雛祭りの白昼の襲撃
桜田門外の変とは、1860年に江戸城桜田門外にて井伊直弼が暗殺された事件です。襲撃したのは水戸藩を脱藩した浪士らで、事件は雛祭りの3月3日に起こりました。当日午前9時、大名の登城の見物人の中に水戸脱藩浪士らが紛れ込み、井伊直弼の駕籠が桜田門外に差しかかったあたりで襲撃します。
警備兵もいましたが、この時襲撃者達にとって2つの有利な状況がありました。1つは過去に大名駕籠が襲われたことはなく、そのため警備が手薄になっていたこと、もう1つは雪で視界が悪く、また雪から刀を守るために鞘に袋がかけられていたことです。このため、警備側は襲撃に対して素早い対処や迎撃ができませんでした。
駕籠の中にいた井伊直弼も銃弾を受けて重症、身動きがとれない中で警備する兵士達は次々とやられていきます。襲撃者達は駕籠の外から何度も刀を突き立てた後、瀕死の井伊直弼を駕籠の外に引きずり出すと斬首して殺害したのです。襲撃開始から井伊直弼が殺害されるまでのこの時間、わずか10分程度だったと言われています。
井伊直弼の死後
大老が脱藩浪士に殺害されたとなれば、幕府の権威は失われてしまうでしょう。また、事実を明かせば藩主を殺害された近江彦根藩が水戸藩に対して報復する可能性もあります。さらに、水戸藩を処罰してしまえば、襲撃犯と同じ脱藩浪士が生まれて再び今回のような事件が再び起こるのが明白でしょう。
そこで幕府は井伊直弼が病死したことにしましたが、桜田門外の変は白昼堂々の犯行だったことから目撃者も多く、そのため井伊直弼が暗殺されたことは結局江戸中に知れ渡ってしまいます。それどころか、井伊直弼の死と幕府の隠蔽を皮肉った川柳が相次いで登場するほどでした。
桜田門外の変の事件の襲撃者達は逃走するものの、井伊直弼の首をとった有村次左衛門(ありむらじざえもん)は負傷した末に自刃します。また、他の襲撃者達も捕縛されるか自首をした後に処刑され、桜田門外の変で井伊直弼を襲撃したこの者達は、後に「(桜田)十八烈士」と呼ばれようになりました。
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