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父幽斎と同じく教養人「細川忠興」を歴女がわかりやすく解説!~こだわりが強く粗暴で残虐な面も持つ複雑な武将だった?~

3-3、その後、徳川幕府になってからの忠興

忠興は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも参戦しましたが、50代でこの頃の老境に入ったこともあり、元和6年(1620年)、病気のため、3男の忠利に家督を譲って隠居。この頃、出家して三斎宗立に。

正保2年(1645年)閏5月に、晩年に生まれて可愛がっていた4男の立孝が30歳で亡くなり、忠興も後を追うように同年12月2日に死去。享年83歳。

4、忠興のエピソード

忠興は長生きをしたせいか、色々なエピソードを持っています。
これによって忠興の性格、趣向の一端がわかるかも。

4-1、天下一気が短いと家臣に記され、光秀に諭された忠興

家臣が記したらしい「茶道四祖伝書」の中で、「忠興は天下一気が短いが、気が長いのは蒲生氏郷」と。また、岳父の光秀に、丹波平定の際の合戦時に「降伏してくる者を無闇に殺してはいけない」と諭されていたということで、恭順する武者たちにむやみやたらと刀を振り回す忠興の様子が、目に見えるような気がする話では。

4-2、36歌仙と名付けた刀を所持

忠興は家臣を駒のように扱い、かっとなると手討ちにする人でしたが、美貌のガラシャ夫人に見とれた庭師を手討ちにしたとか、キリシタンの乳母のごく些細な過ちに対し鼻と耳をそいで追い出したとか、ぞっとするような話も多数。

忠興は、歌仙兼定(かせんかねさだ)という、銘二代目和泉守兼定作(ノサダ)を所持。この別名を36歌仙といい、それが肥後八代に隠居していた忠興が息子の当主忠利を取り巻く近臣達の輔佐ぶりが気に入らず、彼ら36人を次々と八代城に呼び寄せてこの刀で首を刎ねたことが由来という、なんとも血なまぐさいエピソードとして有名。

4-3、父と同じく一流の文化人

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忠興は父と同じ教養人でもあり、和歌や能楽、絵画にも通じていて「細川三斎茶書」という著書あり。千利休に師事し、利休に最も気に入られ利休七哲の一人。ちなみに利休が秀吉の怒りを買って切腹を命じられたときに、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部のみ。

秀吉の行った北野大茶湯では、大名たちが色々な趣向を凝らした茶店や茶席を設けたのですが、忠興は松向庵という名の茶席を設けたことから「松向殿」と呼ばれたことも。

4-4、医学への造詣もあり、食事にも気を使う

徳川家康が製剤させた漢方薬に関心を持ち、江戸の忠利に頼んで薬能書付き製法を入手、お抱え医師の指導で、自ら製剤したり、息子の忠利の症状を聞いただけで、癪か痰が原因と診断、命に別状はないから心配はないと書状を送ったり、将軍秀忠の病気を、幕府お抱えの医師たちが結論を出すずっと前に原因を突き止めたこともあったということ。


そして食事にも心を配っていて偏食を嫌い、息子の忠利にバランスのとれた食事をとるようにと手紙を送っていたそう。
忠興、この時代に83歳まで長生きするはずですね

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