室町時代戦国時代日本史歴史

武人としても一流「細川幽斎」を歴女がわかりやすく解説!道を究め深い教養が身を助けた細川幽斎の生涯とは

2-2、息子忠興と明智光秀の娘ガラシャが結婚

天正6年(1578年)、信長の薦めで、幽斎の嫡男忠興と光秀の娘玉(後のガラシャ)の婚儀が盛大に挙行。この頃、忠興は信長の嫡男信忠に仕えていました。そして幽斎は天正8年(1580年)に単独で丹後国に進攻したが守護一色氏に反撃され失敗したものの、光秀の加勢で丹後南部を平定、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められたので、宮津城を居城に。
幽斎は、その後信長の甲州征伐に一色満信とともに出陣しています。

幽斎の兄は信長に切腹させられている

幽斎の兄三淵 藤英(みつぶち ふじひで)は同じく義昭に仕えていましたが、幽斎が義昭から信長に乗り換えたときには大いに怒り、幽斎の居城を襲撃しようとして失敗した後、義昭について最後まで信長に抵抗。義昭が信長に降伏し追放後は、信長に仕え、信長の命令で幽斎とともに淀城に立て籠もっていた最後の義昭派の岩成友通を攻めて友通を討ち取ったのですが、翌年、信長に突如所領を没収され、明智光秀の元に預けられると、嫡男秋豪と共に坂本城で切腹させられています。
これって、信長の思い出し怒りというか、絶対に裏切りは許さないという姿勢でしょうか。それに比べると、幽斎は信長、秀吉、家康の時代をじつにうまく生き抜いたと言えるのでは。

2-3、本能寺の変勃発、しかし息子の舅で同僚、友人でもある光秀に従わず

天正10年(1582年)本能寺の変で光秀が信長を倒した後、光秀は幽斎には一番に味方に付くように要請が来ましたが、友人で姻戚でもありたいへん親しい間柄だったはずが、頑として応じず。そして幽斎は信長の恩に報いて追悼すると称して剃髪、雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗りを変えて田辺城に隠居、嫡男忠興に家督を譲ってしまいました。このとき48歳。このことについては、光秀がもとは幽斎の細川家の家来だったから、光秀の支配下に入るのを良しとしなかったと言う説がありますが、光秀が発作的に信長を倒したものの、その後、信長の代わりに武将たちを統率出来ないだろう、光秀の世が続かないことを見抜いてのことでは。光秀は頼みの幽斎や筒井順慶にも味方になってもらえず、中国大返しで帰ってきた羽柴秀吉との山崎の合戦で敗戦、落ち武者狩りの農民に討たれて敗死。

尚、幽斎嫡男忠興は、光秀の娘の正室玉(ガラシャ)を離縁せず、秀吉のとりなしで大坂屋敷へ戻すまで約2年間も丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉隔離していました。

3、幽斎、秀吉にも重用され、趣味を通じて人脈を広げる

幽斎は、その後も秀吉に重用され、隠居したはずなのに、天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)九州平定にも武将として参加。 教養人としてもその存在を確固たるものにしていました。

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