室町時代戦国時代日本史歴史

武人としても一流「細川幽斎」を歴女がわかりやすく解説!道を究め深い教養が身を助けた細川幽斎の生涯とは

4-4、関が原後、細川家は大大名に

家康に従って会津征伐に赴いていた幽斎嫡子忠興は、関ヶ原の戦いでは前線で石田三成の軍と戦って功績を上げ、戦後豊前小倉藩39万9000石に。忠興の息子忠利の代には熊本53万石にまで。この後、長岡と名乗っていたのを細川氏に復して、以後長岡姓は徳川における松平のように、細川別姓として一門や重臣に授けられるものになりました。

慶長15年(1610年)8月20日、幽斎は京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。

5、晩年の幽斎は京都に隠棲するも、子や孫が続々厄介に

関が原後の幽斎は、その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったのですが、なぜか息子や孫が次々と出奔した後出家し、京都の幽斎の家に厄介になるパターンで、慶長10年頃はおじいちゃんの家は満員盛況に。

5-1、次男の幸隆

兄の忠興と不仲になり出奔、頭を丸めて自安(持安)と名乗り、堺の妙国寺で数年過ごしたのち父・幽斎を頼って京都の小川屋敷で隠棲(後、家康の仲介で兄と和解)。

5-2、忠興長男の忠隆

母ガラシャ自害のとき、同じ大坂屋敷にいた嫁の前田利家娘千世が逃げたことで父忠興が激怒、徳川家が前田家との縁組をよく思っていないこともあり、忠隆に離縁しろと命令したが、忠隆は千世をかばって拒否。忠興は忠隆を、勘当、廃嫡に。忠隆はその後、剃髪して長岡休無と号して、千世と生まれたばかりの長男(夭折)と共に祖父幽斎の隠居所に転げ込んできました。忠隆もやはり細川家の人間、幽斎亡き後も文化人として京都の親戚や公家と交流し悠々自適、千世とは離縁したものの父子共に長生きだったので、後に忠興とも和解。

5-3、忠興の次男興秋

忠興の長男忠隆の廃嫡で、3男の忠利が後継ぎと決まり、代わりに江戸へ人質として行く羽目になった忠興の次男興秋(幸隆の養子)がまたまた出奔して建仁寺で剃髪、一時的に祖父幽斎のもとで暮らした後に大坂の陣へ参戦したが、敗戦後、家康は許すと言ったのに父の忠興は許さず、忠興の命令で切腹に。

当代一流の教養人として、古今伝授武将として歴史に残る幽斎

細川幽斎は、武家貴族と言われる家柄の良い武将でした。そういう武将は中身空っぽで実が伴わない人が多いのにもかかわらず、幽斎は武将としても、気難しい信長に仕え、秀吉にも好かれ、家康にもスムーズに鞍替えした世渡りの上手な賢さも。それはやはり道を究めた教養人であったからこそ。あの絶体絶命の籠城のときに実にうまく古今伝授を使い、天皇の勅令によって戦を終わらせたのも幽斎ならでは、まさに芸は身を助くを地で行く、得がたい武将だったと言っていいのではないでしょうか。

1 2 3 4
Share: