南北朝時代室町時代戦国時代日本史歴史

室町幕府の衰退を加速させた内乱「応仁の乱」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

応仁の乱の発生

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応仁の乱・対立勢力の図式

足利家の将軍継嗣それにおける守護大名の対立畠山家の管領の後継者争い、ここに3つの争いがあります。そして、この3つの争いが大規模な内乱となったのが1467年の応仁の乱です。この応仁の乱は西軍と東軍に分かれて戦うのですが、まず対立関係を明らかにしておきましょう。

西軍は山名宗全、東軍は細川勝元が筆頭となります。この2人は足利義政の将軍継嗣で対立しており、それがそのまま衝突している形なので分かりやすいでしょう。一方で、少々複雑なのが足利義政・義尚、義視の3人であり、当初東軍は将軍邸を占拠して3人の身柄を抑えました。このため、この時点では幕府は東軍の手中にあることになります。

しかし足利義視がその場から抜け出し、これは西軍が足利義視を将軍に立てる目的で誘ったためです。このため足利義視は西軍、足利義政・義尚はそのまま東軍になります。また足利義政からの信頼を失った畠山義就は西軍、畠山義就と家督を争った畠山政長は東軍に就きました

応仁の乱・終息

こうした起こった応仁の乱は京都から始まり、やがて地方へ、地方から全国へと広がっていきます。1467年に起こってから終わるまで約11年間、この戦いの中でそれぞれの勢力のトップに立つ山名宗全も細川勝元も死去しました。ただ、この2人の死去がきっかけで和睦の機会が生まれます。

そして和睦交渉の最中、足利義政は足利義尚に将軍の職を譲り、これによって幕府も機能を取り戻すことができました。さらに、山名宗全と細川勝元の死去後のそれぞれの後継ぎたる人物、山名政豊(やまなまさとよ)と細川政元(ほそかわまさもと)の間で和睦も成立します

2人の和睦の成立によって各地で起こる対立にも和解の兆しが見られるようになり、最終的には幕府で天下静謐(てんかせいひつ)の祝賀が行われたことで応仁の乱は終息しました。つまり応仁の乱の結末は和睦であり、勝者のいない空しい内乱となったのです。

応仁の乱・終息後

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