今回は、細川忠興を取り上げるぞ。細川幽斎の息子でガラシャの夫ですが、父と同じく武将としても有能で教養人なんだ、茶人でもあり、鎧のデザインとかも趣味を超えていたらしいぞ。

やっぱり細川ガラシャ繋がりで興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。やはり細川ガラシャに思い入れがあり、その夫の忠興にも興味津々。今回ガラシャ、幽斎に続き、細川忠興についても調べまくり5分でわかるようにまとめた。

1、細川忠興は幽斎の長男

Hosokawa Tadaoki.jpg
By 不明。 - 永青文庫所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link

忠興は、永禄6年(1563年)11月13日に京都で誕生。幼名は熊千代、通称は与一郎。父は足利義輝に仕えていた細川藤孝、後の幽斎、母は正室の沼田光兼の娘で麝香(じゃこう)。忠興は、義輝の命令で細川一族の分家である奥州家の細川輝経の養子とされましたが、この養子縁組は実質的なものではなくて系図の上だけのもの。その後も実父藤孝と行動をともにしていました。

永禄の変で将軍義輝が殺害された後、父幽斎や伯父たちが足利義昭を救出、擁護して近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した頃、忠興は京都で密かにかくまわれて育っていたそう。

1-2、父が信長に仕えると、忠興は信長の長男信忠に仕えた

父幽斎らが明智光秀を通して織田信長を頼り、義昭を第15代将軍に擁立するも、信長と義昭が対立するようになると幽斎は信長に臣従し、息子の忠興は信長の嫡男信忠に仕えました。年少なので小姓とかでは。

1-3、忠興、初陣を飾り、元服し結婚も

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忠興は、天正5年(1577年)3月に15歳で紀州征伐に加わり初陣。10月には、信長から離反した松永久秀の武将森秀光が立て籠もっていた大和片岡城を、父幽斎、明智光秀と共に落とし、信長からもらった直筆の感状を終生大事にしたということです。
天正6年(1578年)に元服し、信忠より忠の字をもらって忠興に。また同年8月には信長の仲介で、光秀の三女玉子(後のガラシャ)と勝竜寺城で盛大な結婚式を挙行。この時、信長の命令で家紋を九曜にすることに。これは以前、忠興が信長の小刀の柄の九曜紋を大変気に入っていたことを信長が覚えていたため。

尚、ガラシャとの結婚では、長男忠隆をはじめ3男2女が生まれましたが、忠興は美貌のガラシャを他の男性に奪われる恐れを抱いて、家臣と言えどもガラシャを見せないようにし、ひたすら屋敷に閉じ込めて手紙のやり取りも監視、贅沢は許したが、籠の鶏のような生活を強いたことで、ガラシャがキリシタン信仰に入るきっかけのひとつになったと言われています。

1-4、忠興、武将として活躍

天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主一色義道を滅ぼし、天正8年(1580年)、父幽斎は丹後南半国の領主に。

天正9年(1581年)信長が行った京都御馬揃えに、忠興は一色満信らとともに参加。この際に信長は「蜀紅の錦の小袖」を着用しましたが、これは忠興が京で探し求めて信長に献上したということ。

かぶきものと言われた信長と意匠に凝るタイプの忠興は趣味があったのかも

2-1、本能寺の変勃発、細川家は光秀に味方せず

天正10年(1582年)6月、忠興の妻ガラシャの父明智光秀が本能寺の変で信長を倒し、直後に幽斎、忠興父子を味方に誘ったが、細川父子はこれを拒否。幽斎は剃髪して隠居し、忠興はガラシャを丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉。細川家に見放され、筒井順慶にも断られた光秀は予想外の速さの中国大返しで帰ってきた秀吉と山崎で戦ったが、あっけなく敗死。
同じく光秀の娘婿で会った織田家の一門の津田信澄は光秀との内通と誤解されて討伐されてしまったが、細川家の対応が早く明確だったために、同じ目に合わずに済んだと言われています。

2-2、忠興、北丹後の一色氏を滅ぼし、妹に恨まれる

その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じていき、織田政権下では父幽斎の同僚の北丹後の一色義定を謀殺した後に一色家旧臣を攻め滅ぼして、秀吉から丹後全域の領有を許された後、北丹後の元一色方の諸城に、重臣の軍勢を派遣、丹後一国を平定。

しかし政略結婚で一色義定に嫁いでいた忠興の妹の伊也は、兄に夫を謀殺されたことを恨み、戦後に兄に斬りかかり鼻に傷を負わせたという話も。

\次のページで「2-3、秀吉に従い、羽柴姓を与えられる」を解説!/

2-3、秀吉に従い、羽柴姓を与えられる

忠興は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加、功績が認められて秀吉から羽柴姓を与えられ七将に。その後の、天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍、天正16年(1588年)には、豊臣姓を下賜されるまでに。文禄元年(1592年)からの文禄の役でも活躍したそう。

2-4、忠興、秀次事件に連座しそうになる

秀吉は甥の秀次を豊臣家の跡継ぎに決定し、関白と聚楽第を譲っていたのですが、秀頼が生まれたために予定が狂い、結局は甥の秀次に因縁をつけて逮捕、高野山へ追いやり切腹させ、秀次の家臣たちも大勢処罰して秀次の妻子をほぼ皆殺しに。

この文禄4年(1595年)の秀次事件では、忠興も秀次と交流があり、おまけに秀次に借金があったために切腹の可能性もあったところを家臣の松井康之が奔走し、金子を用立てて秀吉に返納し事なきを得たということ。尚、この時に徳川家康がお金を貸してくれたという話。

慶長3年(1598年)8月の秀吉死去後は、忠興は石田三成らと対立、徳川家康派に。慶長4年(1599年)には加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政、黒田長政らと共に三成襲撃に加わったほど。この年豊臣家の5大老の筆頭の家康の推挙で、丹後12万石に加え豊後国杵築6万石が加増されて合計18万石の大名に。

3、忠興、関ヶ原の戦いでは真っ先に東軍に参加

徳川家康の上杉征伐に加わっていた忠興は、小山評定でも真っ先に家康軍に付くと宣言。細川家は豊臣恩顧の有力大名のうえに、父幽斎が城のある丹後田辺に、正室ガラシャも大坂屋敷にいたため、忠興の去就が注目されていたなかでのこの宣言は、徳川家に付くか石田三成方に付くか迷っていた他の大名にも影響を与えたということ。

しかし、国元の城を守る留守番の父幽斎、大坂屋敷のガラシャは大変なことに。

3-1、大坂屋敷のガラシャは自決に

慶長5年(1600年)7月、関ヶ原の戦いが勃発した時、大坂屋敷にいる大名の家族を人質にとる計画を立てた石田三成は、細川家に真っ先に打診して断られた後、大坂玉造の細川屋敷に、500名の兵を送って包囲、ガラシャを引き渡すように要求しました。

留守居役の家老小笠原少斎、護衛役の河喜多石見は、忠興が以前からガラシャのことを、大地震があっても逃げずに殺せとか、奪われる前に殺せと言い置いていたため、ガラシャもキリシタンなので自害は市内が死ぬつもり。少斎はこのような場面になっても、忠興がいなくてもガラシャと同室を遠慮して隣室から薙刀で夫人の首を落として介錯。河喜多は屋敷に火を放ち、少斎と一緒に自害、その介錯をした田辺六左衛門も火に飛び込んで殉死

ところが、このとき忠興家来で大坂屋敷の護衛役だった著名な砲術家稲富祐直(いなとみすけなお またの名を一夢)は、包囲部隊に弟子が多数居て、逃げるように懇願されて裏門から飛び出し逃亡という話も。

忠興の反応は
関が原戦後に、忠興は忠節を尽くして亡くなった少斎らに対しても、悼むどころかガラシャ夫人を逃がすことができなかったと憤慨したということで(逃げるより死ねと命令して、屋敷に爆薬を置いた部屋を作っていたのは忠興では)、1人逃げた稲富祐直(または一夢)に対しては「卑怯者」と罵って激怒、捕らえて火炙りにしてやると息巻いて追討ちをかけたということ。ところが、徳川家康が稲富流砲術の腕と知識が絶えるのを惜しんで、忠興を宥め、祐直を家康の側近に侍らせ鉄砲の話を聞くことにして助命されたそう。

また、忠興は嫡男忠隆の正室で、結婚したばかりの前田利家とおまつの末娘千世姫が、ガラシャと一緒に死なずに隣の宇喜多家の姉の豪姫の屋敷に避難したことについても、なぜ一緒に死ななかったと激怒し、忠隆に千世姫との離婚を迫ったが忠隆が拒否、忠興は忠隆を勘当、廃嫡してしまいました。

3-2、父の幽斎と弟幸隆は田辺上に籠城、古今伝授を盾に助かる

また、弟の幸隆と父の幽斎は石田三成配下の1万5000の大軍に包囲され、500人の手勢で丹後田辺城に2か月籠城したが、古今伝授を盾に八条宮智仁親王を動かし、八条の宮はさらに実兄の後陽成天皇の勅命を引き出して講和に持ち込み、関ヶ原の戦いの前に開城となり、田辺城を包囲していた三成軍は関が原の本戦に間に合わなかったという落ちまでつきました。

しかし忠興はこの父の行動に不満だったようで、一時的に不仲になったということ。

3-3、忠興、九州へ国替え大幅加増

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忠興は、9月15日の関ヶ原本戦で、黒田長政らと共に石田三成の本隊と激闘、首級を136も上げたそう。そして家康による慶長5年(1600年)の論功行賞では、丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に国替し、大幅に加増、以前からの豊後杵築6万石はそのまま細川領とされたので、合計39万9000石の大名に。慶長7年(1602年)、中津城から、完成した小倉城に藩庁を移して小倉藩初代藩主。

\次のページで「3-3、その後、徳川幕府になってからの忠興」を解説!/

3-3、その後、徳川幕府になってからの忠興

忠興は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも参戦しましたが、50代でこの頃の老境に入ったこともあり、元和6年(1620年)、病気のため、3男の忠利に家督を譲って隠居。この頃、出家して三斎宗立に。

正保2年(1645年)閏5月に、晩年に生まれて可愛がっていた4男の立孝が30歳で亡くなり、忠興も後を追うように同年12月2日に死去。享年83歳。

4、忠興のエピソード

忠興は長生きをしたせいか、色々なエピソードを持っています。
これによって忠興の性格、趣向の一端がわかるかも。

4-1、天下一気が短いと家臣に記され、光秀に諭された忠興

家臣が記したらしい「茶道四祖伝書」の中で、「忠興は天下一気が短いが、気が長いのは蒲生氏郷」と。また、岳父の光秀に、丹波平定の際の合戦時に「降伏してくる者を無闇に殺してはいけない」と諭されていたということで、恭順する武者たちにむやみやたらと刀を振り回す忠興の様子が、目に見えるような気がする話では。

4-2、36歌仙と名付けた刀を所持

忠興は家臣を駒のように扱い、かっとなると手討ちにする人でしたが、美貌のガラシャ夫人に見とれた庭師を手討ちにしたとか、キリシタンの乳母のごく些細な過ちに対し鼻と耳をそいで追い出したとか、ぞっとするような話も多数。

忠興は、歌仙兼定(かせんかねさだ)という、銘二代目和泉守兼定作(ノサダ)を所持。この別名を36歌仙といい、それが肥後八代に隠居していた忠興が息子の当主忠利を取り巻く近臣達の輔佐ぶりが気に入らず、彼ら36人を次々と八代城に呼び寄せてこの刀で首を刎ねたことが由来という、なんとも血なまぐさいエピソードとして有名。

4-3、父と同じく一流の文化人

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忠興は父と同じ教養人でもあり、和歌や能楽、絵画にも通じていて「細川三斎茶書」という著書あり。千利休に師事し、利休に最も気に入られ利休七哲の一人。ちなみに利休が秀吉の怒りを買って切腹を命じられたときに、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部のみ。

秀吉の行った北野大茶湯では、大名たちが色々な趣向を凝らした茶店や茶席を設けたのですが、忠興は松向庵という名の茶席を設けたことから「松向殿」と呼ばれたことも。

4-4、医学への造詣もあり、食事にも気を使う

徳川家康が製剤させた漢方薬に関心を持ち、江戸の忠利に頼んで薬能書付き製法を入手、お抱え医師の指導で、自ら製剤したり、息子の忠利の症状を聞いただけで、癪か痰が原因と診断、命に別状はないから心配はないと書状を送ったり、将軍秀忠の病気を、幕府お抱えの医師たちが結論を出すずっと前に原因を突き止めたこともあったということ。


そして食事にも心を配っていて偏食を嫌い、息子の忠利にバランスのとれた食事をとるようにと手紙を送っていたそう。
忠興、この時代に83歳まで長生きするはずですね

\次のページで「4-5、忠興の考案した甲冑は、「越中具足」と呼ばれる様式に」を解説!/

4-5、忠興の考案した甲冑は、「越中具足」と呼ばれる様式に

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By Samuraiantiqueworld - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link

忠興は武将として使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案をするように。特に打刀(太刀ではなく、普通に帯びる刀)の拵(こしらえ)の忠興の考案した様式は「肥後拵」と呼ばれていて、忠興が修めた片山伯耆流居合術の刀法に適するように工夫されたもの、また甲冑は「越中具足」(越中流または三斎流)と称され、鞘や金具の装飾に茶道のわび、さびの感覚が反映されているということ。

ちなみに肥後、越中は忠興の通称、細川肥後守、越中守からで、まさかとは思うけれど、「越中ふんどし」という男性用下着も忠興の考案という説も。

4-5、大変な筆まめで今や貴重な史料に

忠興は非常に筆まめで長生きしたこともあって、関ヶ原の後だけでも約2000通を数える書簡を書き送ったと言われています。その多くが家督を継いだ3男忠利に対するもので1802通も残っていて、忠利から忠興への書状も1084通が。内容は徳川幕府の内情などを知らせるものが多く、現在では貴重な資料のひとつ。

5、忠興の正室、側室、子供たち

忠興は同い年の正室ガラシャとの間に3男2女が生まれ、数人いた側室からは晩年に3男2女が生まれています。
忠興の跡継ぎはガラシャの産んだ3男忠利で、長男忠隆は廃嫡後、出家して京都で文化人として世を送り、次男興秋は後継ぎになれず出奔した後、大坂の陣に参戦した後、敗戦後に逃れ、家康の許しは出たけれど忠興が許さず自害させました。

残忍で激しい性格を持つかと思えば茶道や武具に凝る、ミニ信長のような忠興

細川忠興は、父光秀の反逆で悩む美貌の妻ガラシャに対し、慰めるどころか束縛と執着をし続け、ガラシャのキリシタン信仰のきっかけのひとつになったほど悩ませたような人ですが、武将としても教養人としても時代を代表する一流の人物のひとりであったことは間違いないでしょう。家臣に対しても手討ち沙汰も辞さない残虐さを持っているかと思えば、茶道やわびさびを好み、後世に残る甲冑や刀の拵えのデザインもこなすなんて、忠興が尊敬していたというミニ信長のような感じもするではありませんか。

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安土桃山時代室町時代戦国時代日本史歴史江戸時代

父幽斎と同じく教養人「細川忠興」を歴女がわかりやすく解説!~こだわりが強く粗暴で残虐な面も持つ複雑な武将だった?~

今回は、細川忠興を取り上げるぞ。細川幽斎の息子でガラシャの夫ですが、父と同じく武将としても有能で教養人なんだ、茶人でもあり、鎧のデザインとかも趣味を超えていたらしいぞ。

やっぱり細川ガラシャ繋がりで興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。やはり細川ガラシャに思い入れがあり、その夫の忠興にも興味津々。今回ガラシャ、幽斎に続き、細川忠興についても調べまくり5分でわかるようにまとめた。

1、細川忠興は幽斎の長男

Hosokawa Tadaoki.jpg
By 不明。 – 永青文庫所蔵の肖像画。, パブリック・ドメイン, Link

忠興は、永禄6年(1563年)11月13日に京都で誕生。幼名は熊千代、通称は与一郎。父は足利義輝に仕えていた細川藤孝、後の幽斎、母は正室の沼田光兼の娘で麝香(じゃこう)。忠興は、義輝の命令で細川一族の分家である奥州家の細川輝経の養子とされましたが、この養子縁組は実質的なものではなくて系図の上だけのもの。その後も実父藤孝と行動をともにしていました。

永禄の変で将軍義輝が殺害された後、父幽斎や伯父たちが足利義昭を救出、擁護して近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走した頃、忠興は京都で密かにかくまわれて育っていたそう。

1-2、父が信長に仕えると、忠興は信長の長男信忠に仕えた

父幽斎らが明智光秀を通して織田信長を頼り、義昭を第15代将軍に擁立するも、信長と義昭が対立するようになると幽斎は信長に臣従し、息子の忠興は信長の嫡男信忠に仕えました。年少なので小姓とかでは。

1-3、忠興、初陣を飾り、元服し結婚も

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忠興は、天正5年(1577年)3月に15歳で紀州征伐に加わり初陣。10月には、信長から離反した松永久秀の武将森秀光が立て籠もっていた大和片岡城を、父幽斎、明智光秀と共に落とし、信長からもらった直筆の感状を終生大事にしたということです。
天正6年(1578年)に元服し、信忠より忠の字をもらって忠興に。また同年8月には信長の仲介で、光秀の三女玉子(後のガラシャ)と勝竜寺城で盛大な結婚式を挙行。この時、信長の命令で家紋を九曜にすることに。これは以前、忠興が信長の小刀の柄の九曜紋を大変気に入っていたことを信長が覚えていたため。

尚、ガラシャとの結婚では、長男忠隆をはじめ3男2女が生まれましたが、忠興は美貌のガラシャを他の男性に奪われる恐れを抱いて、家臣と言えどもガラシャを見せないようにし、ひたすら屋敷に閉じ込めて手紙のやり取りも監視、贅沢は許したが、籠の鶏のような生活を強いたことで、ガラシャがキリシタン信仰に入るきっかけのひとつになったと言われています。

1-4、忠興、武将として活躍

天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主一色義道を滅ぼし、天正8年(1580年)、父幽斎は丹後南半国の領主に。

天正9年(1581年)信長が行った京都御馬揃えに、忠興は一色満信らとともに参加。この際に信長は「蜀紅の錦の小袖」を着用しましたが、これは忠興が京で探し求めて信長に献上したということ。

かぶきものと言われた信長と意匠に凝るタイプの忠興は趣味があったのかも

2-1、本能寺の変勃発、細川家は光秀に味方せず

天正10年(1582年)6月、忠興の妻ガラシャの父明智光秀が本能寺の変で信長を倒し、直後に幽斎、忠興父子を味方に誘ったが、細川父子はこれを拒否。幽斎は剃髪して隠居し、忠興はガラシャを丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉。細川家に見放され、筒井順慶にも断られた光秀は予想外の速さの中国大返しで帰ってきた秀吉と山崎で戦ったが、あっけなく敗死。
同じく光秀の娘婿で会った織田家の一門の津田信澄は光秀との内通と誤解されて討伐されてしまったが、細川家の対応が早く明確だったために、同じ目に合わずに済んだと言われています。

2-2、忠興、北丹後の一色氏を滅ぼし、妹に恨まれる

その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じていき、織田政権下では父幽斎の同僚の北丹後の一色義定を謀殺した後に一色家旧臣を攻め滅ぼして、秀吉から丹後全域の領有を許された後、北丹後の元一色方の諸城に、重臣の軍勢を派遣、丹後一国を平定。

しかし政略結婚で一色義定に嫁いでいた忠興の妹の伊也は、兄に夫を謀殺されたことを恨み、戦後に兄に斬りかかり鼻に傷を負わせたという話も。

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