やっぱり細川ガラシャ繋がりで興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1、細川忠興は幽斎の長男
- 1-2、父が信長に仕えると、忠興は信長の長男信忠に仕えた
- 1-3、忠興、初陣を飾り、元服し結婚も
- 1-4、忠興、武将として活躍
- 2-1、本能寺の変勃発、細川家は光秀に味方せず
- 2-2、忠興、北丹後の一色氏を滅ぼし、妹に恨まれる
- 2-3、秀吉に従い、羽柴姓を与えられる
- 2-4、忠興、秀次事件に連座しそうになる
- 3、忠興、関ヶ原の戦いでは真っ先に東軍に参加
- 3-1、大坂屋敷のガラシャは自決に
- 3-2、父の幽斎と弟幸隆は田辺上に籠城、古今伝授を盾に助かる
- 3-3、忠興、九州へ国替え大幅加増
- 3-3、その後、徳川幕府になってからの忠興
- 4、忠興のエピソード
- 4-1、天下一気が短いと家臣に記され、光秀に諭された忠興
- 4-2、36歌仙と名付けた刀を所持
- 4-3、父と同じく一流の文化人
- 4-4、医学への造詣もあり、食事にも気を使う
- 4-5、忠興の考案した甲冑は、「越中具足」と呼ばれる様式に
- 4-5、大変な筆まめで今や貴重な史料に
- 5、忠興の正室、側室、子供たち
- 残忍で激しい性格を持つかと思えば茶道や武具に凝る、ミニ信長のような忠興
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。やはり細川ガラシャに思い入れがあり、その夫の忠興にも興味津々。今回ガラシャ、幽斎に続き、細川忠興についても調べまくり5分でわかるようにまとめた。
1、細川忠興は幽斎の長男
By 不明。 – 永青文庫所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link
忠興は、永禄6年(1563年)11月13日に京都で誕生。幼名は熊千代、通称は与一郎。父は足利義輝に仕えていた細川藤孝、後の幽斎、母は正室の沼田光兼の娘で麝香(じゃこう)。忠興は、義輝の命令で細川一族の分家である奥州家の細川輝経の養子とされましたが、この養子縁組は実質的なものではなくて系図の上だけのもの。その後も実父藤孝と行動をともにしていました。
永禄の変で将軍義輝が殺害された後、父幽斎や伯父たちが足利義昭を救出、擁護して近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した頃、忠興は京都で密かにかくまわれて育っていたそう。
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1-2、父が信長に仕えると、忠興は信長の長男信忠に仕えた
父幽斎らが明智光秀を通して織田信長を頼り、義昭を第15代将軍に擁立するも、信長と義昭が対立するようになると幽斎は信長に臣従し、息子の忠興は信長の嫡男信忠に仕えました。年少なので小姓とかでは。
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1-3、忠興、初陣を飾り、元服し結婚も
忠興は、天正5年(1577年)3月に15歳で紀州征伐に加わり初陣。10月には、信長から離反した松永久秀の武将森秀光が立て籠もっていた大和片岡城を、父幽斎、明智光秀と共に落とし、信長からもらった直筆の感状を終生大事にしたということです。
天正6年(1578年)に元服し、信忠より忠の字をもらって忠興に。また同年8月には信長の仲介で、光秀の三女玉子(後のガラシャ)と勝竜寺城で盛大な結婚式を挙行。この時、信長の命令で家紋を九曜にすることに。これは以前、忠興が信長の小刀の柄の九曜紋を大変気に入っていたことを信長が覚えていたため。
尚、ガラシャとの結婚では、長男忠隆をはじめ3男2女が生まれましたが、忠興は美貌のガラシャを他の男性に奪われる恐れを抱いて、家臣と言えどもガラシャを見せないようにし、ひたすら屋敷に閉じ込めて手紙のやり取りも監視、贅沢は許したが、籠の鶏のような生活を強いたことで、ガラシャがキリシタン信仰に入るきっかけのひとつになったと言われています。
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1-4、忠興、武将として活躍
天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主一色義道を滅ぼし、天正8年(1580年)、父幽斎は丹後南半国の領主に。
天正9年(1581年)信長が行った京都御馬揃えに、忠興は一色満信らとともに参加。この際に信長は「蜀紅の錦の小袖」を着用しましたが、これは忠興が京で探し求めて信長に献上したということ。
かぶきものと言われた信長と意匠に凝るタイプの忠興は趣味があったのかも。
2-1、本能寺の変勃発、細川家は光秀に味方せず
天正10年(1582年)6月、忠興の妻ガラシャの父明智光秀が本能寺の変で信長を倒し、直後に幽斎、忠興父子を味方に誘ったが、細川父子はこれを拒否。幽斎は剃髪して隠居し、忠興はガラシャを丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉。細川家に見放され、筒井順慶にも断られた光秀は予想外の速さの中国大返しで帰ってきた秀吉と山崎で戦ったが、あっけなく敗死。
同じく光秀の娘婿で会った織田家の一門の津田信澄は光秀との内通と誤解されて討伐されてしまったが、細川家の対応が早く明確だったために、同じ目に合わずに済んだと言われています。
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2-2、忠興、北丹後の一色氏を滅ぼし、妹に恨まれる
その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じていき、織田政権下では父幽斎の同僚の北丹後の一色義定を謀殺した後に一色家旧臣を攻め滅ぼして、秀吉から丹後全域の領有を許された後、北丹後の元一色方の諸城に、重臣の軍勢を派遣、丹後一国を平定。
しかし政略結婚で一色義定に嫁いでいた忠興の妹の伊也は、兄に夫を謀殺されたことを恨み、戦後に兄に斬りかかり鼻に傷を負わせたという話も。
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