平安時代の貴族たちは実際どんな人たちだったのか、いまいち想像しにくいよな。貴族というと高尚なイメージが強くて、人間性がよく見えてこないからでしょう。「清少納言」は社交的な性格だったようで男友達もたくさん。生き生きとした平安貴族男子のリアルな実態を書き残している。

それじゃ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に「清少納言」が伝える平安貴族男子のエピソードを解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。作者の清少納言は、平安時代の男性貴族の話題を生き生きと描写。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて清少納言が記した平安貴族男子エピソードの記事をまとめた。

「枕草子」の登場人物は時期と共に変化する

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清少納言は「枕草子」のなかで、その時々に興味を持った男性貴族のことを書き記しています。彼女が出会う平安貴族は、仕えていた中宮定子の境遇に応じて変化しました。

前半の主人公たちは華やかで教養あふれる上流貴族たち

中宮定子が貴族社会の中心にいたとき、周囲にいる男性は上流貴族。登場する男性貴族の多くは、漢学や和歌の教養に優れていました。和歌の返し方や立ち振る舞いを、清少納言が賞賛する場面がたびたび見られます。

清少納言は、優れた貴族との交流を書き記すことで、中宮定子のステータスを高めることに貢献。社会的な評価が高い男性貴族との交流を発信することで、中宮定子の宮中における位置がよりよい印象となりました。

後半になると中下流貴族のささやかな日常にフォーカスをあてる

しかし、中宮定子が後ろ盾を失って宮中の中心から離れると、賞賛される登場人物は一気に激減します。漢学・和歌の教養がない中流・下流の貴族にシフト。教養のなさをおもしろおかしく記述するようになります。

そのため「枕草子」の後半は、平安貴族のユニークなやりとりや、教養はないがどこか憎めない男性がたびたび登場。みんなで笑いあう場面を入れることで、失脚後の中宮定子の姿を明るいものにしようとしました。

無骨だけど人はいい!橘則光

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清少納言の旦那さんとして知られる貴族が橘則光。中流貴族にあたる人物です。東北エリアを統括する陸奥守などの地方官を歴任していました。

清少納言と結婚するものの離婚

清少納言の夫として有名な則光ですが、残念ながら離婚するに至ります。則光の人物像を伝えるのが「今昔物語集」。それによると、3人の盗賊に襲われときに逆に取り押さえた、いわゆる体育会系の男性でした。

和歌を詠むなど教養を愛する清少納言。しかし橘則光は、和歌に対して上手く返答するなどの気転はなし。趣向の違いから徐々に溝が深まり、離婚することになったと言われています。

離婚後も清少納言と良好な関係を継続

とはいえ、清少納言と橘則光は離婚後も良好な関係を維持しました。宮中のなかで顔を合わせる機会が多かった2人。兄(せうと)、妹(いもうと)と互いを呼びあう仲で、宮中でも公認だったようです。

しかしながら、則光の上司にあたる藤原斉信が清少納言を藤原道長の派閥に入れようとしたことで、2人の関係は微妙に。仲たがいをしたわけではないのですが自然消滅となってしまいました。

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藤原伊周は父親ゆずりの美男子

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藤原摂関政治を不動のものとした兼家、その最盛期を築き上げた道長。この2人のあいだに関白を務めた人物が藤原道隆です。藤原道隆には4人の息子がいました。そのひとりが藤原伊周。平安時代の美男子のひとりとして名高い人物です。

清少納言は藤原伊周の漢詩を詠む姿にうっとり?

清少納言は藤原伊周が漢詩を朗詠する様子をたびたび記しています。「大鏡」によると、伊周は太りすぎていて俊敏に動けなかったとのこと。太っていたからこそ漢詩の朗詠を堂々とこなせたのかもしれません。

平安時代は、地位のある人は太っている方が貫録があるのでいいとされました。そのため美男子として名高い伊周ですが、現代の価値観とはかなり異なる基準で評価されていたと言えます。

左遷されるときの伊周について清少納言は触れず

藤原伊周は叔父にあたる藤原道長との権力争いに負けて大宰府に左遷。そのときの様子を清少納言は記していません。しかし「栄花物語」には、長らく母や妹と手を取り合い泣きじゃくる情けない姿が記録されました。

母親が危篤となったとき、こっそりと配流地を抜け出して再逮捕されたというエピソードも。漢学に優れていながらも政権争いに弱く、ちょっと情けないのが伊周。どこか憎めない男性だったようです。

やんちゃで快活な平安貴族が藤原隆家

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藤原隆家は伊周のすぐ下の弟。伊周と隆家の間に入るのが清少納言が仕えた中宮定子となります。心優しいお坊ちゃまである伊周とは対照的な隆家。けんかっ早くやんちゃだったと言われています。

清少納言とかわしたクラゲの話

清少納言は「枕草子」のなかで隆家と交わしたクラゲの話を記しています。上質な扇の骨を手に入れた隆家。それにふさわしい紙を探していました。どのような骨なのか定子が質問すると「見たことがない骨」と答えました。

それを聞いていた清少納言が「クラゲの骨ですか」と会話に入ります。その表現に感心した隆家。「自分が言ったことにしよう」と笑ったとのこと。ここから隆家はユーモアがあるおちゃめな性格だったことが分かります。

法王邸の荒法師たちといがみあい

おちゃめでありながらもけんかっ早い隆家のエピソードを記しているのが「大鏡」。花山法王の挑発を受けた隆家は、家来をたくさん引き連れて法王の家の前まで行き、荒法師たちといがみあいました。

負けず嫌いでやんちゃな性格の隆家は、敵対関係にある藤原道長に気に入られるほど。政権争いに負けて左遷されていた時期、道長に飲み会に招待されることもあったそうです。

出世欲が強い野心家!藤原斉信

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「枕草子」のなかで清少納言がもっともたくさん触れた人物が藤原斉信。道隆の従弟にあたる人物です。藤原斉信の人物像は強欲。出世欲が強く、政敵だった藤原道長にすり寄ったことでも知られています。

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清少納言と斉信は手紙を交換して仲直り

強欲キャラが色濃い藤原斉信。しかし清少納言は、どちらかというと好意的に斉信との交流を描いています。斉信は清少納言と絶縁していた時期がありました。しかし漢詩の交換を通じて仲直りをします。

斉信が清少納言に送ったのが白楽天による漢詩の一文。清少納言は、その漢詩の続きを返答する流れに。しかし、女性が漢詩を書くことは表向きよいことではないため和歌に置き換えて送ったそうです。

中宮定子の喪中の時期に最多登場

斉信が登場する時期、兄の道隆が亡くなったことで、中宮定子は喪に服していました。そのため中宮定子のサロンの人々は喪服。1年物あいだ、中宮定子サロンから華やかさや輝きが消えてしまいます。

そのなかでも清少納言は「枕草子」を通じて中宮定子のすばらしさを発信する必要が。そこで時の人である藤原斉信が何度も登場。喪中の時期であっても定子の輝きを維持させようとしました。

長徳の変は清少納言のターニングポイント!そのとき支えたのが源経房

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長徳元(995)年に関白である藤原道隆が病死。その後、後継者候補たちが続々と疫病で亡くなります。最後は藤原伊周と藤原道長の一騎打ちに。伊周が都から追い出された経緯を長徳の変と言います。

源経房は中宮定子サロンの状況を報告する気遣いの人

長徳の変のあと、伊周の妹である中宮定子は謹慎生活をすることに。そのあいだ清少納言は里に戻っていました。里下がりが長期化した清少納言をなんども訪ねてきたのが源経房です。

源経房は謹慎中ながらも凛として生きる定子の様子を詳細に報告。他の女房たちのメッセージも伝えました。定子のもとに戻るように清少納言を励ます気遣いの男性。それが源経房でした。

没落の悲劇に見舞われたこともある源経房

源経房は政治的には道長に近い人物。しかし源経房の父親は政権争いの果てに左遷されたという過去が。彼自身が没落貴族の境遇をよく知っていたため、政敵に位置する清少納言を気にかけたのです。

源経房のはげましのあと、中宮定子からも帰ってきてほしいという手紙が届きます。清少納言は長い時間をかけて再び宮中に戻ることを決心。その過程で源経房の訪問は一定の影響を与えました。

藤原行成は有能な官僚貴族のひとり

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最多登場回数をほこる藤原斎信と同じくらい清少納言が注目した人物が藤原行成。藤原斎信が出世して中宮定子サロンに出入りしなくなったころ、入れ替わるように顔を見せ始めます。行成は、斎信と共に優秀な官僚として一目置かれた存在でした。

藤原行成とのやり取りから有名な歌が生まれた

清少納言と藤原行成の交流のなかで生まれた歌は、百人一首に含まれる有名なもの。行成が男女の逢瀬を意味する「逢坂の関」という言葉を出して清少納言をからかいます。そこで詠まれた歌が次のもの。

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関はゆるざじ(清少納言)

この歌を送ったところ行成が「逢坂の関は簡単に越えられる」と、男女関係を意識させる和歌を返信。それに対して清少納言は何も言えなくなってしまいました。

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ニーズをうまく見極め後一条天皇に気に入られる

藤原行成は教養に優れていると同時に物事を見極める力も高かったと言われています。その根拠となるのが子供だった後一条天皇に対するプレゼント選びのエピソード。

他の貴族たちは金や銀でできた豪華なおもちゃを進呈。それに対して行成はシンプルな独楽(こま)をプレゼントします。後一条天皇はその独楽を気に入り、他のものには目もくれませんでした。

「枕草子」でもっとも笑われた男が源方弘

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清少納言が「枕草子」で描く男性貴族の多くは、一定以上の階級があり教養にあふれた人物像。しかし源方弘の場合はかなり雰囲気が異なります。源方弘は貴族のなかでは低い地位にあり、上流階級に笑われる道化師のような位置づけでした。

貴族社会で言葉遣いは笑いのネタになっていた

源方弘が笑われる原因のひとつが言葉遣い。文章生という官僚養成学校から試験を経て宮中に入った努力の人です。しかし上流階級出身ではないことから話し方が無骨。それを貴族たちが笑っていました。

清少納言が田舎出身の男性の方言をおもしろがる章段があります。同じように源方弘の田舎なまりも笑いのネタに。貴族間でも、都会育ちか田舎育ちかという区別があったことが分かります。

努力を通じて立身出世を成し遂げた男

源方弘は、自分の失敗を大声で話す、がさつなふるまいをするなど、ちょっと浮いた存在。そんな笑われ者の源方弘ですが、彼のいいところはそれを気にしないでがむしゃらに頑張ることです。

彼はどんなに笑われても自分の上司のために一生懸命はたらきました。「どうしてそんなにがんばれるのか」という声が出るほど。みんなは方弘を笑いながらも一目置いていたことが分かります。

清少納言は平安貴族男子のリアルな実態を描き出した

清少納言が「枕草子」で描き出したのは平安貴族男子のリアルな日常。教養あふれながらも隙がある、性格に難がありながらも憎めない、貴族の人間的な魅力を生き生きを描き出しました。平安貴族男子の実態は、政権争いが激しいことを除けば、現代の男性と共通するところも多いのでは。中宮定子サロンの広報としての役割もあった「枕草子」。清少納言のするどい観察眼は、平安時代の歴史にリアリティを加えてくれました。

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平安時代日本史歴史

個性豊かな男性がたくさん!「清少納言」が伝える平安貴族男子のリアルな実態を元大学教員がわかりやすく解説

平安時代の貴族たちは実際どんな人たちだったのか、いまいち想像しにくいよな。貴族というと高尚なイメージが強くて、人間性がよく見えてこないからでしょう。「清少納言」は社交的な性格だったようで男友達もたくさん。生き生きとした平安貴族男子のリアルな実態を書き残している。

それじゃ、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に「清少納言」が伝える平安貴族男子のエピソードを解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。「枕草子」が好きなことから平安時代にも興味を持ち、いろいろ調べるように。作者の清少納言は、平安時代の男性貴族の話題を生き生きと描写。そこで、平安時代の歴史的背景とあわせて清少納言が記した平安貴族男子エピソードの記事をまとめた。

「枕草子」の登場人物は時期と共に変化する

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清少納言は「枕草子」のなかで、その時々に興味を持った男性貴族のことを書き記しています。彼女が出会う平安貴族は、仕えていた中宮定子の境遇に応じて変化しました。

前半の主人公たちは華やかで教養あふれる上流貴族たち

中宮定子が貴族社会の中心にいたとき、周囲にいる男性は上流貴族。登場する男性貴族の多くは、漢学や和歌の教養に優れていました。和歌の返し方や立ち振る舞いを、清少納言が賞賛する場面がたびたび見られます。

清少納言は、優れた貴族との交流を書き記すことで、中宮定子のステータスを高めることに貢献。社会的な評価が高い男性貴族との交流を発信することで、中宮定子の宮中における位置がよりよい印象となりました。

後半になると中下流貴族のささやかな日常にフォーカスをあてる

しかし、中宮定子が後ろ盾を失って宮中の中心から離れると、賞賛される登場人物は一気に激減します。漢学・和歌の教養がない中流・下流の貴族にシフト。教養のなさをおもしろおかしく記述するようになります。

そのため「枕草子」の後半は、平安貴族のユニークなやりとりや、教養はないがどこか憎めない男性がたびたび登場。みんなで笑いあう場面を入れることで、失脚後の中宮定子の姿を明るいものにしようとしました。

無骨だけど人はいい!橘則光

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清少納言の旦那さんとして知られる貴族が橘則光。中流貴族にあたる人物です。東北エリアを統括する陸奥守などの地方官を歴任していました。

清少納言と結婚するものの離婚

清少納言の夫として有名な則光ですが、残念ながら離婚するに至ります。則光の人物像を伝えるのが「今昔物語集」。それによると、3人の盗賊に襲われときに逆に取り押さえた、いわゆる体育会系の男性でした。

和歌を詠むなど教養を愛する清少納言。しかし橘則光は、和歌に対して上手く返答するなどの気転はなし。趣向の違いから徐々に溝が深まり、離婚することになったと言われています。

離婚後も清少納言と良好な関係を継続

とはいえ、清少納言と橘則光は離婚後も良好な関係を維持しました。宮中のなかで顔を合わせる機会が多かった2人。兄(せうと)、妹(いもうと)と互いを呼びあう仲で、宮中でも公認だったようです。

しかしながら、則光の上司にあたる藤原斉信が清少納言を藤原道長の派閥に入れようとしたことで、2人の関係は微妙に。仲たがいをしたわけではないのですが自然消滅となってしまいました。

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