけたウルバヌス2世ですが、彼は教会統一問題を抱えていました。ここでビザンツ帝国を助けて交渉を有利にしておきたいと考えていました。また諸侯らは領土の拡大を目指します。騎士らは贖罪を得るために遠征に参加。当時の騎士は殺生をしていたため、来世の自分がどうなるのか心配だったのです。そこへウルバヌス2世が遠征すれば贖罪が得られるとしたため、参加する者が大勢いました。

1-4 十字軍、聖地エルサレムを奪還!

1096年に巡礼者も含めた約10万人もの大軍が出発しました。十字軍は地中海の沿岸を征服しながらエルサレムへ向かいました。同年6月にエルサレムを包囲すると十字軍はエルサレムの城壁に火を付け、その混乱に乗じ城内へ侵入。そして城内のムスリムやユダヤ教徒を虐殺していったのです。当初イスラム側は十字軍を巡礼者と思い、警戒していなかったため敗れたのでした。その後十字軍は、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国を建国することに。

1-5 エルサレムを陥落させた十字軍

画面の左に見えるのは岩のドーム。これはイスラム教において、ムハンマドが天馬で空を飛び、降り立ったとされる岩を祀るために作られたドーム。このドームは691年に建てられた現存する最古のモスクです。このモスクによってここが聖地エルサレムであることが分かりますね。

絵画では赤い十字が描かれた服をまとい、馬の上から天を仰ぎ勝利を喜ぶ者や十字軍の歓声がこちらにも聞こえてきそう。しかし彼らの足元にはムスリムやユダヤ教徒の死体が転がっています。キリスト教徒から見れば聖戦。しかし襲われた側からはただの侵略でしかありませんでした。

\次のページで「1-6 十字軍の熱狂的な信者たち」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: