今日は桜田門外の変について勉強していきます。桜田門外の変とは、井伊直弼が暗殺された事件であることは言うまでもないでしょう。しかし、井伊直弼は誰になぜ暗殺されたのでしょうか。

それを知るには少し時間をさかのぼり、井伊直弼という人間、そして彼が行ってきたことを辿っていくとハッキリするでしょう。江戸幕府の滅亡を加速させたこの事件、今回は桜田門外の変をテーマにして日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から桜田門外の変をわかりやすくまとめた。

井伊直弼の人物像

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誕生から藩主になるまで

井伊直弼は近江国の彦根城にて、近江彦根藩の13代藩主・井伊直中の元に十四男として生まれます。藩主の子ではあったものの、井伊直弼は庶子(正室ではない女性から生まれた子)である上に兄弟も多く、そのため養子の縁もなく家督を相続していない部屋住みとして三の丸尾末町の屋敷に住んでいました。

この屋敷では17歳から32歳まで約15年間過ごしていましたが、何もしていなかったわけではなく、国学者・長野主膳(ながのしゅぜん)の弟子となって国学を学んでいたようです。しかし、藩主となる未来が見えないことを憂ってか、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けて世捨て人のように過ごしていました。

ただこの頃、井伊直弼は茶道を本格的に学んでおり、そのため茶人として成功します。そんな井伊直弼にとって転機となったのは、1846年に14代藩主・井伊直亮の後継ぎとされていた井伊直元が死去したことでした。藩主の井伊直亮は井伊直弼の兄であり、そのため井伊直弼は兄の養子となって彦根藩の藩主の後継者となったのです。

江戸城の溜詰として存在感を発揮

藩主である兄・井伊直亮が死去すると井伊直弼は近江彦根藩の15代藩主に就任、藩政改革を行った成果が認められて名君と呼ばれるほどになりました。ちなみに、藩政改革とは各藩が財政の再建を目的に行うもので、言わば政治・経済の改革を意味します。

さらに、井伊直弼は江戸城において溜詰としてその存在感を発揮しました。1853年のペリーの黒船来航時には江戸湾の防備で活躍、またその際のアメリカの要求に対して鎖国体制を継続してきた日本に対して開国を進言するなどもしています。

最も、幕政に参与する者の中には外国を撃退して鎖国を通そうする排外思想……すなわち攘夷論を唱える者もいましたから、開国派の井伊直弼と衝突することもありました。しかし、ここでも井伊直弼の抗議によって溜詰の意向がくまれるなど、幕政における井伊直弼の力は強くなっていったのです。

井伊直弼のとった2つの問題行動

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問題行動1. 将軍継嗣問題

将軍継嗣問題とは、徳川家定の後継ぎをめぐって起こった争いです。13第将軍の徳川家定は病弱で、そのため後継ぎを誰にするのか早々と問題視されており、この時に次期将軍の候補として挙がったのが一橋慶喜と徳川慶福でした。

このため一橋慶喜を推薦する一橋派、徳川慶福を推薦する南紀派、それぞれが争うことになります。この問題で最終的に勝利したのは南紀派で、徳川家定の死後は徳川慶福(将軍に就いた時に徳川家茂と名を改める)が14代将軍となったのです。

ではなぜ南紀派が勝利できたのか?…それは南紀派の井伊直弼が大老へと就任したためで、大老は将軍の補佐役として江戸幕府において老中の上に置かれた最高の役職でした。つまり勝因は井伊直弼の権威の強さであり、井伊直弼はこれを機会に幕府の権力をより強くしようと考えたのです。

問題行動2. 日米修好通商条約の調印

1858年、日本はアメリカと不平等条約となる日米修好通商条約を結びます。日本の開国後、総領事として下田に赴いていたハリスは日本の日米修好通商条約への調印を求めました。調印には天皇の許可である勅許が必要ですが、当時の天皇・孝明天皇は攘夷派として知られており、そのため勅許がおりるはずありません。

即時調印と求めるハリスと勅許するつもりのない孝明天皇、板挟み状態となった幕府の交渉担当が井伊直弼の指示を仰ぎます。基本的に「勅許は必須」と考える井伊直弼でしたが、指示の中で交渉担当は無勅許での調印の許可がおりたと勘違してしまい、そのため日米修好通商条約に無勅許で調印したのです

交渉担当の勘違いとは、結果的に無勅許での調印は井伊直弼の判断という形になりますし、その井伊直弼は幕府の大老ですね。このため朝廷は幕府に対して激怒、また海外と不平等条約を結んだことで井伊直弼は攘夷派からも反発されることになりました

安政の大獄による弾圧

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幕藩体制を無視した朝廷による戊午の密勅

安政の大獄とは1858年に江戸幕府が行った弾圧です。ただし、あくまでそれは形式上であり、実際に弾圧の命令を下していたのは井伊直弼でした。事の始まりは、日米修好通商条約の無勅許での調印問題に対して朝廷・孝明天皇による戊午の密勅でした。

不平等条約を無断で締結した幕府に対して、薩摩藩士と水戸藩士は攘夷派の再起を促すために朝廷に働きかけ、これに対して孝明天皇は水戸藩に戊午の密勅を下します。戊午の密勅の内容を大まかに言うと、「攘夷推進の幕政改革の遂行」「日米修好通商条約の無勅許での調印に対する叱責」です。

つまり孝明天皇は水戸藩に対して幕府を非難した上で幕政改革の指示をしており、戊午の密勅とはそのための文書でした。また、これは朝廷が幕府を通さずに1つの藩に対して全国の藩をまとめさせる指示をしており、これは幕藩体制を完全に無視した前代未聞の朝廷の政治関与になります。

弾圧による力での治安回復と孤立する井伊直弼

戊午の密勅による朝廷の政治関与に対して、幕府は厳しい姿勢で臨みます。取り調べの上、長野主膳からの報告で戊午の密勅に至った首謀者を特定、それで名前が挙がったのが梅田雲浜(うめだうんぴん)であり、彼を捕縛してこれが安政の大獄の幕開けにもなりました。

さらに井伊直弼は日米修好通商条約の無勅許での調印問題について、自派の堀田正睦と松平忠固に罪を着せて排除します。処罰の対象は将軍継嗣問題で敵対した一橋派、外国人の排除を唱える攘夷派、さらには朝廷にまで及んでいきました。

戊午の密勅が下った水戸藩に対しては密勅の返納を命じ、幕府内においても井伊直弼の意に背く者は容赦なく処罰、もしくは免職にしていったのです。この安政の大獄による弾圧によって力による治安回復を目指すものの、一方で確実に反感を買うことになり、取り締まりの中では武力による倒幕の計画まで発覚するほどでした。

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井伊直弼の暗殺・桜田門外の変

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雛祭りの白昼の襲撃

桜田門外の変とは、1860年に江戸城桜田門外にて井伊直弼が暗殺された事件です。襲撃したのは水戸藩を脱藩した浪士らで、事件は雛祭りの3月3日に起こりました。当日午前9時、大名の登城の見物人の中に水戸脱藩浪士らが紛れ込み、井伊直弼の駕籠が桜田門外に差しかかったあたりで襲撃します。

警備兵もいましたが、この時襲撃者達にとって2つの有利な状況がありました。1つは過去に大名駕籠が襲われたことはなく、そのため警備が手薄になっていたこと、もう1つは雪で視界が悪く、また雪から刀を守るために鞘に袋がかけられていたことです。このため、警備側は襲撃に対して素早い対処や迎撃ができませんでした

駕籠の中にいた井伊直弼も銃弾を受けて重症、身動きがとれない中で警備する兵士達は次々とやられていきます。襲撃者達は駕籠の外から何度も刀を突き立てた後、瀕死の井伊直弼を駕籠の外に引きずり出すと斬首して殺害したのです。襲撃開始から井伊直弼が殺害されるまでのこの時間、わずか10分程度だったと言われています。

井伊直弼の死後

大老が脱藩浪士に殺害されたとなれば、幕府の権威は失われてしまうでしょう。また、事実を明かせば藩主を殺害された近江彦根藩が水戸藩に対して報復する可能性もあります。さらに、水戸藩を処罰してしまえば、襲撃犯と同じ脱藩浪士が生まれて再び今回のような事件が再び起こるのが明白でしょう。

そこで幕府は井伊直弼が病死したことにしましたが、桜田門外の変は白昼堂々の犯行だったことから目撃者も多く、そのため井伊直弼が暗殺されたことは結局江戸中に知れ渡ってしまいます。それどころか、井伊直弼の死と幕府の隠蔽を皮肉った川柳が相次いで登場するほどでした

桜田門外の変の事件の襲撃者達は逃走するものの、井伊直弼の首をとった有村次左衛門(ありむらじざえもん)は負傷した末に自刃します。また、他の襲撃者達も捕縛されるか自首をした後に処刑され、桜田門外の変で井伊直弼を襲撃したこの者達は、後に「(桜田)十八烈士」と呼ばれようになりました。

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桜田門外の変にまつわるエピソード

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井伊直弼の死後、近江彦根藩は倒幕派に回る

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことで安政の大獄が終わり、処罰されていた者達の中には政治に復帰した者もいます。その代表とも言えるのが一橋慶喜で、かつて将軍継嗣問題において井伊直弼の南紀派に敗れた一橋派が推していた後継ぎの将軍です。

一橋慶喜は徳川慶喜と改めて15代将軍に就任、これが幕府最後の征夷大将軍になりました。徳川慶喜も将軍職に就いていた期間は1年足らずであり、大政奉還を行って天皇に政権を返上した後、戊辰戦争が起こって長く続いた幕府の時代が終わりを迎えます。

また、井伊直弼の暴虐な政治に対する罰なのか、井伊直弼が藩主を務めていた彦根藩は京都守護職を解かれてしまい、石高も35万石から25万石まで減らされてしまいました。当然彦根藩はこれを不服としており、そのため後の戊辰戦争では新政府側……つまり倒幕派に回ることになります。

井伊直弼は襲撃計画を知っていた

桜田門外の変は水戸藩を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らが計画しましたが、実はこの計画は不穏な動きがあるとして幕府も情報を掴んでいたようです。このため、松平信発が井伊直弼に対して襲撃の計画があることを警告、大老の辞職や帰国をすすめていました。

しかし、井伊直弼はこれを拒否しています。この警告は桜田門外の変が起こる3月3日の直前の2月下旬のことであり、さらに桜田門外の変が起こる当日の未明にも同様の警告がありました。井伊直弼がこうした警告を無視したのは、決して信用しなかったわけではありません。

警備や護衛を強化すれば、それは「政治の方向を誤ったことに対する非難に動揺している」と思われてしまうのを怖れたからで、襲撃される危険性を承知の上で敢えて無視したのです。井伊直弼は居合も修練していましたが、襲撃された際は銃弾を受けたことでそれを発揮することはできませんでした。

桜田門外の変は井伊直弼について覚えた方が知識が身につく

桜田門外の変はわずか10分程の間に行われた事件で、そのため事件内容自体にそれほど重要なポイントはありません。重要なのは「なぜ井伊直弼が暗殺されることになったのか?」でしょう。

これは桜田門外の変よりも井伊直弼について覚えた方が知識が身につき、その過程で自然に将軍継嗣問題や日米修好通商条約や安政の大獄の知識も身につけることができますよ。

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幕末日本史歴史江戸時代

大老・井伊直弼の暗殺事件!「桜田門外の変」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は桜田門外の変について勉強していきます。桜田門外の変とは、井伊直弼が暗殺された事件であることは言うまでもないでしょう。しかし、井伊直弼は誰になぜ暗殺されたのでしょうか。

それを知るには少し時間をさかのぼり、井伊直弼という人間、そして彼が行ってきたことを辿っていくとハッキリするでしょう。江戸幕府の滅亡を加速させたこの事件、今回は桜田門外の変をテーマにして日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から桜田門外の変をわかりやすくまとめた。

井伊直弼の人物像

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誕生から藩主になるまで

井伊直弼は近江国の彦根城にて、近江彦根藩の13代藩主・井伊直中の元に十四男として生まれます。藩主の子ではあったものの、井伊直弼は庶子(正室ではない女性から生まれた子)である上に兄弟も多く、そのため養子の縁もなく家督を相続していない部屋住みとして三の丸尾末町の屋敷に住んでいました。

この屋敷では17歳から32歳まで約15年間過ごしていましたが、何もしていなかったわけではなく、国学者・長野主膳(ながのしゅぜん)の弟子となって国学を学んでいたようです。しかし、藩主となる未来が見えないことを憂ってか、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けて世捨て人のように過ごしていました。

ただこの頃、井伊直弼は茶道を本格的に学んでおり、そのため茶人として成功します。そんな井伊直弼にとって転機となったのは、1846年に14代藩主・井伊直亮の後継ぎとされていた井伊直元が死去したことでした。藩主の井伊直亮は井伊直弼の兄であり、そのため井伊直弼は兄の養子となって彦根藩の藩主の後継者となったのです。

江戸城の溜詰として存在感を発揮

藩主である兄・井伊直亮が死去すると井伊直弼は近江彦根藩の15代藩主に就任、藩政改革を行った成果が認められて名君と呼ばれるほどになりました。ちなみに、藩政改革とは各藩が財政の再建を目的に行うもので、言わば政治・経済の改革を意味します。

さらに、井伊直弼は江戸城において溜詰としてその存在感を発揮しました。1853年のペリーの黒船来航時には江戸湾の防備で活躍、またその際のアメリカの要求に対して鎖国体制を継続してきた日本に対して開国を進言するなどもしています。

最も、幕政に参与する者の中には外国を撃退して鎖国を通そうする排外思想……すなわち攘夷論を唱える者もいましたから、開国派の井伊直弼と衝突することもありました。しかし、ここでも井伊直弼の抗議によって溜詰の意向がくまれるなど、幕政における井伊直弼の力は強くなっていったのです。

井伊直弼のとった2つの問題行動

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