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父幽斎と同じく教養人「細川忠興」を歴女がわかりやすく解説!~こだわりが強く粗暴で残虐な面も持つ複雑な武将だった?~

4-5、忠興の考案した甲冑は、「越中具足」と呼ばれる様式に

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By Samuraiantiqueworld投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

忠興は武将として使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案をするように。特に打刀(太刀ではなく、普通に帯びる刀)の拵(こしらえ)の忠興の考案した様式は「肥後拵」と呼ばれていて、忠興が修めた片山伯耆流居合術の刀法に適するように工夫されたもの、また甲冑は「越中具足」(越中流または三斎流)と称され、鞘や金具の装飾に茶道のわび、さびの感覚が反映されているということ。

ちなみに肥後、越中は忠興の通称、細川肥後守、越中守からで、まさかとは思うけれど、「越中ふんどし」という男性用下着も忠興の考案という説も。

4-5、大変な筆まめで今や貴重な史料に

忠興は非常に筆まめで長生きしたこともあって、関ヶ原の後だけでも約2000通を数える書簡を書き送ったと言われています。その多くが家督を継いだ3男忠利に対するもので1802通も残っていて、忠利から忠興への書状も1084通が。内容は徳川幕府の内情などを知らせるものが多く、現在では貴重な資料のひとつ。

5、忠興の正室、側室、子供たち

忠興は同い年の正室ガラシャとの間に3男2女が生まれ、数人いた側室からは晩年に3男2女が生まれています。
忠興の跡継ぎはガラシャの産んだ3男忠利で、長男忠隆は廃嫡後、出家して京都で文化人として世を送り、次男興秋は後継ぎになれず出奔した後、大坂の陣に参戦した後、敗戦後に逃れ、家康の許しは出たけれど忠興が許さず自害させました。

残忍で激しい性格を持つかと思えば茶道や武具に凝る、ミニ信長のような忠興

細川忠興は、父光秀の反逆で悩む美貌の妻ガラシャに対し、慰めるどころか束縛と執着をし続け、ガラシャのキリシタン信仰のきっかけのひとつになったほど悩ませたような人ですが、武将としても教養人としても時代を代表する一流の人物のひとりであったことは間違いないでしょう。家臣に対しても手討ち沙汰も辞さない残虐さを持っているかと思えば、茶道やわびさびを好み、後世に残る甲冑や刀の拵えのデザインもこなすなんて、忠興が尊敬していたというミニ信長のような感じもするではありませんか。

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