問題行動1. 将軍継嗣問題
将軍継嗣問題とは、徳川家定の後継ぎをめぐって起こった争いです。13第将軍の徳川家定は病弱で、そのため後継ぎを誰にするのか早々と問題視されており、この時に次期将軍の候補として挙がったのが一橋慶喜と徳川慶福でした。
このため一橋慶喜を推薦する一橋派、徳川慶福を推薦する南紀派、それぞれが争うことになります。この問題で最終的に勝利したのは南紀派で、徳川家定の死後は徳川慶福(将軍に就いた時に徳川家茂と名を改める)が14代将軍となったのです。
ではなぜ南紀派が勝利できたのか?…それは南紀派の井伊直弼が大老へと就任したためで、大老は将軍の補佐役として江戸幕府において老中の上に置かれた最高の役職でした。つまり勝因は井伊直弼の権威の強さであり、井伊直弼はこれを機会に幕府の権力をより強くしようと考えたのです。
問題行動2. 日米修好通商条約の調印
1858年、日本はアメリカと不平等条約となる日米修好通商条約を結びます。日本の開国後、総領事として下田に赴いていたハリスは日本の日米修好通商条約への調印を求めました。調印には天皇の許可である勅許が必要ですが、当時の天皇・孝明天皇は攘夷派として知られており、そのため勅許がおりるはずありません。
即時調印と求めるハリスと勅許するつもりのない孝明天皇、板挟み状態となった幕府の交渉担当が井伊直弼の指示を仰ぎます。基本的に「勅許は必須」と考える井伊直弼でしたが、指示の中で交渉担当は無勅許での調印の許可がおりたと勘違してしまい、そのため日米修好通商条約に無勅許で調印したのです。
交渉担当の勘違いとは、結果的に無勅許での調印は井伊直弼の判断という形になりますし、その井伊直弼は幕府の大老ですね。このため朝廷は幕府に対して激怒、また海外と不平等条約を結んだことで井伊直弼は攘夷派からも反発されることになりました。
幕藩体制を無視した朝廷による戊午の密勅
安政の大獄とは1858年に江戸幕府が行った弾圧です。ただし、あくまでそれは形式上であり、実際に弾圧の命令を下していたのは井伊直弼でした。事の始まりは、日米修好通商条約の無勅許での調印問題に対して朝廷・孝明天皇による戊午の密勅でした。
不平等条約を無断で締結した幕府に対して、薩摩藩士と水戸藩士は攘夷派の再起を促すために朝廷に働きかけ、これに対して孝明天皇は水戸藩に戊午の密勅を下します。戊午の密勅の内容を大まかに言うと、「攘夷推進の幕政改革の遂行」、「日米修好通商条約の無勅許での調印に対する叱責」です。
つまり孝明天皇は水戸藩に対して幕府を非難した上で幕政改革の指示をしており、戊午の密勅とはそのための文書でした。また、これは朝廷が幕府を通さずに1つの藩に対して全国の藩をまとめさせる指示をしており、これは幕藩体制を完全に無視した前代未聞の朝廷の政治関与になります。
弾圧による力での治安回復と孤立する井伊直弼
戊午の密勅による朝廷の政治関与に対して、幕府は厳しい姿勢で臨みます。取り調べの上、長野主膳からの報告で戊午の密勅に至った首謀者を特定、それで名前が挙がったのが梅田雲浜(うめだうんぴん)であり、彼を捕縛してこれが安政の大獄の幕開けにもなりました。
さらに井伊直弼は日米修好通商条約の無勅許での調印問題について、自派の堀田正睦と松平忠固に罪を着せて排除します。処罰の対象は将軍継嗣問題で敵対した一橋派、外国人の排除を唱える攘夷派、さらには朝廷にまで及んでいきました。
戊午の密勅が下った水戸藩に対しては密勅の返納を命じ、幕府内においても井伊直弼の意に背く者は容赦なく処罰、もしくは免職にしていったのです。この安政の大獄による弾圧によって力による治安回復を目指すものの、一方で確実に反感を買うことになり、取り締まりの中では武力による倒幕の計画まで発覚するほどでした。
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