井伊直弼の死後、近江彦根藩は倒幕派に回る
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことで安政の大獄が終わり、処罰されていた者達の中には政治に復帰した者もいます。その代表とも言えるのが一橋慶喜で、かつて将軍継嗣問題において井伊直弼の南紀派に敗れた一橋派が推していた後継ぎの将軍です。
一橋慶喜は徳川慶喜と改めて15代将軍に就任、これが幕府最後の征夷大将軍になりました。徳川慶喜も将軍職に就いていた期間は1年足らずであり、大政奉還を行って天皇に政権を返上した後、戊辰戦争が起こって長く続いた幕府の時代が終わりを迎えます。
また、井伊直弼の暴虐な政治に対する罰なのか、井伊直弼が藩主を務めていた彦根藩は京都守護職を解かれてしまい、石高も35万石から25万石まで減らされてしまいました。当然彦根藩はこれを不服としており、そのため後の戊辰戦争では新政府側……つまり倒幕派に回ることになります。
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井伊直弼は襲撃計画を知っていた
桜田門外の変は水戸藩を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らが計画しましたが、実はこの計画は不穏な動きがあるとして幕府も情報を掴んでいたようです。このため、松平信発が井伊直弼に対して襲撃の計画があることを警告、大老の辞職や帰国をすすめていました。
しかし、井伊直弼はこれを拒否しています。この警告は桜田門外の変が起こる3月3日の直前の2月下旬のことであり、さらに桜田門外の変が起こる当日の未明にも同様の警告がありました。井伊直弼がこうした警告を無視したのは、決して信用しなかったわけではありません。
警備や護衛を強化すれば、それは「政治の方向を誤ったことに対する非難に動揺している」と思われてしまうのを怖れたからで、襲撃される危険性を承知の上で敢えて無視したのです。井伊直弼は居合も修練していましたが、襲撃された際は銃弾を受けたことでそれを発揮することはできませんでした。
桜田門外の変は井伊直弼について覚えた方が知識が身につく
桜田門外の変はわずか10分程の間に行われた事件で、そのため事件内容自体にそれほど重要なポイントはありません。重要なのは「なぜ井伊直弼が暗殺されることになったのか?」でしょう。
これは桜田門外の変よりも井伊直弼について覚えた方が知識が身につき、その過程で自然に将軍継嗣問題や日米修好通商条約や安政の大獄の知識も身につけることができますよ。