今回は、細川幽斎を取り上げるぞ。戦国時代には珍しい家柄も良いが武将としても有能、歌人でもあり茶道なども趣味を超えていてこの時代随一と言われる教養人、おまけに天寿を全うしているのはすごい。

細川ガラシャ繋がりで細川幽斎にも興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。頭が良い、多趣味といわれる偉人にも興味津々。歌人、茶人としても知られ、信長、秀吉、家康の時代の変化に伴って実にうまく世渡りした細川幽斎について5分でわかるようにまとめた。

1、幽斎は足利将軍家の側近、細川家の出身

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By 天授庵所蔵 / A collection of Tenju-an - Uploaded by ブレイズマン (talk) at 06:41, 4 August 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

天文3年(1534年)4月22日、和泉上守護家細川元有の子で、三淵氏の養子になった三淵晴員(みぶち はるかず)の次男として京都東山で誕生。母は後妻の智慶院、京都吉田神社の宮司吉田兼倶の三男で下級公家の清原 宣賢(きよはら のぶかた)の娘。幼名は萬吉(まんきち)。

天文9年(1540年)には7歳で、父の兄である伯父の和泉半国守護細川元常の養子に。天文15年(1546年)、12歳で元服、14代足利将軍義藤(後の足利義輝)の偏諱をもらって、藤孝と名乗りました。天文21年(1552年)、18歳で従五位下兵部大輔に叙任。

尚、幽斎の母は足利13代将軍義晴の側室だった女性で、幽斎はかなりの確率高さで足利将軍の御落胤説も。

1-1、細川家は鎌倉時代から続き、室町幕府の管領の家柄

細川家は堂々たる清和源氏清和源氏の名門で、室町幕府の将軍足利氏の支流です。細川は、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したのが由来。細川家の先祖は南北朝時代に足利尊氏に従い北朝の室町幕府方として活躍、嫡流は室町幕府の管領として畿内、四国を中心にして一門が8か国の守護職を占める有力大名になりました。管領として3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が嫡流で、京兆家(けいちょう)と言い、斯波氏(しば)、畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに。また応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥に。戦国時代のはじめには、勝元の息子政元が、10代将軍足利 義稙(よしたね)を退けて幕府の実権を掌握、(明応の政変)、政敵を滅ぼして細川氏の全盛期を築いたほど。

細川家はいくつもの分家に分かれていて、幽斎の細川家は、傍流のひとつの和泉上守護家(細川刑部家)。

1-2、幽斎、沼田氏の娘と結婚

幽斎は、永禄5年(1562年)頃に若狭国熊川城主沼田光兼の娘、麝香(じゃこう)と結婚。幽斎は生涯側室を持たず、正室麝香との間には翌年嫡子忠興が、その後は次男の興元、幸隆ら、4男4女が生まれました。

1-3、幽斎、幕臣として14代将軍に仕えた後、15代将軍義昭を奉じて奔走

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若き幽斎は、幕臣として将軍義輝に仕えていましたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で、将軍義輝が三好三人衆により殺害。幽斎ら側近は、義輝の弟で奈良の一乗院で僧をしていた覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されていたのを救出、以後、近江の六角義賢、若狭の武田義統、そして越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走することに。

ついには当時は朝倉家に仕えていた明智光秀を通じ、尾張国の織田信長に助力を求めました。そして永禄11年(1568年)9月、信長は義昭を奉じて入京、幽斎ら側近も追従。義昭は朝廷から15代将軍に任命され、幽斎は勝竜寺城を三好三人衆のひとり岩成友通から奪還、以後大和国や摂津国を転戦。

1-4、幽斎、将軍義昭と信長対立後は、信長に接近

幽斎は、義昭と信長の対立が表面化した元亀4年(1573年)3月に、軍勢を率いて上洛した信長を出迎え、恭順の姿勢を示しました。それ以前からも幽斎が信長に手紙を送り、義昭が信長に逆心を抱くふしがあると密かに知らせていたことは、残っている信長の手紙からも明らか。そして幽斎は、信長から義昭が追放された後の7月には、桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、また名字を細川から改めて長岡 藤孝に。

2-1、幽斎、信長の武将として近畿内で活躍

元亀4年(1573年)8月には、幽斎は、池田勝正、兄の三淵藤英と共に三好三人衆のひとり岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼし、以後、信長の武将として畿内各地を転戦するように。幽斎は、高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほかに、山陰方面の総大将の明智光秀の与力としても活躍。そして天正5年(1577年)、松永久秀が信長に反旗を翻して籠った大和信貴山城を光秀と共に陥落させました(信貴山城の戦い)。

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2-2、息子忠興と明智光秀の娘ガラシャが結婚

天正6年(1578年)、信長の薦めで、幽斎の嫡男忠興と光秀の娘玉(後のガラシャ)の婚儀が盛大に挙行。この頃、忠興は信長の嫡男信忠に仕えていました。そして幽斎は天正8年(1580年)に単独で丹後国に進攻したが守護一色氏に反撃され失敗したものの、光秀の加勢で丹後南部を平定、信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められたので、宮津城を居城に。
幽斎は、その後信長の甲州征伐に一色満信とともに出陣しています。

幽斎の兄は信長に切腹させられている

幽斎の兄三淵 藤英(みつぶち ふじひで)は同じく義昭に仕えていましたが、幽斎が義昭から信長に乗り換えたときには大いに怒り、幽斎の居城を襲撃しようとして失敗した後、義昭について最後まで信長に抵抗。義昭が信長に降伏し追放後は、信長に仕え、信長の命令で幽斎とともに淀城に立て籠もっていた最後の義昭派の岩成友通を攻めて友通を討ち取ったのですが、翌年、信長に突如所領を没収され、明智光秀の元に預けられると、嫡男秋豪と共に坂本城で切腹させられています。
これって、信長の思い出し怒りというか、絶対に裏切りは許さないという姿勢でしょうか。それに比べると、幽斎は信長、秀吉、家康の時代をじつにうまく生き抜いたと言えるのでは。

2-3、本能寺の変勃発、しかし息子の舅で同僚、友人でもある光秀に従わず

天正10年(1582年)本能寺の変で光秀が信長を倒した後、光秀は幽斎には一番に味方に付くように要請が来ましたが、友人で姻戚でもありたいへん親しい間柄だったはずが、頑として応じず。そして幽斎は信長の恩に報いて追悼すると称して剃髪、雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗りを変えて田辺城に隠居、嫡男忠興に家督を譲ってしまいました。このとき48歳。このことについては、光秀がもとは幽斎の細川家の家来だったから、光秀の支配下に入るのを良しとしなかったと言う説がありますが、光秀が発作的に信長を倒したものの、その後、信長の代わりに武将たちを統率出来ないだろう、光秀の世が続かないことを見抜いてのことでは。光秀は頼みの幽斎や筒井順慶にも味方になってもらえず、中国大返しで帰ってきた羽柴秀吉との山崎の合戦で敗戦、落ち武者狩りの農民に討たれて敗死。

尚、幽斎嫡男忠興は、光秀の娘の正室玉(ガラシャ)を離縁せず、秀吉のとりなしで大坂屋敷へ戻すまで約2年間も丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉隔離していました。

3、幽斎、秀吉にも重用され、趣味を通じて人脈を広げる

幽斎は、その後も秀吉に重用され、隠居したはずなのに、天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)九州平定にも武将として参加。 教養人としてもその存在を確固たるものにしていました。

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3-1、幽斎、趣味を通じて家康にも接近

幽斎は、武将としてだけでなく教養人としても重宝な存在で、千利休や木食応其(もくじきおうご)らと共に、秀吉のお側衆として仕えました。幽斎の嫡子忠興(三斎)も茶道に造詣が深く千利休の高弟の一人。
また幽斎は一方で慶長3年(1598年)に秀吉が死去する以前から家康と親交。「言継卿記」では、文禄3年(1594年)頃には頻繁に家康と食事している記録もあり、「耳底記」には関ヶ原の年の慶長5年(西暦1600年)5月4日に家康が吉田兼見の許を訪れ、公家の山科言経、柳原淳光、幽斎、山名禅高、その他の人と一緒に碁をうち、幽斎が鯉庖丁を披露したと記されているそう。

耳底記(じていき、にていき)とは、公家の烏丸光広が、細川幽斎の言葉や、幽斎との問答を筆録した歌学書で、幽斎が太鼓を叩いたり、招待客に古今伝授の資料を披露し、庖丁術も披露していることなどが記されています。

3-2、幽斎の弟子は当代一流の文化人

幽斎の門人には、後陽成天皇の弟宮で秀吉の猶子だった八条宮智仁親王ほか、公家の中院通勝、烏丸光広など、松永貞徳、木下長嘯子らも。薩摩の島津義久は幽斎が義昭に仕えていた頃から交友関係にあり、幽斎から直接古今伝授を受けようとしたといわれています。
この人脈が後に役に立つんですね

4、関が原前夜、細川家、石田三成軍に攻められる

嫡子忠興は、家康の会津征伐に参加して留守の間、細川家では、大坂屋敷に忠興正室ガラシャが、居城の田辺城には幽斎と3男の幸隆がいたので、石田三成軍が挙兵した後、細川家が狙われることに。

4-1、大坂屋敷では嫁のガラシャが自決し、幽斎の城にも石田三成の軍勢が

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慶長5年(1600年)6月、幽斎の嫡子忠興は、家康の会津征伐に参加したため、幽斎は三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守っていました。そして7月になると石田三成らが家康討伐の兵を挙げて、大坂の大名屋敷にいた大名の夫人や家族を大坂城に人質として入るように要請。真っ先に忠興の正室で美貌のガラシャの屋敷へ来たのですが、忠興の命令でガラシャは家族や家来たちを逃がした後、屋敷に火を放って、家老小笠原少斎の手によって殺害
尚、幽斎の正室麝香は、ガラシャの死で思うところがあったらしく後に洗礼を受け、細川マリアに。

そして幽斎のいる田辺城も、石田三成配下の1万5000人の大軍に包囲され、幽斎たちは籠城。しかし攻囲軍の中には、なんと幽斎の歌道の弟子も多くいて、戦闘意欲に乏しかったということで長期戦に。

4-2、幽斎、古今伝授を理由に朝廷を動かす

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幽斎は歌人として、公家の三條西家に代々伝わる古今伝授を三条西実枝(さねえだ)から受けていました。これは三條西家の跡継ぎが幼いために、幽斎が伝授されたものを、三条西公国とさらにその子三条西実条に返し伝授することになっていたという一時的な処置。そういう理由で、幽斎は当時唯一の古今伝授の伝承者であることで、それを伝授しないまま戦死すれば永久に失われると、幽斎の歌の弟子の一人で秀吉猶子だった八条宮智仁親王に、包囲軍を突破してまで使者を送って伝えたのですね。

八条宮は7月と8月の2度にわたって講和を働きかけたのですが、幽斎はなぜか武将としての意地を示して謝絶し、籠城戦を継続。そして「古今集証明状」を八条宮に贈り、「源氏抄」と「二十一代和歌集」を後陽成天皇に献上。いよいよもって八条宮が兄の後陽成天皇に奏請し、三条西実条、中院通勝、烏丸光広が勅使として田辺城に赴き、関ヶ原合戦の2日前に勅命による講和になり、古今伝授で天皇を動かしたおかげで、幽斎の2ヶ月に及ぶ籠城戦は無事に終了。
しかし嫡男忠興は、西軍に屈した幽斎に対し怒りをあらわにし、一時不仲であったそう。

4-3、幽斎は武道にも文芸にも秀でた教養の持ち主

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幽斎は、まさに文武両道、オールマイティーな人で、武人としては剣術等の武芸百般をこなし、剣術はあの塚原卜伝に学んだし、弓術の印可も受け、弓馬故実(武田流)を武田信豊から相伝されるなど、武芸にも高い素質があったうえに、大変な怪力の持ち主でもあり、京都の路上で突進してきた牛に立ち向かい、牛の角をつかんで投げ倒した、また、織田信雄の屋敷の門番が取り押さえようとすると、門番が悲鳴をあげるほど手を握り潰したという逸話も。そして、嫡男忠興と共に遊泳術にも優れていたそう。

文芸は古今伝授を受けた和歌は言うまでもなく、当時流行していた連歌、茶道、蹴鞠等を修め、さらには囲碁、包丁術、猿楽などにも深い造詣が。著作に、「古今若衆序」「百人一首抄」「古今和歌集聞書」「衆妙集」「伊勢物語闕疑抄」「詠歌大概抄」「九州道の記」「東国陣道の記」があります。

\次のページで「4-4、関が原後、細川家は大大名に 」を解説!/

4-4、関が原後、細川家は大大名に

家康に従って会津征伐に赴いていた幽斎嫡子忠興は、関ヶ原の戦いでは前線で石田三成の軍と戦って功績を上げ、戦後豊前小倉藩39万9000石に。忠興の息子忠利の代には熊本53万石にまで。この後、長岡と名乗っていたのを細川氏に復して、以後長岡姓は徳川における松平のように、細川別姓として一門や重臣に授けられるものになりました。

慶長15年(1610年)8月20日、幽斎は京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。

5、晩年の幽斎は京都に隠棲するも、子や孫が続々厄介に

関が原後の幽斎は、その後の幽斎は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったのですが、なぜか息子や孫が次々と出奔した後出家し、京都の幽斎の家に厄介になるパターンで、慶長10年頃はおじいちゃんの家は満員盛況に。

5-1、次男の幸隆

兄の忠興と不仲になり出奔、頭を丸めて自安(持安)と名乗り、堺の妙国寺で数年過ごしたのち父・幽斎を頼って京都の小川屋敷で隠棲(後、家康の仲介で兄と和解)。

5-2、忠興長男の忠隆

母ガラシャ自害のとき、同じ大坂屋敷にいた嫁の前田利家娘千世が逃げたことで父忠興が激怒、徳川家が前田家との縁組をよく思っていないこともあり、忠隆に離縁しろと命令したが、忠隆は千世をかばって拒否。忠興は忠隆を、勘当、廃嫡に。忠隆はその後、剃髪して長岡休無と号して、千世と生まれたばかりの長男(夭折)と共に祖父幽斎の隠居所に転げ込んできました。忠隆もやはり細川家の人間、幽斎亡き後も文化人として京都の親戚や公家と交流し悠々自適、千世とは離縁したものの父子共に長生きだったので、後に忠興とも和解。

5-3、忠興の次男興秋

忠興の長男忠隆の廃嫡で、3男の忠利が後継ぎと決まり、代わりに江戸へ人質として行く羽目になった忠興の次男興秋(幸隆の養子)がまたまた出奔して建仁寺で剃髪、一時的に祖父幽斎のもとで暮らした後に大坂の陣へ参戦したが、敗戦後、家康は許すと言ったのに父の忠興は許さず、忠興の命令で切腹に。

当代一流の教養人として、古今伝授武将として歴史に残る幽斎

細川幽斎は、武家貴族と言われる家柄の良い武将でした。そういう武将は中身空っぽで実が伴わない人が多いのにもかかわらず、幽斎は武将としても、気難しい信長に仕え、秀吉にも好かれ、家康にもスムーズに鞍替えした世渡りの上手な賢さも。それはやはり道を究めた教養人であったからこそ。あの絶体絶命の籠城のときに実にうまく古今伝授を使い、天皇の勅令によって戦を終わらせたのも幽斎ならでは、まさに芸は身を助くを地で行く、得がたい武将だったと言っていいのではないでしょうか。

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室町時代戦国時代日本史歴史

武人としても一流「細川幽斎」を歴女がわかりやすく解説!道を究め深い教養が身を助けた細川幽斎の生涯とは

今回は、細川幽斎を取り上げるぞ。戦国時代には珍しい家柄も良いが武将としても有能、歌人でもあり茶道なども趣味を超えていてこの時代随一と言われる教養人、おまけに天寿を全うしているのはすごい。

細川ガラシャ繋がりで細川幽斎にも興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。頭が良い、多趣味といわれる偉人にも興味津々。歌人、茶人としても知られ、信長、秀吉、家康の時代の変化に伴って実にうまく世渡りした細川幽斎について5分でわかるようにまとめた。

1、幽斎は足利将軍家の側近、細川家の出身

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By 天授庵所蔵 / A collection of Tenju-an – Uploaded by ブレイズマン (talk) at 06:41, 4 August 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link

天文3年(1534年)4月22日、和泉上守護家細川元有の子で、三淵氏の養子になった三淵晴員(みぶち はるかず)の次男として京都東山で誕生。母は後妻の智慶院、京都吉田神社の宮司吉田兼倶の三男で下級公家の清原 宣賢(きよはら のぶかた)の娘。幼名は萬吉(まんきち)。

天文9年(1540年)には7歳で、父の兄である伯父の和泉半国守護細川元常の養子に。天文15年(1546年)、12歳で元服、14代足利将軍義藤(後の足利義輝)の偏諱をもらって、藤孝と名乗りました。天文21年(1552年)、18歳で従五位下兵部大輔に叙任。

尚、幽斎の母は足利13代将軍義晴の側室だった女性で、幽斎はかなりの確率高さで足利将軍の御落胤説も。

1-1、細川家は鎌倉時代から続き、室町幕府の管領の家柄

細川家は堂々たる清和源氏清和源氏の名門で、室町幕府の将軍足利氏の支流です。細川は、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したのが由来。細川家の先祖は南北朝時代に足利尊氏に従い北朝の室町幕府方として活躍、嫡流は室町幕府の管領として畿内、四国を中心にして一門が8か国の守護職を占める有力大名になりました。管領として3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が嫡流で、京兆家(けいちょう)と言い、斯波氏(しば)、畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに。また応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥に。戦国時代のはじめには、勝元の息子政元が、10代将軍足利 義稙(よしたね)を退けて幕府の実権を掌握、(明応の政変)、政敵を滅ぼして細川氏の全盛期を築いたほど。

細川家はいくつもの分家に分かれていて、幽斎の細川家は、傍流のひとつの和泉上守護家(細川刑部家)。

1-2、幽斎、沼田氏の娘と結婚

幽斎は、永禄5年(1562年)頃に若狭国熊川城主沼田光兼の娘、麝香(じゃこう)と結婚。幽斎は生涯側室を持たず、正室麝香との間には翌年嫡子忠興が、その後は次男の興元、幸隆ら、4男4女が生まれました。

1-3、幽斎、幕臣として14代将軍に仕えた後、15代将軍義昭を奉じて奔走

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若き幽斎は、幕臣として将軍義輝に仕えていましたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で、将軍義輝が三好三人衆により殺害。幽斎ら側近は、義輝の弟で奈良の一乗院で僧をしていた覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されていたのを救出、以後、近江の六角義賢、若狭の武田義統、そして越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走することに。

ついには当時は朝倉家に仕えていた明智光秀を通じ、尾張国の織田信長に助力を求めました。そして永禄11年(1568年)9月、信長は義昭を奉じて入京、幽斎ら側近も追従。義昭は朝廷から15代将軍に任命され、幽斎は勝竜寺城を三好三人衆のひとり岩成友通から奪還、以後大和国や摂津国を転戦。

1-4、幽斎、将軍義昭と信長対立後は、信長に接近

幽斎は、義昭と信長の対立が表面化した元亀4年(1573年)3月に、軍勢を率いて上洛した信長を出迎え、恭順の姿勢を示しました。それ以前からも幽斎が信長に手紙を送り、義昭が信長に逆心を抱くふしがあると密かに知らせていたことは、残っている信長の手紙からも明らか。そして幽斎は、信長から義昭が追放された後の7月には、桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、また名字を細川から改めて長岡 藤孝に。

2-1、幽斎、信長の武将として近畿内で活躍

元亀4年(1573年)8月には、幽斎は、池田勝正、兄の三淵藤英と共に三好三人衆のひとり岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼし、以後、信長の武将として畿内各地を転戦するように。幽斎は、高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほかに、山陰方面の総大将の明智光秀の与力としても活躍。そして天正5年(1577年)、松永久秀が信長に反旗を翻して籠った大和信貴山城を光秀と共に陥落させました(信貴山城の戦い)。

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