安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史江戸時代

父幽斎と同じく教養人「細川忠興」を歴女がわかりやすく解説!~こだわりが強く粗暴で残虐な面も持つ複雑な武将だった?~

2-3、秀吉に従い、羽柴姓を与えられる

忠興は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加、功績が認められて秀吉から羽柴姓を与えられ七将に。その後の、天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍、天正16年(1588年)には、豊臣姓を下賜されるまでに。文禄元年(1592年)からの文禄の役でも活躍したそう。

2-4、忠興、秀次事件に連座しそうになる

秀吉は甥の秀次を豊臣家の跡継ぎに決定し、関白と聚楽第を譲っていたのですが、秀頼が生まれたために予定が狂い、結局は甥の秀次に因縁をつけて逮捕、高野山へ追いやり切腹させ、秀次の家臣たちも大勢処罰して秀次の妻子をほぼ皆殺しに。

この文禄4年(1595年)の秀次事件では、忠興も秀次と交流があり、おまけに秀次に借金があったために切腹の可能性もあったところを家臣の松井康之が奔走し、金子を用立てて秀吉に返納し事なきを得たということ。尚、この時に徳川家康がお金を貸してくれたという話。

慶長3年(1598年)8月の秀吉死去後は、忠興は石田三成らと対立、徳川家康派に。慶長4年(1599年)には加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政、黒田長政らと共に三成襲撃に加わったほど。この年豊臣家の5大老の筆頭の家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増されて合計18万石の大名に。

3、忠興、関ヶ原の戦いでは真っ先に東軍に参加

徳川家康の上杉征伐に加わっていた忠興は、小山評定でも真っ先に家康軍に付くと宣言。細川家は豊臣恩顧の有力大名のうえに、父幽斎が城のある丹後田辺に、正室ガラシャも大坂屋敷にいたため、忠興の去就が注目されていたなかでのこの宣言は、徳川家に付くか石田三成方に付くか迷っていた他の大名にも影響を与えたということ。

しかし、国元の城を守る留守番の父幽斎、大坂屋敷のガラシャは大変なことに。

3-1、大坂屋敷のガラシャは自決に

慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いが勃発した時、大坂屋敷にいる大名の家族を人質にとる計画を立てた石田三成は、細川家に真っ先に打診して断られた後、大坂玉造の細川屋敷に、500名の兵を送って包囲、ガラシャを引き渡すように要求しました。

留守居役の家老小笠原少斎、護衛役の河喜多石見は、忠興が以前からガラシャのことを、大地震があっても逃げずに殺せとか、奪われる前に殺せと言い置いていたため、ガラシャもキリシタンなので自害は市内が死ぬつもり。少斎はこのような場面になっても、忠興がいなくてもガラシャと同室を遠慮して隣室から薙刀で夫人の首を落として介錯。河喜多は屋敷に火を放ち、少斎と一緒に自害、その介錯をした田辺六左衛門も火に飛び込んで殉死

ところが、このとき忠興家来で大坂屋敷の護衛役だった著名な砲術家稲富祐直(いなとみすけなお またの名を一夢)は、包囲部隊に弟子が多数居て、逃げるように懇願されて裏門から飛び出し逃亡という話も。

忠興の反応は
関が原戦後に、忠興は忠節を尽くして亡くなった少斎らに対しても、悼むどころかガラシャ夫人を逃がすことができなかったと憤慨したということで(逃げるより死ねと命令して、屋敷に爆薬を置いた部屋を作っていたのは忠興では)、1人逃げた稲富祐直(または一夢)に対しては「卑怯者」と罵って激怒、捕らえて火炙りにしてやると息巻いて追討ちをかけたということ。ところが、徳川家康が稲富流砲術の腕と知識が絶えるのを惜しんで、忠興を宥め、祐直を家康の側近に侍らせ鉄砲の話を聞くことにして助命されたそう。

また、忠興は嫡男忠隆の正室で、結婚したばかりの前田利家とおまつの末娘千世姫が、ガラシャと一緒に死なずに隣の宇喜多家の姉の豪姫の屋敷に避難したことについても、なぜ一緒に死ななかったと激怒し、忠隆に千世姫との離婚を迫ったが忠隆が拒否、忠興は忠隆を勘当、廃嫡してしまいました。

3-2、父の幽斎と弟幸隆は田辺上に籠城、古今伝授を盾に助かる

また、弟の幸隆と父の幽斎は石田三成配下の1万5000の大軍に包囲され、500人の手勢で丹後田辺城に2か月籠城したが、古今伝授を盾に八条宮智仁親王を動かし、八条の宮はさらに実兄の後陽成天皇の勅命を引き出して講和に持ち込み、関ヶ原の戦いの前に開城となり、田辺城を包囲していた三成軍は関が原の本戦に間に合わなかったという落ちまでつきました。

しかし忠興はこの父の行動に不満だったようで、一時的に不仲になったということ。

3-3、忠興、九州へ国替え大幅加増

image by PIXTA / 33538740

忠興は、9月15日の関ヶ原本戦で、黒田長政らと共に石田三成の本隊と激闘、首級を136も上げたそう。そして家康による慶長5年(1600年)の論功行賞では、丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替し、大幅に加増、以前からの豊後杵築6万石はそのまま細川領とされたので、合計39万9000石の大名に。慶長7年(1602年)、中津城から、完成した小倉城に藩庁を移して小倉藩初代藩主。

\次のページで「3-3、その後、徳川幕府になってからの忠興」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: