
細川ガラシャ繋がりで細川幽斎にも興味を持って調べたというあんじぇりかと一緒に解説していきます。
- 1、幽斎は足利将軍家の側近、細川家の出身
- 1-1、細川家は鎌倉時代から続き、室町幕府の管領の家柄
- 1-2、幽斎、沼田氏の娘と結婚
- 1-3、幽斎、幕臣として14代将軍に仕えた後、15代将軍義昭を奉じて奔走
- 1-4、幽斎、将軍義昭と信長対立後は、信長に接近
- 2-1、幽斎、信長の武将として近畿内で活躍
- 2-2、息子忠興と明智光秀の娘ガラシャが結婚
- 2-3、本能寺の変勃発、しかし息子の舅で同僚、友人でもある光秀に従わず
- 3、幽斎、秀吉にも重用され、趣味を通じて人脈を広げる
- 3-1、幽斎、趣味を通じて家康にも接近
- 3-2、幽斎の弟子は当代一流の文化人
- 4、関が原前夜、細川家、石田三成軍に攻められる
- 4-1、大坂屋敷では嫁のガラシャが自決し、幽斎の城にも石田三成の軍勢が
- 4-2、幽斎、古今伝授を理由に朝廷を動かす
- 4-3、幽斎は武道にも文芸にも秀でた教養の持ち主
- 4-4、関が原後、細川家は大大名に
- 5、晩年の幽斎は京都に隠棲するも、子や孫が続々厄介に
- 5-1、次男の幸隆
- 5-2、忠興長男の忠隆
- 5-3、忠興の次男興秋
- 当代一流の教養人として、古今伝授武将として歴史に残る幽斎
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っているあんじぇりか。頭が良い、多趣味といわれる偉人にも興味津々。歌人、茶人としても知られ、信長、秀吉、家康の時代の変化に伴って実にうまく世渡りした細川幽斎について5分でわかるようにまとめた。
1、幽斎は足利将軍家の側近、細川家の出身
By 天授庵所蔵 / A collection of Tenju-an – Uploaded by ブレイズマン (talk) at 06:41, 4 August 2008 (UTC), パブリック・ドメイン, Link
天文3年(1534年)4月22日、和泉上守護家細川元有の子で、三淵氏の養子になった三淵晴員(みぶち はるかず)の次男として京都東山で誕生。母は後妻の智慶院、京都吉田神社の宮司吉田兼倶の三男で下級公家の清原 宣賢(きよはら のぶかた)の娘。幼名は萬吉(まんきち)。
天文9年(1540年)には7歳で、父の兄である伯父の和泉半国守護細川元常の養子に。天文15年(1546年)、12歳で元服、14代足利将軍義藤(後の足利義輝)の偏諱をもらって、藤孝と名乗りました。天文21年(1552年)、18歳で従五位下兵部大輔に叙任。
尚、幽斎の母は足利13代将軍義晴の側室だった女性で、幽斎はかなりの確率高さで足利将軍の御落胤説も。
1-1、細川家は鎌倉時代から続き、室町幕府の管領の家柄
細川家は堂々たる清和源氏清和源氏の名門で、室町幕府の将軍足利氏の支流です。細川は、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したのが由来。細川家の先祖は南北朝時代に足利尊氏に従い北朝の室町幕府方として活躍、嫡流は室町幕府の管領として畿内、四国を中心にして一門が8か国の守護職を占める有力大名になりました。管領として3代将軍足利義満を補佐した細川頼之が嫡流で、京兆家(けいちょう)と言い、斯波氏(しば)、畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに。また応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥に。戦国時代のはじめには、勝元の息子政元が、10代将軍足利 義稙(よしたね)を退けて幕府の実権を掌握、(明応の政変)、政敵を滅ぼして細川氏の全盛期を築いたほど。
細川家はいくつもの分家に分かれていて、幽斎の細川家は、傍流のひとつの和泉上守護家(細川刑部家)。
1-2、幽斎、沼田氏の娘と結婚
幽斎は、永禄5年(1562年)頃に若狭国熊川城主沼田光兼の娘、麝香(じゃこう)と結婚。幽斎は生涯側室を持たず、正室麝香との間には翌年嫡子忠興が、その後は次男の興元、幸隆ら、4男4女が生まれました。
1-3、幽斎、幕臣として14代将軍に仕えた後、15代将軍義昭を奉じて奔走

若き幽斎は、幕臣として将軍義輝に仕えていましたが、永禄8年(1565年)の永禄の変で、将軍義輝が三好三人衆により殺害。幽斎ら側近は、義輝の弟で奈良の一乗院で僧をしていた覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されていたのを救出、以後、近江の六角義賢、若狭の武田義統、そして越前の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走することに。
ついには当時は朝倉家に仕えていた明智光秀を通じ、尾張国の織田信長に助力を求めました。そして永禄11年(1568年)9月、信長は義昭を奉じて入京、幽斎ら側近も追従。義昭は朝廷から15代将軍に任命され、幽斎は勝竜寺城を三好三人衆のひとり岩成友通から奪還、以後大和国や摂津国を転戦。
1-4、幽斎、将軍義昭と信長対立後は、信長に接近
幽斎は、義昭と信長の対立が表面化した元亀4年(1573年)3月に、軍勢を率いて上洛した信長を出迎え、恭順の姿勢を示しました。それ以前からも幽斎が信長に手紙を送り、義昭が信長に逆心を抱くふしがあると密かに知らせていたことは、残っている信長の手紙からも明らか。そして幽斎は、信長から義昭が追放された後の7月には、桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現長岡京市、向日市付近)の知行を許され、また名字を細川から改めて長岡 藤孝に。
2-1、幽斎、信長の武将として近畿内で活躍
元亀4年(1573年)8月には、幽斎は、池田勝正、兄の三淵藤英と共に三好三人衆のひとり岩成友通を山城淀城の戦い(第二次淀古城の戦い)で滅ぼし、以後、信長の武将として畿内各地を転戦するように。幽斎は、高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐のほかに、山陰方面の総大将の明智光秀の与力としても活躍。そして天正5年(1577年)、松永久秀が信長に反旗を翻して籠った大和信貴山城を光秀と共に陥落させました(信貴山城の戦い)。
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